【演奏芸術の在り方をめぐって】小倉美春×向井響×篠村友輝哉「音楽人のことば」第15回 前編
──理想の演奏
篠村 これまでのこの企画での自分の発言を振り返ってみると、何度か繰り返し話していることがいくつかあることに気が付きました。そのひとつに、演奏を「再現芸術」と呼ぶことに対する違和感がありました。何か「再現」という言葉が、演奏家の仕事の本質を表していないんじゃないかという感じをずっと抱いています。僕たちは「楽譜通りに弾く」ことを教えられてきていますし、もちろん、それはクラシックの演奏芸術において揺らぐことのないひとつの前提ではありますが、その「楽譜通り」というのは本当に「再現」なのでしょうか? 何かそこに感じられる、演奏家は作曲家よりも下位に属していて、すべてを捧げなければならないという意識に、疑問を抱いています。
結論から言うと、演奏もまた創造であると僕は考えているのですが、今日は現代では稀有な存在となったコンポーザー・ピアニストの小倉さんと、ピアノ演奏も堪能で、ご自身や他の作曲家のライヴエレクトロニクスを担当されたりと、演奏にも深く関わり続けている作曲家の向井さんとの鼎談ですので、そのことをテーマにお話しできればと思います。まず、大雑把な質問ですが、お二人の考える「理想の演奏」とは、どのようなものですか?
小倉 「理想」という言葉が自分としてしっくりきているかはわかりませんが、演奏家としても作曲家としても、こうであったらいいなというのは、「その人のものになっている演奏」ではないかなと思っています。演奏家として、ベートーヴェン像やショパン像といったものはあるとしても、それを超えるくらいに自分のものになっていること、自分の音になっていることをいつも目指していますし、作曲家としても、自分の曲を弾いていただいているときに、すごくその演奏家のものになっているな、その人の身体のなかに入ってくれたな、そう感じられたときに一番いいなと思います。それはある意味、作品が自分の手を離れるようなときでもありますよね。
向井 なんだか美春ちゃんに端的に言われてしまった気がします(笑)。自分は学部のときなんかは、本番の演奏に何も事故が起きないでほしいとすごく思っていた。みんなここまで練習してきてくれたんだからという思いもあるし、すごくそわそわしてそう祈っていたのだけど、最近は、何か面白いものが見たいという気持ちの方が大きくなってきた。先日、ローム・ミュージック・ファンデーションのコンサートがあって、ヴァイオリンのソロのためのパルティータを、土岐祐奈さんに初演していただいたのだけど、その演奏が、楽譜はあるんだけどそれを超えた表現というか、歌い方とかが、リハーサルや練習時にいただいた音源とは全く違う演奏になっていて。彼女はいろいろなアイデアやインスピレーションが本番で湧いてくるんだろうね。ミュートがとれちゃったりアクシデントはあったんだけど、それも含めて生の音楽なんだなと感じたというか、聴いていて、これは自分の求めていた演奏のひとつだなあと。作曲家だし、楽譜通りに演奏されれば理想の音楽になる、という作品でなければならないという思いもあるけれど、それを超えた表現にその人らしさが出る。自分のものとして演奏してもらえるというのは、すごく新鮮でした。
──楽譜を読み込むこと、コンテクストの重要性
篠村 いま向井さんが仰ったような、演奏家のなかから出てくる表現意欲、こう弾きたいという思いや、それ以前の、ある作品を手掛けてみたいという衝動とかって、作品から受けた刺激によって起こるものですよね。演奏家はまず作品があって、そこから表現が始まっているのに対して、作曲家は何もない状態から筆を動かしている、そこに大きな差があるということで、演奏家は作曲家を上に見ているところがあると思います。そこに関しては、僕自身も作曲家の持つエネルギーに敬服はしているのですが、最近は、実は作曲もはじまりは受け身なのではないかと思い始めました。ゼロから生み出しているように見えるけど、実は、外からの刺激や影響から、それは生まれているのではないかと。例えば今、僕は自分の言葉で話していると思っていますが、厳密に言えば、自分が使っている言葉っていうのは、これまで出会ってきた他者から受け取り、学んできた言葉なんですよね。それは音楽も同じで、一切先行作品を知らないで曲を書くということは不可能なはずです。やっぱり、これまでの音楽の大きな歴史の流れの中に、新しい作品もある。音という素材を、先人たちから借りているということであって、そうやって受け継がれてきたものの中から、何かが生まれている。演奏も作曲もはじまりはどちらも同じで、つまりは、演奏も創造であると言えるように、僕は思うんです。
