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三重歴史紀行(番外編):はにわの世界

  旅行の最後に、国宝に指定された松阪市宝塚一号墳の埴輪たちを見て来ました。
 それらは松阪市文化財センターはにわ館におさめられています。なかでも「舟形埴輪」の実物が楽しみでした!
 
 埴輪のルーツは、弥生時代(3世紀末)に王の葬儀に備えられた壺やその壺を載せる台であると言われています。やがてこれが、円筒埴輪となり、前方後円墳の周囲をぐるりと囲むように置かれました。
 『日本書記』によれば、埴輪は殉死者たちの代わりに作られたと書かれていますが、人型埴輪が出現するのはこれよりかなり後の5世紀末から6世紀にかけてであり、信憑性は低いでしょう。

 宝塚一号墳は、5世紀の初頭に作られたものです。
 4世紀中ごろから、家や道具を象った形象埴輪が出現してきました。それらは、古墳の頂上に置かれ、死者の魂が籠る死後の居住を表していると言われます。
 やがて埴輪は古墳の頂上だけではなく、特別に作られた場所に置かれるようになります。丘のように盛った場所から突き出して平坦にした「造り出し」、周囲の豪へ細い通路で連結した「出島」、あるいは豪の中に独立した「中島」などの「舞台」が作られました。
 宝塚一号墳も前方後円墳です。

前方後円墳にともなう「造り出し」
造り出しの上には家形埴輪が置かれ、一段下がった外周には円筒埴輪、壺形埴輪が並ぶ。

 周囲を塀で囲まれている不思議な形の埴輪がありました。「囲形埴輪」と言われ、中の家の屋根を外すと、導水槽や井戸が内臓されています。塀は水路を囲むものなのですね。
これらは、「水の祭祀」に関わるものではないか、と言われています。

囲形埴輪

 実際にこのような建物と類似した居館が見つかっており(群馬県 三ツ寺Ⅰ遺跡)、実際の居館がモデルであったのではと考えられています。
 古代の王にとって「水」を支配する(治水)ことは権力の源です。そして、それを祭祀として行う時には巫女が必要となったことでしょう。
 この後、5世紀半ばになると、囲形、家形埴輪は、祭礼を表現する人形埴輪にとって替わられます。王や、それを取り巻く人々、儀式を執り行う巫女たち、当時の動物たちなど、豊かな文化を表す埴輪が大量に出土しています。
 宝塚1号墳は、その前夜ともいうべき無人の埴輪たちです。しかし、その中には現代まで続く強い祈りが渦巻いているような気がして、じっと見つめてしまいました。

2階建てに見えるんだけど…
1階部分は高い床なのだそう(高床式建物)
鳥だよね…?
船形埴輪

 船形埴輪は圧倒の存在感でした。
 左側には儀礼剣(太刀)が刺さり、右側の笠状のものは、「蓋(かさぶき)」と呼ばれるものです。太刀のほうが船首であると考えられています。「かさぶき」の先端には穿孔列があり、そこの吹き流しが結ばれ、船が海上を疾駆すると「かさぶき」から吹き流しが後方になびくようになっています。この舟は実際に海上で使われた造形であるそうです。
 船形埴輪は、出島と墳丘を繋ぐ土橋基部の両側から2つ見つかっていますが、片方は破片のみでした。しかし、一つはこれほど完璧な形で残っていたことに、びっくりします。
 王権の象徴もいうべき「太刀」が刺さった船。古墳の主は、海運をも支配する「伊勢の王」であったことは間違いないでしょうが、それがどのような人物であったのかは謎に包まれています。
 この舟形埴輪は、外部からは見えない位置に設置されていたようで、どちらというと、呪術的な意味あいで供えられたのかもしれないとも言われます。
 様々な文明において、船は「魂」をあの世に運ぶ象徴とされます。日本の古代でも、「船」があの世とこの世を繋ぐものであったと考えてもおかしくないと思います。
 その場合、彼等の「魂」はどのように考えられていたのでしょう。全国の古墳では「鳥」の埴輪がたくさん出土します。「鳥」は彼等の「魂」の象徴であったのかもしれません。
 そうなると、やはり、家形埴輪はあの世の家でもあるのでしょうか。

 日本の古墳はエジプトのピラミッドにも匹敵する大きさのものもあるのに、古代人の死生観については未だに謎に包まれたままです。古代の人たちの独特の世界をもう少し知ることができたらよいのに、と思います。

  参考文献

三重県宝塚一号墳出土埴輪が国宝に指定されました! - 文化財センター(はにわ館) - お肉のまち 松阪市公式ホームページ https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/bunkazai-center/takarazuka-itigouhun-hunegatahaniwa.html