コラボ小説「ピンポンマムの約束」8
本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。
※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。
月曜の朝の精神状態は最悪だった。「中学時代の友達は、補導されたあたしと仲良くしてくれたせいで、内申書が悪くなったかもしれない」という強迫観念に悩まされ、眠れないまま朝を迎えた。生理が始まる兆候の鈍い腰痛も鬱に拍車をかける。
朝食の味噌汁を手に取ったとき、「高校の友達は、あたしが余計なことを言わなければ退学しなかったかもしれない」という新たな強迫観念に侵入された。血の気が潮のように引き、呼吸が浅くなる。どうして強迫観念は、あたしが嫌がることを狙って攻めてくるのだろう。朝食を流し込むことさえも億劫になる。
何であたしは、人に迷惑しか掛けられないのか。こんなあたしは、生きてる意味なんてない。これ以上、ここで治療してもらう意味はない。良くなっても、中卒ではバイトくらいしか見つからないし、あたしと結婚してくれる人なんていない。家に寄生していても、父さんやばあちゃんの負担にしかならない。人生に何も希望が持てないクズは、福祉のお世話になって税金泥棒になるより死んだほうがましだ!
刃物を取り上げられていなければ、衝動に任せて手首にあてていただろう。
人を呪うエクスポージャーをする気力なんて湧かない。週末から、ぐずついた天気が続いているのは、外に出ない言い訳になる。ベッドに横たわると、寝返り一つ打つのもだるい。身体が重力に引かれ、地球に吸い込まれていきそうだ。
「おはよう、千秋さん」
服薬確認に来た海宝さんは、雲間から射す光のように精彩を放っている。今のあたしには、それがうっとうしい。
「”紫陽花の季節”シリーズ読んだわよ。今日は少し時間があるから、お話しできるわ。起きられる?」
海宝さんが、パイプ椅子を広げて枕元に座わり、あたしをのぞき込む。自分で読んでほしいと言ったので、邪険にするわけにはいかない。あたしは気力を振り絞って身体を起こす。
「千秋さんは、どんなところが気に入ったの?」
海宝さんは、好奇心を浮かべた瞳であたしを見る。
「夏越くんって、人間に生まれ変わった紫陽、実際はゆかりちゃんに再会するまで15年も待ってたじゃないですか。その間、ずっと探していたし。それに感動して……」
海宝さんはどう説明すべきか言葉を探すあたしに、やわらかい視線で寄り添ってくれる。
「あたし、2年前に婚約者の親に結婚を大反対されたんです。彼は親から、あたしと別れないなら学費を止める、二度と家の敷居をまたがせないと言われたんです。あたしのせいで彼が家族を失うのが耐えられなくて、自分から別れを切り出しました。そのときあたし、彼に言ったんです。あたしは学歴もなくて、飲酒、喫煙で補導されて、無免許運転で捕まったこともあるダメダメで、この世ではもうどうにもならないけど、生まれ変わったら誰にも文句を言わせない素敵な女性になるから一緒になろうって。彼は、俺も生まれ変わったら絶対に千秋ちゃんを見つけるから、そのときは結婚しようって泣きながら言ってくれたんです……。あたしが、このお話に親近感を覚えるのわかるでしょ?」
彼に愛された記憶の残滓は、今でもあたしを温め、どん底にあった気分を引き上げてくれる。
「だからあたし、死んだら生まれ変わって、彼の生まれ変わりに見つけてもらって、一緒になれると思うんです。そう思うと、強迫観念に追い詰められて自殺するのも怖くないなって」
