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名古屋宝生会『雪待能』
ようやく秋の気配が…と思っていたら、あっという間に寒くなりました。
先日、名古屋宝生会の『雪待能』(なんて雅な名前!)へ行ってきました。前夜は「道長も眺めたであろう望月」が観られる日だったはずでしたが、あいにくと曇り空で、秋の名月は拝めませんでした。しかし、ここ能楽堂では「秋」を満喫することができました。
まずは能『楊貴妃』。
三番目もの、というのですから「女」が主人公。内容は比較的単純で、白居易の『長恨歌』をベースしたもので、作者は金春禅竹と言われています。
唐の玄宗皇帝に命令されて、亡き楊貴妃の魂を探して常世の国までやってきた方士。国のものに尋ねると、「明けても暮れても唐土が恋しいと泣いてばかりの玉妃というものが蓬莱宮にいる」と聞きます。方士が声を掛けると、やはりそれは楊貴妃の魂であったのです。
舞台の上に置かれた、紫の幕で覆われた作り物。それが蓬莱宮で楊貴妃が住むという宮殿なのです。
「九華の帳を押しのけて。玉の簾をかかげつつ」
という謡いとともに、楊貴妃が簾のうちから顔をのぞかせます。
ト書きに「玉簾」とあり、これは舞台上に設置された作り物の周囲に、鬘帯(本来は鬘の上から鉢巻きのように巻いて使う)を簾のように垂らす演出の意味だそうです。鬘帯は、その一本一本が美しく、中に座っている楊貴妃を囲むように30本近く垂らされているのを観て、思わずため息が漏れました。
その簾をかき分けてのぞかせる楊貴妃が美しいのは勿論、簾の隙間から垣間見える姿は天女そのもの。面の下は、私がお稽古で謡と仕舞を習っている師匠(御年80歳)のはずなのに、舞台の上では美しい女性がいるようにしか思えないのはいつも不思議です。
「貴方に会えたことを皇帝に証明するための何かを下さい」と方士に言われて、楊貴妃は「玉の釵」を渡します。しかし、方士は「釵などどこにでもあるものです。貴方と皇帝との間で、人知れず交わされた言葉を教えて下さい」とさらに言います。
そこで、楊貴妃は言うのです。
「天にあらば願はくは、比翼の鳥とならん、地にあれば願わくば、連理の枝とならんと、誓ひしことを、ひそかに伝えよや」
『長恨歌』はとても長い詩で、読んでも全ては理解できないのですが、「比翼連理」の言葉は有名ですよね。
楊貴妃は一度方士に渡した「釵」(舞台の上では被り物)を再び受け取って頭につけると、皇帝の前で舞った「霓裳羽衣の曲」を舞うのでした。
やがて舞が終わると、再び釵を受け取った方士は都に帰っていきます。
その別れを惜しんで楊貴妃は泣き伏すのでした。
この物語では、楊貴妃は、前世は天上界の仙人であった、という設定になっています。現世では人間界に生まれ、玄宗皇帝に見初められ、二人で「偕老同穴(死んでから同じ穴に葬られること)」の語らいをかわしたのに、結局は「会者定離(この世であったものは必ず別れる運命にあること)」になってしまった…と嘆きます。
設定としては、『竹取物語』に似ているのに、現世に対する執着度の違いたるや…帝の器量の違いですかね…かぐや姫が主人公では、これほど情感溢れる能は作れないような気がします。
ところで、この曲の舞台になっているのは、日本の熱田であり、そこに楊貴妃の亡魂が移り住んだという伝承があるそうです。つまり、方士がやってきた「常世の国」というのは日本なのですね。地元能、だったとはびっくりです。
今回は豪華に、お能はもう一つ。
曲は『女郎花』で、初めて観ました。あまり、有名ではないのか、能楽全集の本には載っていません。
『女郎花』は、「おみなめし」と読みます。
「おみな」=女ですが、「めし」はさまざまな説があるようです。
喜多流の粟谷明生氏のHPでは、「めし」は「召し」で、この話の中で女が身を投げる前に着ていた(召していた)衣を土中に埋めたところ、その衣が朽ちて花が咲き出たため、と説明されていました。
しかし、曲の中では、「多数の小花を傘状につけて秋の野に咲く黄色い花の姿が女房飯である蒸した粟にていることから」と説明されています。
いずれにせよ、「おみなえし」ではない、とのこと。能楽師さんは独特の漢字の読みを覚えなければならないので、大変ですよね。
女郎花といえば、秋の七草。春の七草は割と有名ですが、なかなか秋の七草まで言える人は少ないかも。萩、薄、葛、撫子、女郎花、藤袴、桔梗ですって。覚えておこう。
女郎花の花言葉には、「美人」「はかない恋」「約束を守る」などがあるそうで、その元になったと思われるのが、今回の能のお話です。
九州、松浦潟の僧が都に向かう途中、摂津の国山崎を訪れ、岩清水八幡宮を参詣しようと男山の麓までやってきます。野辺一面には花が広がり、その中でもひと際、女郎花が美しく咲いていたので、一本摘もうとしたところに一人の老人が現れ、それを咎めます。自分を止めようとするのはなぜかと訝しがる僧に、老人は自分は「花守である」と言います。
僧は「自分は出家しているのであるから、仏への手向けだと思って一本下さい」と頼みます。
それに対して、老人は、「菅原道真公も『神木の飛梅は折らずにそのまま手向けよ』と歌に詠んだものです。出家の身であればなおさら、花を折るのはやめなさい」と返します。
