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ならのみやこ

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

『古今集』

 阿倍仲麻呂は遣唐使として唐に渡り、その優秀な頭脳を時の玄宗皇帝から認められたといいます。しかし、当時の航海は命懸け。帰国の途につこうとするものの、その船は難破し、ついに彼は日本の土を踏むことなく亡くなりました。
 彼が詠んだ「みかさの山」とは、本来は御蓋山と書き、春日大社の裏手に聳える笠を伏せたような山のことだそうです(上記の写真中央)。
 仲麻呂が生まれたのは、698年。まだみやこは藤原京でした。710年、元明天皇によって平城京へ遷都が行われます。仲麻呂が唐に渡ったのは、717年で、そのとき出発の儀式が執り行われた場所が、みかさ山の南麓でした。彼にとっては、みやこよりも、その時に仰ぎ見た山にこそ思い入れがあったのかもしれません。
 やがて徐々に派遣が行われなくなり、菅原道真による遣唐使廃止の訴えを最後に国家事業としての遣唐使派遣は中止されます。しかし、その後も中国と日本の往来は完全には途絶えることはなかったようです。

復元された遣唐使船 
平城京の入り口でお出迎え

 遣唐使といえば、他にも吉備真備、玄昉などがいます。特に玄昉は、聖武天皇の母、宮子を気鬱の病から正気に立ち直らせた、という不思議な伝承の持ち主でもあります。

 時代が下れば空海や最澄など、当時の絢爛たる才能の持ち主たちが海を越えたのでした。

貴重なお経を携えて帰ることを夢みて
日本からは織物、糸や布が送られた

 1988年に開催された「なら・シルクロード博」は、平城京跡が会場でした。大きな真っ白のパビリオン天幕が立ち並び、海のシルクロード館、京セラ館や、オアシス物語館など、わくわくしながら廻ったことを思い出します。
 遙々とタクラマカン砂漠を越えて、あるいは海を越えて運ばれてきた様々な珍しいものの終着点としての「ならのみやこ」。聖武天皇によって「正倉院」に収められたその「宝物」は、今も私たちの胸をときめかせます。
 「ならのみやこ」はシルクロードの終着点であると同時に、日本の律令国家としての中心地で、当時の文化の最先端の地でもありました。聖武天皇の時代に都が転々とした数年間以外は、784年まで日本の都でありつづけました。   
 やがて都が京都に遷るとともに、この地は忘れられていきます。

 奈良を訪れる観光客の多くは、東大寺周辺のみで、平城京跡へは来ることは少ないのではないでしょうか。
 1998年、朱雀門の復元を皮切りに、国営平城京跡歴史公園としての整備が進められてきました。現在も発掘調査をもとにした、当時の建物の復元工事が進行中です。
 今回、「平城京跡歴史公園」を訪れてみて、(自分の中の記憶では)単なるのっぱらだったところに壮麗な門が立っており、かつての「ならのみやこ」が復元されつつあることに驚きを感じました。 
 きっと「平城京」を訪れた奈良時代の人達も同じ思いをもって眺めたことでしょう。

 今年は、聖武天皇の即位(724)から1300年目にあたります。偶然にも3月には、貴重な発見がありました。

 聖武天皇(701~56)が1300年前の即位時に行った「大嘗祭(だいじょうさい)」に関する木簡が、奈良市の平城京で大量に見つかった。奈良文化財研究所(奈文研)が19日発表した。大嘗と記された木簡の出土は初で、秘儀とされる大嘗祭の実態解明につながる貴重な発見という。
木簡があったのは、平城京の正門「朱雀門」から約200メートル南東。
(中略)
 その中に「大嘗分」「大嘗贄(にえ)」などと書かれた木簡が、少なくとも4点あった。神亀元(724)年と記された木簡もあり、同じ年にあった聖武天皇の大嘗祭に関わると判断した。

朝日新聞 2024.3.19
復元された朱雀門

 訪れた12月8日はなんと奈良マラソンの当日でした。ここ、朱雀門前から出発して、奈良市鴻ノ池陸上競技場がゴール。すごい…
 平城京跡歴史公園はとにかく広い!走るのは無理なので、レンタルサイクルで廻ることにしました。

自転車で廻る順路はスランプラリーをしながら
平城京の中を横切る近鉄奈良線…

 中を横切る電車にびっくり。敷設するときに発掘はしなかったんだろうか…

第一次大極殿院の門(南門)
隣に現在建設中なのは東楼で、来年以降の完成予定。
さらに西楼と、回廊をつくる予定とか。

 聖武天皇は、740年から、恭仁京、難波京、紫香楽京と都を転々とし、745年に再び平城京へと都を移します。
 第一次大極殿は710年から740年までの前半期に、元日朝賀や天皇の即位など国家儀式の際に天皇が出御する施設でした。745年以降は、大極殿は東側へ移動し(第二次大極殿)、ここは西宮として太上天皇の住まいとなったと考えられています。