唇を引き結び、表情を硬くしている海宝さんが気になったが、勢いづいたあたしは続ける。
「彼は、あたしが高校中退してファミレスでバイトしてたときの仲間でした。3歳年上の大学2年生。あたしは、自分が生まれたせいで母さんが死んだことを気にしてるけど、彼も同じように自分を責めてたんです。遅くまで遊んでいた高校生の彼を車で迎えにいったお兄さんが、交通事故で亡くなってしまったんです。そんな共通点があって、深く惹かれ合いました。彼は強迫観念が浮かんで動けなくなるあたしを受け入れて、真剣に励ましてくれた。だから、そのときは症状が軽かった。こんなあたしを蔑むことなく、心から愛して、大切にして、結婚しようと言ってくれた優しい人だったの……。彼の実家がある宮崎県に行って、ご両親に会う前に、彼は子供の頃から大好きな場所だった飫肥城本丸跡の杉林に連れてってくれた。樹齢を感じる杉が天に向かって伸びていて、苔が絨毯のように生い茂っていて、やわらかい木漏れ日に包まれてた。そこに2人で立って、自然と歴史の重みがくれるエネルギーを体いっぱいに浴びて勇気が出た……。あんなにあたしを大切にしてくれる人には、もう二度と出会えないよ……。手首を切って死にたいと思うほど強迫がひどくなったのは、彼を失ってから……」
「あなたの喪失感は理解できるわ。私も運命の人だと思った人とお別れした経験があるから」
海宝さんの口調は水面も揺らさないほど穏やかだが、強い感情を水面下に隠しているような圧を感じる。
「でも、”紫陽花の季節”シリーズが、あなたの自殺を後押しするように解釈されるのは賛成できない。紫陽は人間に生まれ変わって夏越と幸せになるために、精霊として死ぬことを選んだのよ。その意味で、私は生のエネルギーが脈打つ喪失と再生の力強い物語だと思うわ。結ばれなかった数多の恋人たちへの鎮魂と来世で結ばれることへの願いも込められていて、人間と自然の分かち難い関係を意識させられる作品だわ」
「海宝さんは幸せだから、そんなふうに思うかもしれないよっ。でも、学歴もないし、綺麗でもないし、警察のお世話になったこともあるし、こんな変な病気で、未来に何の希望も持てないあたしは、そんなふうに考えられない……!」
「もちろん、どう解釈するかは読者の自由よ。でも、自分の作品があなたの自殺を後押ししたと知ったら、著者のさくらゆきさんは、どんなに悲しむかしら……」
「けどっ、もう彼と結ばれないあたしは、二度と満たされない……。だから、どうしてもそういうふうに考えてしまうんです!!」
「喪失感はわかるわ。でも、思い出に閉じこもって、心を閉ざさないでほしいの。心を開いて、心を動かすものを受け入れて、あなたの人生を生きてほしい。私は、還暦近くまで、運命の人と一緒に人生を歩むことはできなかったけれど、心を閉ざさずに生きてきた。恋もした。離婚に終わったけれど彼以外の人と結婚したし、看護師という天職に巡り会えたわ……」
静かに言葉をつなぐ彼女は、人生を精一杯生きてきた誇りに満ちている。非難されたわけでもないのに、私は居心地の悪さを覚える。
「余計なことを言ってごめんなさいね。あなたが前向きになれるように、私たちも考えなくてはなりませんね」
海宝さんの口調は感情を削ぎ落したように穏やかだが、静かな落胆を含む余韻を残した。彼女は、目元を緩めて笑みを作り、タブレットを小脇に抱えて出ていった。
あたしの言ったことは、海宝さんをがっかりさせたかもしれないけど、嘘じゃない。まっとうな道を歩んできた海宝さんになんかわかんないよ! 自分の意見を上から目線で押し付けないでほしい!! 何であんな態度を取るの!
