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ピアノを拭く人 第1章 (5)

 店内に残っていた客は、会計を済ませて月明りの下に出ていった。
 マスターの羽生は、レジの前で老紳士とレコード談義に花を咲かせている。2人の会話は、身ぶり手ぶりを交え、マスクをしていても飛沫が飛びそうな勢いで続いている。
 彩子は水を差してはいけないと、トオルに目を移す。
 
 トオルはグランドピアノの大屋根を下ろしているところだった。
 彩子は黒いドレスシャツ姿の彼に近づき、ためらいがちに声をかける。
振り返ったトオルは一瞬目を瞠った。次の瞬間、長い睫毛に縁どられた瞳に、安堵の色がみるみる広がっていく。
「お久しぶりです! また来てくださって嬉しいです」
 彼の声のトーンは、歌っていたときよりも高かった。覚えていてくれるか自信がなかったので、彩子は彼の反応が意外に思えた。
「先日は、ピアノを聴きたいと言ってくださったのに、弾けなくて申し訳ございませんでした。それから、お話を遮ってしまって、大変申し訳ございませんでした」
 トオルは弾丸のようにまくしたてると、すみません、すみませんと何度も頭を下げた。忙しない空気の振動で、彼のつけている渋い香水の香りが彩子の鼻孔をくすぐった。
「いえ、こちらこそ、無理を言ってしまって。そんなに、お気になさらないでください」
「すみません。失礼なことをしてしまったと、ずうっと気になっていたもので」
「いえいえ、ご丁寧に……」
「また来てくださって、本当によかったです」
「遅くなってしまって、すみません。仕事が忙しくて、なかなか来られなくて」
 彩子は言い訳に後ろめたさを感じながら、彼の言動が伝染したように頭を下げる。
「いえいえ、こちらこそ、お気を遣わせてしまって申し訳ございません」
 謝罪合戦が一段落したころ、彩子はようやく紙袋を差し出せた。
「ありがとうございました。本当に助かりました。長い間、お借りしてしまってすみません」
 恭しく紙袋を受け取るトオルに、彩子は言い添える。
「ハンドクリームとハンドジェルが入っています。よかったら使ってください」
 トオルは、ありがとうございます、気を遣わせてしまってすみませんなど、ぶつぶつ言いながら袋を探る。
「このヘンプのクリーム、前に使ったことがあります。いいですよね。ありがとうございます」
「それならよかったです。ボディショップのロングセラー商品らしいですね。男の人にも愛用者がいると聞いたので」


「透、このお嬢さん、おまえが失礼なことをしてしまったって騒いでた方か?」
 老紳士との話を終えた羽生マスターが、話に割り込んできた。
「彼、あなたにピアノ弾いてほしいって言われたのに弾けなかったとか、会話を遮ってしまったとか、ずっと気にしてたんですよ。よかったな、また来てくれて」
 トオルが居心地悪そうに視線を泳がせる。
「あ、私、注文もせずに居座ってしまって、申し訳ございませんでした。次は必ず注文します」
 トオルの動揺を察した彩子は、場を繕うように羽生に謝罪した。
「いえ、全然いいんですよ。彼の演奏、気に入りましたか?」
「はい、もちろんです。歌やピアノを聴いていたときだけは、嫌なことを忘れて、ゆったりとした気分になれました。こんな気持ちになれたのは久しぶりです」
「それはよかった。ぜひ、また、来てくださいね」羽生は柔和な笑みを見せた。
「はい、近いうちに必ず。遅くまで、すみませんでした。では、失礼します」


「ちょっと待って」
 羽生はトオルを振り返って尋ねる。
「今日はまだ拭いてないんだろ? 1曲披露したらどうだ? 弾かないと、また申し訳なかったとか言い出すんだろ?」
「あ、ええ」
「彼は自分の手でピアノを汚すのを気にしていて、しつこいほどきれいに拭いてから帰るんですよ」
「ピアノに敬意を払っているんですね。きれい好きな方なのですね」
「それがね、自分の部屋がゴミだらけでも、汚いものを触るのも、まったく気にしないの。何て言うか、ここ数年、自分のことは気にならなくても、他人を傷つけることには異常なほど神経質になったんです……。お客さんとピアノに飛沫が飛ぶのが気になるとか言って、歌うときもマスク外さないし。コロナが流行って、目立たなくなったけど、その前からなんですよ」
「羽生さん、もういいでしょう!」
「俺は洗い物したら帰るから、いつものように鍵閉め頼むぞ」声を荒らげるトオルに肩をすくめ、羽生はバックルームに下がった。

 騒々しい羽生がいなくなると、居心地の悪い沈黙が満ちてくる。
 それを破ったのはトオルだった。
「もしよろしければ、1曲弾かせてください。好きな曲はありますか? 僕の弾けるものならいいのですが」
 トオルは彩子の目を見て、機械のように1音1音をゆっくりと発音して尋ねた。
「本当ですか? 私、ミュージカルの曲が好きです」
「僕もミュージカルが好きです。見果てぬ夢はいかがですか?」トオルは彩子が話し終わるのを待ってから、ゆっくりと言った。
「ラ・マンチャの男、大好きです。私、幸四郎さん、あ、今の白鸚さんの舞台を見に行ったんです。ぜひ、お願いします」
「彼のように、格好よく歌えませんが……」
 トオルは最初に英語で、次に日本語で弾き歌ってくれた。
 トオルの声は白鸚よりも高めのテノールだが、力強く、のびやかな安定した歌声で、安心して聴いていられる。時折顔を出す憂いは、彼の歌をもっと聴いてみたいという欲求を刺激する。

  あの夜も思ったが、彼が整った顔立ちだということは、大きなマスクをかけていてもわかる。切れ長の目と秀でた鼻梁、シャープな顎は、伊勢谷友介を彷彿させる。年齢も同じくらい、40代半ばくらいだろうか。歌うときくらい、マスクを外してくれてもいいのにと思った。


「素晴らしかったです。トオルさんが舞台に立ったら映えるでしょうね。一緒に歌ってみたいと思いました。私、大学のとき、ミュージカルのサークルだったんです」
「そうですか。どんな役をやったんですか?」
「大学祭でレ・ミゼラブルのエポニーヌをやりました」
「いいですね。僕はレ・ミゼに出てくる女性では、エポニーヌが一番魅力的に演出されていると思います。マリウスが好きなのに、彼の恋を応援しする薄幸で優しい女性に」
「でも、報われないですよね。実は私、マリウス役の先輩と付き合ってたのに、あの夜、振られちゃったんです……。笑っちゃいますよね」
 彩子は、トオルが真っ直ぐに自分を見据えているのに気づいた。
「あ、すみません、余計な話をしてしまって……」
 初対面も同然の人に、何を話してしまったのかと思い、彩子はこの場から逃げ出したくなった。

「歌ってみませんか?」
「え?」
「オン・マイ・オウン、歌ってみませんか? 今の感情を込めて歌えば、少し楽になるかもしれません」