三重歴史紀行(2):北畠氏館跡庭園
今回の旅メインはこの北畠氏館跡庭園でした。
北畠氏館跡は、標高300メートルを超える山あいの盆地のほぼ中央に位置し、現在は「北畠神社」となっている神社の境内を中心とする、南北約200メートル、東西約100メートルの範囲です。西側は山裾で、それ以外の三方は川に挟まれ、背後の尾根には詰城跡があり、さらにその山上には、霧山城跡があります。
カーナビが案内したのは、津市からの山越えルート。地元の車はビュンビュン飛ばしていく中。細いくねくね道を1時間近く恐る恐る走ります…寿命が縮まりました…途中の崖には「死体遺棄現場」の看板が…(泣)行かれる際には、「道の駅美杉」方面から行くことをお勧めします。
室町幕府の管領細川高国の娘は、伊勢国司第七代北畠晴具の夫人でした。将軍家の家督争いの援軍を頼むために、高国が娘婿の晴具の館に逗留した際に作った庭園と伝えられます。
神社の隣には、津市美杉ふるさと資料館があり、発掘、研究をもとにした在りし日の館を再現した模型が飾られていました。
律令国家はじまりの時より、伊勢国は大国でした。海産物が豊かなこの地は、都の貴族たちにとっては、任地として垂涎の地であったのです。
北畠氏が伊勢国司となったのは、人気漫画『逃げ上手の若君』の舞台となっている、南北朝時代です。
花将軍として有名な北畠顕家は、父親房ともに後醍醐天皇の側近として仕えました。顕家は、舞の名手でもあり天皇の御前で、『陵王』を舞ったと伝えられます。
鎌倉幕府滅亡の後は、父とともに義良皇子を奉じて、陸奥へ下向し、鎮守府将軍に就任します。陸奥国もまた、名馬や黄金の産地で豊かな土地でした。
やがて足利尊氏が後醍醐天皇と対立すると顕家は、陸奥国から取って返し、新田義貞、楠木正成とともに足利尊氏を攻め、一時は都から追い払いました。
後醍醐天皇が吉野へ本拠地を移した後も顕家は、時に北条時行とも連携しながら(『中先代の乱』“若君“こと、北条時行が挙兵した反乱)戦いますが、最後には高師直によって討たれます。享年21歳。後年「花将軍」と呼ばれました。父親房は、顕家亡き後も奮闘しますが、力及びませんでした。
弟の顕能は、初代伊勢国司となり、南北朝時代を通して南朝方として戦います。
後醍醐天皇配下の武将たちは天皇の理想国についていけなくなって、最終的には空中瓦解してしまったように思います。『太平記』を読む限りでは、義貞も、正成も晩年はあまり天皇を支持していない印象がありますが、北畠顕家は最期まで後醍醐天皇を奉じて戦ったのでしょうか。
室町時代を通して、伊勢国司は弟の血脈によって継承されていくことになります。
そして、時代は流れます。庭園が造られたのは、第七代晴具の時代でした。
立派な庭園が完成してそれ程経たずして、約230年続いた北畠氏は、第九代具房の代で、織田家によって滅ぼされることになるのです。
織田信長が奇襲を用いた戦闘で支配を広げていったのは確かですが、それだけではなく、血縁を使った外交戦術も非常に巧みでした。妹、お市の方の婚姻関係が特に有名ですが、弟、息子たちもまた手駒の一つであったと思われます。
伊勢国は、志摩の九鬼、長島の国人など、地元民の団結が強く、支配には多大な労力を要します。一番手取り早いのは、それを配下に置いた一族と手を組むこと…普通はそう考えるはずですが、信長はもっと徹底していました。自分の弟や、息子たちを(婿)養子として送り込んで、一族を乗っ取ったのです。
これを見ると、天皇家に自分の娘を入内させて皇子を産ませる手段で実権を握った藤原氏や平氏が可愛く見えてしまいますね…
庭園を作った第七代晴具の長男、第八代具教は、長年戦闘を繰り返してきた、志摩国の九鬼、安濃郡の長野氏を平定し、伊勢国の最盛期を作り出しました。第九代具房に家督を譲った後も依然実権を握っていました。
信長は伊勢国に侵攻し、自身の三男(織田信孝)を神戸氏の養子とします(神戸氏は鎌倉時代には北畠氏と婚姻関係がありましたが、信長時代には、関氏、六角氏に臣従していました)。また、弟信包を長野氏の養子としました。
北畠氏内で内部分裂などもありましたが、戦いは長期化し、最終的に信長の次男(織田信雄)を第九代具房の養子として迎え入れることで和睦します。(織田)信雄は、具教の娘、千代姫の婿となりますが、事実上織田家の北畠氏を乗っ取りでした。
伊勢の情勢が安定して用済みとなった具教は、隠居していた三瀬の館で惨殺されます(三瀬の変)。同時に他の城、御所も襲われ、北畠一族は殲滅されました。織田信雄の妻であった千代御前は、父や一族が殺されたことを嘆き、自害しました。
信雄の義父であった具房は命を助けられますが、幽閉され、子供がいないまま亡くなりました。
本能寺の変で信長が亡くなった後、北畠氏は再挙を図りますが、蒲生氏郷により平定されました。
こうして、長く続いた名門、北畠氏は滅び、その館も、城も焼き払われました。そんな中で、かつての庭園のみが残っているというのは不思議でもあります。
都からの貴族文化を受け継ぎながらも、武家としての重厚さが溢れる庭園は今見ても素晴らしいの一言です。
室町末期の日本三代武将庭園と言われるのは、ここ、北畠氏館跡庭園と、一乗谷朝倉氏庭園、旧秀隣寺庭園です。
一乗谷もまた、織田氏により滅ぼされた場所です。信長は天下一を目指していたのでしょうが、形として後世に残したものがほとんどありません。そういう点では残念な武将だと思います。もっとも古いものが嫌いだと公言していたと伝えられるので、余計なお世話かもしれませんが。
私としては、この庭が残って良かったと思います。
旧秀隣寺庭園もまた細川高国作庭と伝えられており、いずれ見に行きたいです。
参考文献
『三重県の歴史散歩』
三重県高等学校日本史研究会編
山川出版社
『東海の中世史② 足利一門と動乱の東海』 谷口雄太編
『東海の中世史③ 室町幕府と東海の守護』 杉山一弥篇
『東海の中世史④ 戦国争乱と東海の大名』 水野智之編
吉川弘文館
『三重・国盗り物語』
伊勢新聞社
三重歴史紀行(3)へ続きます。