そう心の中で叫んだが、寂しいような後ろめたいような感情がシミのように胸に広がっていく。
あたしは、海宝さんをはじめ、金先生、米田先生に守られてきたのだ……。その安心感が、砂山を崩すように失われていくかもしれないことが怖い。世話をやかれることにぞわぞわしていたあたしは、いつの間にかそれが心地よくなっていたと気づき、眩暈がした。
★
「あなたは当たり前のように持っているものに気づいていないんです」
朝の回診にきた金先生は、パイプ椅子に座わって腕を組み、折れそうなほど細い足を組む。相変わらずAIのように血の通わない話し方だが、安心に似た心地良さを感じるのが不思議だった。
先生の意図がわからず、あたしはつるりとした顔を見返す。寝不足なのか血走った目とクマが目立つ。昨夜は当直だったのだろうか。疲れているのに、あたしのために何か言いに来たのかと思うと、ぞわぞわ感が全身を走り抜ける。
「ええと、何のことですか……?」
「あなたは、よく学歴がないとか、将来に希望がないとか、何もないことを強調しますよね。ですが、若いあなたは、学歴など、これからいくらでもつけられるじゃないですか。高校を中退したなら高卒認定試験を受ければいいでしょう。大学は少子化で定員割れを起こしているところばかりなのですから、希望すればどこかに入れるはずです。通信制だってあります。学費がないなら、日本学生支援機構の奨学金を借りればいいでしょう。大学を出れば、日本人のあなたが仕事を探すことは難しくないはずです。学歴と稼ぎがあれば、日本人のあなたなら、婚約者の親に結婚を反対されることはそうないでしょう」
金先生は抑揚のない口調で激流のようにまくしたてると、小さく鼻を鳴らし、足を組みかえる。
「先生みたいに、医学部入れる頭脳の人に言われても……」
先生は腕組みを解いて小さく息を吐き、白衣のポケットに手を入れて話し出す。
「いくら成績が良くても、仕事ができても、在日コリアンだというだけで、道を閉ざされることもあるんです。私の祖父も、父も、兄も、私も、多かれ少なかれそれを経験しました。東大を出た一番上の兄が就職で差別されるのを見て、私は医者になると決めました。医者になっても、朝鮮嫌いの医局長に僻地の病院に飛ばされたりしましたが。日本人のあなたなら、そういうことはないでしょう」
「あの、あたし、よくわからないけど、そういう差別まだあるんですね。日本人の名前にすればいいんじゃないですか?」
「していましたよ。昨年までずっと、金本司という日本名を名乗っていました」
「何で変えたんですか……?」
「やけになったからです」
「え?」
「私には大学時代からのパートナーがいました。彼の実家は、地方の総合病院でした。彼の両親は息子がゲイだと知っていて、パートナーと2人で病院を継いでほしいと思っていたのです。私は昨年、彼の両親に紹介され、とても気に入ってもらえました。でも、その数日後、両親から、息子と別れてほしいと懇願されました。私の出自を調べたらしく、在日には病院を継がせることはできないと。田舎の保守的な土地で、朝鮮人が院長や副院長だとわかったら評判が落ちるというのが理由です。私は彼の気持ちを聞きたいと主張しました。ですが、彼の両親は、私から彼を切り捨ててほしいと土下座するんです。手切れ金の話まで出されました」
「そんな……。先生はどうしたんですか?」
「言われた通りにしましたよ。他に好きな人ができたから別れてほしい、病院のこともなかったことにしてほしいと。もちろん、手切れ金など受け取っていません。あのときほど、自分の出自を憎んだことはありません。私は大学病院を辞め、縁もゆかりもないこの病院に来ました。日本名を名乗っていたために、こんなことになったのだから、もう金河俊という民族名で通してやろうと決めました」
彼の声は時折かすかに震えた。
AIのような仮面の下に、理不尽な差別への失望や憤りを隠していることが窺え、胸が潰れそうになった。言葉を探したが、鼻の奥がつんと痛んで何も言えなかった。
「あなたは、私が決して手にできないものを持っているんです。そのことを忘れないでください」
金先生は「少し話しすぎたようです」とぼやき、音を立てずにパイプ椅子から立ち上がった。
「一度、あなたの御家族とお話ししなくてはなりません。退院後のあなたがエクスポージャーを続けられるように、病気と治療について理解していただく必要があります」
「退院……?」
「ええ。エクスポージャーを習得し、ご自身で続けられるようになったら、外来でいいでしょう。もっとも、希死念慮が強いようでしたら退院は許可できません」
金先生は、パイプ椅子を端に寄せ、いつものように足音を立てずに出ていった。めずらしく、白衣にしわが目立った。
あたしは、退院の話が出たことに、少しの嬉しさと大きな不安を感じた。そして、感情を露わにすることのない金先生が、封印したい過去を話してまで、あたしを前向きにしてくれようとしたことに気づき、スリッパをつっかけて彼を追いかけた。
「金先生、ありがとうございますっ!」
先生は小さく振り返ったが、その表情は読みとれなかった。