見出し画像

風花が舞う頃 13

 驚いて彼を見上げると、彼は照れ隠しのように歩調を早めてしまう。枝をぬうように注ぐ木漏れ日が眩しく、彼の表情が見えない。全身が心臓になったように打ち始め、脳がじんと痺れる。遠くから聞こえる甲高い子供の声、雨上がりの草いきれ、ウォーキングシューズを通して伝わる地面の感触、口内が水分を失っていく感覚。思考が働かない代わりに、五感が総動員され、この瞬間を記憶しようとしている。

 彼は私を振り返り、何もなかったように尋ねる。
「風花さんに、相談に乗ってほしいことがある。以前、大学と地域の連携の話をしたね。アウトリーチ活動は、いろいろ考えてたけど、市民大学や社会人学生の増員以外に、継続的に取り組めることはないかな?」

 話題を変えてしまった彼をずるいと思った。だが、これ以上、話が深まったら、私は冷静に選択できなくなる。いまは、彼のバランス感覚に感謝すべきだろう。胸に熱い余韻を感じながら、彼の質問の答えを考える。

「そうですね。3つ思いつくことがあります。1つ目は、O大で国際社会学専門の先生を採用して、県内の日系人コミュニティをはじめ、外国人の多い地域の状況を継続的に調査し、学会で発表することだと思います。それを講義や市民大学でも発信し、地域社会の理解を深めるべきだと思います。そうしたことをする先生がいないので、専門外の私が講義で取り上げている状況ですから」

「なるほど。それは、国際関係学部を持つ大学としてやるべきだね。因みに、風花さんにやってもらうのではだめかな?」

「私の専門はアメリカ政治で、社会学のフィールドワークのノウハウは習得していません。共同研究にするなら、何等かのかたちでお手伝いできると思いますが」

「そうか。国際社会学の教員採用のことは考えておくよ。2つ目は?」

「外国人、特に南米出身の日系人を対象にした介護施設です。1990年代に来日した世代は、いずれ介護が必要になります。そうしたとき、日本人対象の施設だと、彼らは言語・文化的な違いで、疎外感を覚えると思います。言葉が通じない、食事が合わない、同世代の日本人が懐かしむ歌を知らないなど。日本人スタッフも対応に苦慮すると思います。だから、O大が、外国人の高齢者が安心して過ごせる施設をつくれないかと思うんです。もし、実現すれば、県内だけではなく、日本中から入所者が集まると思います」

「なるほど。社会情勢に疎い医者からは出なそうな発想だ」

「H大の同僚に、祖父母と両親と一緒に中国から引き揚げてきた中国人がいます。彼女が、自分の父親をショートステイに出したとき、言語・文化的な壁を感じ、中国語が通じる施設があったらと思ったそうです。同じニーズは、県内の外国人にもあると思います」

「確かに、これから需要がある分野だ。認知機能が落ちるにつれ、母語でしかコミュニケーションが取れなくなるからね」

「はい。問題は、予算とスタッフですよね。恐らく、入所者のほとんどは高額な費用を払える経済状況ではないので、入居費は特養レベルに抑える必要があります。大口出資者やクラウドファンディングを通じて、継続的に予算を確保できないと立ちゆきませんね。いまは翻訳アプリも普及していますが、外国語ができる介護、看護スタッフの確保も必須です」

「おっしゃる通りだ。人材育成、予算も含め、理事会にかけてみよう。最後の1つは?」

「医療費が心配で受診できない外国人を対象にした健康診断です。大学生の頃、夏休みに地元に戻って、外国人の健康診断のボランティアをしました。運営主体は、地元の支援団体で、医師、看護師、放射線技師、ソーシャルワーカー、非医療従事者のボランティアが参加していました。受診者の多くは、国民健康保険や健康保険に入れないオーバーすてあや仮放免中の外国人でした。項目としては、看護師の問診、身長と体重の測定、採血、胸部レントゲン、ボランティア医師の診察と健康相談。検査結果は後日郵送されます。お昼は健康診断を受けた外国人ボランティアが、作って下さいました。私は英語通訳として参加し、貴重な経験をしました。翌年は行われず、その団体が活動を継続しているかもわからない状態でした。
 もし、O大が継続的に関われば、続けていけると思います。医療系学部の卒業生の有資格者と学生さん、そして国際関係学部の学生も携われると思います。私の講義に、日系人が多く住む団地で育った学生がいて、彼らをサポートできる仕事に就きたいと言っていました。また、私がO大で教え、いまはH大の修士課程にいる日系ブラジル人は、ポルトガル語、英語、日本語ができるので、通訳ができると思います。こうした学生にとっても、将来につながる貴重な経験になると思います」