扁額の文字は、「長屋王願経」から
細かい復元

 瓦の文様は蓮の花を図案化したもので「複弁八葉蓮華文」」と呼ばれます。蓮の実を表す中央の円形部分(中房)には、真ん中に1個とその外側に八個の豆粒状の突起(蓮子)があります。中房の外側には二枚の花びら(花弁)を一組として八枚の弁が描かれます。
 この模様は、長屋王邸、興福寺、法華寺、東大寺、西大寺など、平城京内の寺院や王族の瓦にも使われています。奈良山に巨大な瓦窯群が出土しており、そこから運ばれたと考えられています。

東に東大寺の塔が見える
北には第一次大極殿
第一次大極殿には入場できる
高御座


屋根には鴟尾(しび)がのる
瓦のすき間からの雨漏りを防ぐ役目と、火事を防ぐまじないの意味があったと考えられている。
これが進化(?)してしゃちほこになったらしい。
内裏の井戸跡。
内裏は平城京の前後期を通して場所は変わらなかった。
第二次大極殿はこの南側に造られた。
宮内省
第二次大極殿は基壇のみ
兵部省


 もっとも惹かれたのが、東院庭園でした。地図で見ると、平城京の東側に張り出したような形で存在しています。
 元明天皇が遷都した際には、ここは東宮、つまり首皇子(後の聖武天皇)の住まいであったと考えられています。父、文武天皇が早くになくなったため、叔母である元正天皇が中継ぎとなって、724年に聖武天皇が即位します。
 聖武天皇と光明子の間には、皇子が生まれましたが早くに亡くなっています。以後、男皇子は生まれず、娘である阿倍内親王が孝謙天皇として即位することになりました。
 おそらく、阿倍内親王もまたここを東宮としたのでしょう。彼女はこの地を愛し、再び称徳天皇として即位した折、「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催しました。
 また、光仁天皇が建てた「楊梅宮」もこの地にあったと考えられています。

池の上に浮かぶように作られた「正殿」
平橋がかかる
隅楼と呼ばれる2階建ての建物。
上には鳳凰がのる
反り橋を経て、池の周りを回遊できる。
北東の建物へ通じる。
曲水の跡


 この平城京東院庭園を隔てて、板塀の向こうは「法華寺」の敷地でした。かつては光明子の父、藤原不比等の館があり、光明皇后となった後、それを引き継ぎ宮寺としました。総国分寺の東大寺に対して、女人のための総国分尼寺として「法華滅罪之寺」を創建したと言われます。
 光明皇后が亡くなった後、一周忌が催されたのが、法華寺の敷地内に作られた阿弥陀仏浄土院でした。大垣を挟んで東院庭園と隣り合っており、現世と来世の庭を表現したと考えられているそうです。

 かつては広大な寺地を誇りましたが、平重衡による南都焼き討ちで壊滅的な被害を受けました。「平家物語」には、滝口時頼入道(平重盛に仕えた武士)と恋に落ちた横笛(建礼門院に仕えた女官)がこの法華寺で尼となり、亡くなったというお話も残されています。

鐘楼と護摩堂
浴室(からふろ)

 光明皇后は世界に先駆けてノブレス・オブリージュを行なった人ともいえます。
 施薬院(貧しい人に薬を与える施設)、悲田院(貧しい人や親のない子供を救う施設)を作りました。
 この「からふろ」もまた、庶民のための蒸し風呂(サウナ)として建てられ、皇后自らが、垢すりをしたと伝えられています。仏教を信仰していたとしてもなかなかできることではないですね(平安時代になってくると仏教は、単なる個人の救済の手段になってしまう印象があります)。
 「からふろ」は昭和まで使われていたそうです。中がみたかったです。

 光明皇后をモデルにしたと伝えられる十一面菩薩立像を安置する本堂や、国史跡名勝庭園に指定された庭など見所が一杯でした。 
 今回は、海龍王寺まで廻ることができなかったのが残念でした。 

 小学館の学習まんが「日本の歴史」を小学生の時に繰り返し読み、日本史を知りました。時を経て残されたものを保存するだけでなく、最新の発掘調査をもとにして当時そっくりに復元する。歴史が単なる過去で終わらない、そんな「ならのみやこ」にひたすら感動を覚えた1日平城京めぐりでした。
 研究員の皆さんや、ボランティアの解説の方たちに深い感謝を捧げます。

参考


 シリーズ「遺跡を学ぶ」 112
        平城京を飾った瓦 奈良山瓦窯群 
         石井清司 新泉社


 シリーズ「遺跡を学ぶ」    144
       日本古代国家建設の舞台 平城宮
         渡辺晃宏 新泉社


 「少年少女 日本の歴史」③ 奈良の都 
                                    小学館