僧は思わず、僧正遍照の
「名にめでで 折れるばかりぞ女郎花」
の歌を引きます。
しかしこの歌、下の句は
「われ落ちにきと人には語るな」
というもの。老人は、「僧正遍照は、女郎花を折った(女郎と契った)ことを後ろめたく思っているからこそ、『われ落ちにき(堕落した)と人に語るな』って言っているんでしょう」と返します。こうあっては僧も、「色恋を愛でる恋の心を論じることになってしまいました」と、きまりが悪くなったのか、「じゃあ、帰ります」と言い出します。
しかし、老人は態度をやわらげ、一本花を手折ることを許してくれます。
やがて打ち解けた二人。老人は、僧が八幡宮に向かうつもりだと聞くと、まだ参っていないことにびっくりして、「道案内をしてあげましょう」と言い、二人で八幡宮へ向かうことになります。
やがて岩清水八幡宮についた際、僧が「そういえば、女郎花についてはなにか謂れがあるのですか」と聞くと、老人は「ある夫婦を埋めた塚」の物語があることを伝え、自分がその夫、小野頼風の霊であると言って消えていくのです。
この能の作者は、亀阿弥といって、観阿弥と同時代の人だと言われています。もとになった伝承も残されており、女塚、男塚は、今も京都に史跡として遺されているようです。
さて、老人が消えるとアイが現れ、その地に伝わる伝説を語ります。
昔、京に住む女が、八幡の男山に住む小野頼風とよい仲になります。頼風は、訴訟のために京に来ていたのですが、やがて訴訟が終わると「必ず迎えにくるから」といって帰っていきます。しかし、待てど暮らせどなんの便りもありません。訝しんだ女が、はるばる頼風の所に行くと、家人には取り次いでももらえません。女は頼風に裏切られたと思い、川の傍に山吹襲の衣を脱いで入水してしまいます。話を聞きつけやってきた男は、泣きながらその死骸を土の中に埋めます。やがてそこから生えてきた女郎花。その黄色の花がかつての女のようで、懐かしさに近寄ろうとすればすっと離れ、男が立ち退けばまた元に戻ります。
男は
「ここによって貫之も。男山の昔を思って。女郎花の一時を。くねると書きし水茎の。跡の世までもなつかしや。」
と謡います。
頼風は、妻が死んだのは自分の罪であると思い、ともに冥途に行こうと身を投げ死んでしまいます。
そうして二人とも同じ土中に埋められることになったのでした。
その話を聞いた僧が弔っていると、二人の霊が現れます。
女と頼風が言葉を交わした後、頼風は地獄のあり様を僧に語り、舞います。そうして成仏を求めて消えて行くのです。
この能は、「妻の猜疑心による悲劇」であり、「男は一途に妻のことを思っていた」と解説されていることが多いようです。
確かに伝承でも、能でも男が裏切った、とはっきりとは書かれていないのですが、女ははるばる八幡の地まで来て、単なる「勘違い」で死んだとは私には思えません。やはり、在地に自分以外の女の影を感じた可能性が高いと思います。
「女郎」というのは、当時は、比較的身分のある、美しい女性という意味で、京に住んでいた、ということはそれなりに実家が裕福な女性であったと思われます。まだ女性にも財産権のあった時代ですから、この男に執着することがなければ、また別の男性が通ってきた可能性もあります。それにも関わらずわざわざ男のもとにやってきた、ということは男はよほど強く「迎えに来る」と約束をしたのでしょう。それを真に受けた(たぶん)お嬢さんの女は、家人の忠告も聞かずに男の言葉のみを思ってやってきたのではないでしょうか。それなのに「男にとっては、私への愛は二の次だったのだ」とわかることはショックであったに違いがありません。何もかも振り捨ててきた手前、おめおめと戻ることもかなわずその地で果てる…そんな女性像を私は想像します。そこに「男の事情も考慮してやれ」とか「自分以外に女がいても、一番ならいいではないか」という男の理論にはちょっと納得できないのですが…
私はこの「女郎花」は、妻の精一杯のプライドであると思うので、後追い自殺して地獄までついてくる男に憐憫は一切感じませんでした。一人で勝手に地獄で苦しめ…と思うのですが、夫婦で成仏したんですかね?せめて来世は別々に生まれ変わらせてあげて欲しいですね(そういえば、塚は別々のところにあるそうです)。
女郎花は本来はとても雅な遊びに使われていたようで、宇多上皇の時代には、「をみなへしということを句のかみしもにてよめる」という物名歌合が催されています。これには『古今和歌集』編纂前の紀貫之も参加していた可能性があるとのことで、古くから愛されていた花なのだなあ、と思います。
をとこ山
みねふみ分けて
なく鹿は
へじとやおもふ
しひて秋には
秋が深くなってきて、いよいよ秋の花だけではなく、紅葉も見頃を迎えます。こういう時期には、やはり京都、奈良に行きたくなりますね。
参考
粟谷明夫の能がたり HPより
下記のサイト「女郎花」から(なぜか英語になってしまっていますが、日本語にしてください)
「物名を詠むこと ー宇多院物名歌合・亭子院女郎花合を中心にしてー」
三木麻子 さんの論文より
下記のサイトには本当にお世話になっております。能を観に行かれる際には持っていかれるとよいです!