「なるほど。それなら、うちの病院スタッフに協力を募れそうだ。うちの学生にも、運営を手伝ってもらえそうだね」

「ええ。問題は、何が主体になり、予算をどう確保するかです。ゼミ、サークル……」

「それなら、国際関係学部の教員に顧問になってもらい、ボランティアサークルを作ればいい。予算は大学がサークルに出している基準で拠出できる」

「顧問になってくれる先生は、どなたですか?」

汐見しおみ教授を考えている。彼は国際開発論が専門で、外務省在外公館派遣員、外務省専門調査員として、ラテンアメリカ諸国とマイアミにいたので、スペイン語が堪能。フィールドワークに強い先生で、研究業績は少ないが、僕の考えを共有してくれている同志だ。早速、相談してみよう」

「汐見先生なら、私も親しくさせていただいています。気さくで、情熱的で、良い方ですよね。彼から紹介された学生を、私がH大の大学院でお預かりしているんですよ」

「そうでしたか。もし、良ければ、風花さんも協力してくれないか? 講義を聞く限り、あなたは問題を構造的に捉えているので、大きな助けになる」

「私は非常勤ですが、大丈夫ですか?」

「もちろん。話がまとまったら、あなたの講義の受講者にも声を掛けて」

「喜んで!」
 真田小花や木村くんの顔が浮かび、何かが動き出す予感がした。生暖かい風が通り抜け、燃えるような緑がざわざわと鳴る。

                
                 ★
 夜のとばりが降り始め、街灯がまばゆい光を放っている。家に向かって歩きながら、デートの余韻を断ち切り、残っている仕事のことを考える。夕食を食べて仮眠したら、H大教員の新規採用候補者の論文を読み、来週の講義の準備をし、それが済んだら自分の論文書きにかかろう。

 実家の門に手をかけると、エプロンをかけた母が、忙しなく家から出てくる。

「あら、おかえり」

 薄暗いなかでも、母の髪が乱れ、全身にせかせかした雰囲気をまとっているのがわかる。手には祖父の夕食らしいお盆を持っている。

「おじいちゃんの夕飯?」

 母はご近所を意識し、声を落として早口で話し出す。
「おじいちゃんが、紫蘇しそに水をやろうとジョウロを持ってるとき、転んだの。お父さんが病院に連れていったら、右手首の骨が折れてたのよ。ギブスで固定してもらったけど、取れるまで1か月以上かかるって。その間、食事や着替え、すべて介助が必要なのよ。当面はお父さんが一緒に生活しながら介助するって。きき手だから大変よね」

「ええっ、電話してくれれば良かったのに!」

 祖父が大変なときに私は何をしていたのか。足元から闇に飲み込まれるような罪悪感が襲ってくる。

 母は、さばさばとした口調で答える。
「大人が2人いたから大丈夫よ。これから、夕飯食べさせるの」

「それ、代わるよ。お母さんは休んで」

 母はかすかに視線を泳がせた後、私にお盆を預ける。
「そ? じゃあ、お願いね」
 
 母は「これから、どうなることか」とぼやきながら家に入っていく。

 祖父の家に足を踏み入れると、ぬかと生活臭が混じった独特の臭いが鼻をつく。祖父母の作る糠漬けは、子供の頃から膳に上っていた。当時はこの臭いと共存してきたが、しばらくご無沙汰していると、馴染むまでに時間がかかる。

「お帰り」
 祖父の寝室から出てきた父が、疲労のにじむ声で言う。

「何も知らなくてごめん。おじいちゃんの食事の介助、私がするよ」

「ああ、助かる。しばらくこっちの居間で寝るから、2階から布団下ろさないとだ」

「私がやっとく。お母さんとご飯食べてきて」

「風花だって、疲れてるだろ」

「いいから、ご飯食べてきて」

「そうか? じゃあ、交代だな」

 玄関を出ていく父の背中を見て、知らないうちに老人らしくなっていることに気づかされる。親の老いを目の当たりにすると、恐ろしいほどの寂寥感が胸を吹き抜ける。両親ともに健康で、まだまだ元気でいてくれるという楽観が、じわじわと侵食されていく。

「お祖父ちゃん、入るよ」

 ベッドに仰向けに横たわる祖父の顔は、蛍光灯がつくる陰影のせいもあるが、生気を吸い取られたようにやつれて見える。身体に沿って盛り上がるタオルケットを見ると、身体が小さくなったことを思い知らされる。

 祖父の枕元に跪いて呼びかけると、目脂めやにで張り付いたまぶたを押し上げるように、細い目が開かれる。

ふうちゃんかい?」

 喉から絞り出すようなしわがれ声だ。かつての祖父は、教師時代の名残で、思わず振り返るほどの声量で話す人だった。

「ごめんね、遅くなって。大変だったね」

 祖父は天井を睨むような視線で、独り言のように呟く。
「もう、はあ、だめだな。すっころんだら、手首が飛んじまった」

「痛かったね。お祖父ちゃんは働きすぎだから、神様から少し休みなさいって言われたんだよ」

「目は見えない、耳は聞こえない、脚もきかなくて、すっころぶ。爺さんなんて嫌だ、嫌だ」

「手、痛くない?」

「痛み止め打ってもらったから、そうでもない」

「良かった。ご飯食べられる?」

「食べる。腹が減ってしょうがない。もう、はあ、お昼も夜も食べてない」

 白いギブスを付けた手首を支えながら、祖父が上半身を起こすのを助け、背中に厚めの座布団2枚を2つ折りにしてあてる。大きめのクッションを用意しなくてはと思う。

 左手は使えるので、自分で食べるという祖父を説き伏せ、ご飯と刻んだ筍の煮物をスプーンで口に運ぶ。口を開ける祖父にスプーンを運びながら、祖父の世話ができることに、身体の底から突き上げるような感慨が湧いてくる。祖父は、共働きの両親に代わり、私が小学生の頃から世話をしてくれた。東京の大学に進学したいと主張する私に、両親と祖母が反対するなか、唯一味方になってくれた。

 レンゲで、かきたま汁を祖父の口に運び、ティッシュで口元を拭う。飲み込んだのを確認しながら、祖父のペースに合わせてスプーンを口に運ぶのは忍耐が必要だ。それが高齢の両親にのしかかると思うと、暗澹とした気分になる。頭がしっかりしている祖父も、介助されることに抵抗を感じているに違いない。互いに悠々自適に過ごしていた家族のバランスが崩れつつある。せめて、母の食事作りの負担を減らすために、高齢者向きの宅食サービスを手配しよう。最近は、高齢者向きに栄養バランスを計算されたものがあると聞いた。

 今年で定年を迎える篠田先生が、親の介護をする覚悟がないまま、現実が先行し、それについていくだけだったと言っていた。彼の親は、祖父と同世代かと思うと、その言葉が現実味を帯びて迫ってくる。

 薬の説明書を見ながら、祖父の口に3種類の錠剤を入れ、コップの水で飲み込ませる。水をこぼさないように、ストローや吸い飲みを用意したほうがいい。2年前に亡くなった祖母が、吸い飲みを使っていたが、どこにしまったか見当がつかない。

「手間かけるね、骨がくっつくまでの辛抱だ」

「何言ってるん、私はお祖父ちゃんの助けになれて嬉しいんだよ。私はお祖父ちゃんに育てられて、ここまで大きくなったんだから。今年は、もう、はあ、40だよ」

 祖父は自由の効く左手で口元を軽く拭う。

「風ちゃん」

 祖父は食器をお盆に戻す私に視線を注ぎ、痰の絡んだ声で切り出す。
「O大に移る話があるんだって?」

 あれほど念を押したのにと両親を呪いながら答える。
「まだ考えてる。簡単に決められなくてさ」

 祖父は左手の人差し指で唇のはじを軽くひっかき、小さく咳払いをした。私と目を合わせると、さっきより芯のある声で言う。
「風ちゃんの人生を一番に考えるんだよ」

 祖父は子供の私を諭すときの眼差しになり、私を正面から見据える。 
「H大の専任になるまで、風ちゃんはどれだけ苦労したの。そうして掴んだ地位を簡単に手放してはいけない」

 祖父は咳払いをもう一度した後、言い含めるように声を絞り出す。
「おこんじょう(意地悪)になってもいい。後悔しない選択をしなさい」

「ありがと。でも、今まで散々わがまま言ってきたからさ。大学を卒業したら、戻る約束だったのに……。きっと、O大は、これからどんどん良くなるよ」

 反射的にO大を庇う発言をした自分に当惑し、ごくりとつばを飲み込む。 

「O大なんて、三流の新参大で、H大の足元にも及ばないじゃないか。働き盛りで、H大を去るなんて、都落ちもいいとこだ!」

 祖父の一語一語を噛み含めるような口調には、自身に言い聞かせる響きがあった。そこに、本当は帰ってきてほしいという本心が透けて見えた。祖父の強がりは、両親のストレートな物言いよりも胸を締めつける。

「お祖父ちゃん……」

「たまに顔を見せてくれれば十分だっ」

「入れ歯、外す? ケース持ってくるね」

 祖父の傍にいると泣いてしまいそうで、逃げるように洗面所に立つ。

「どうすればいいの……」

 頭を抱え、真っ暗な洗面所に座り込むと、霧のなかで八方塞がりに陥ったような心細さに襲われる。龍さんに助けを求めたいが、今の段階では、そうすべきではない。O大の話がなかったら、こんなに悩まされることはなく、私が週末ごとに帰って介護を手伝うことで落ち着いたはずなのに……! 見当違いのところに、怒りをぶつけている自分に嫌気がさす。