小倉 音楽をしている以上、無意識的であれ意識的であれ、自分が経験してきたことが全部出てしまう。音楽に対する考え方とか態度は、作曲をするうえでも演奏をするうえでも出てしまうものだと思っていて、そういう意味でまったくその通りだと感じています。なおかつ、身体レベルで言うと、昨日の私と今日の私は細胞レベルで違うわけですよね。日々進化していっているという意味でもそれは言えると思います。
演奏家が受け身的な立場というのは、確かに一見そう感じるかもしれないけれど、いま話した「楽譜を超える」ためには、楽譜をしっかり読まないと超えられないわけですよね。その、「楽譜をしっかり読む」という姿勢が能動的だと私は感じていて、もちろん書いてあるものを受容するという意味では受け身なんだけれども、それをどういう風に受容するかというのは演奏家自身にかかっているわけじゃないですか。同じインフォメーションを見ても、何を、どのように受け取るかは演奏家によって違う。私は特に、「取りにいく」的な感覚があります。やっぱり取りにいかなければいけない。例えば「P(ピアノ)」と書いてあったとしても、その「P」を取りに行かなければその「P」は取り残されてしまう。
音素材を歴史の流れから借りているということに関しては、最近はそういうものを断絶しようとする動きもある。それが今まで書かれてきたもののアンチテーゼとして、そうではないものを作ろうとしているようにも見えるし、全然関係ないものがパッと出てきたようにも私には見える…。でもその辺は多分、向井先輩の方が詳しいと思うので(笑)、聴いてみたいです。
向井 僕は作曲においても演奏においても、コンテクストというものが好きで。海外では試験で現代音楽を弾かなければならないことが多いこととかもあって、自分の曲を弾いてもらえる機会が増えたのだけど、(自分の作品を)いろいろな演奏で聴いたときに、その演奏家が、現代音楽のコンテクストを自分の中に持って弾いているかというのは、出てしまうものなんだなと感じました。譜面通りに弾いても、経験が出てしまう。すごく怖いなと思ったけれど…。自分の作品は、「何々のオマージュ」というように明示しているものではないけれど、いろいろなコンテクストに基づいていて、(これまでの)音楽の成り立ちの上に自分の作品があるということにプライドを持って書いている。もちろん、自分の作品を演奏してくれるというだけで嬉しいことなんだけれども…。
それで、近年の作曲家のなかには、今言ったような考え方自体が古い、すごく保守的な考え方だと言う人もいる。でも、新しいものだけで埋め尽くされた、コンテクストのない、突拍子もないもので埋め尽くされた作品は、僕は退屈に感じる。そういう10分は、1分半後には飽きてしまう。そういう作品を提示することで新しいコンテクストを生み出している、と言うこともできるのかもしれないけれど、でもそれって音楽でやる必要あるのかなと考えてしまう。聴衆の人たちには新しい音楽を楽しんでもらえたらそれでいいのだけど、やっぱり演奏したり創ったり、表現芸術をしている側にとっては、コンテクストを理解しているかどうかはすごく大きいんじゃないかと思うようになりました。
小倉 でも、現代音楽はあくまでもこれまでの歴史の流れにある、という考え方を私たちは共有しているから、そう考えられるのかもしれない。それを持っていない人にとっては、音楽というものはまた違ったものに見えているのかもしれない。それは作曲するときに、どう作曲しようかと考えることでもありますよね。
向井 うん、ジレンマだよね。
小倉 すべてのお客さんのバックグラウンドを配慮するということはできないわけだから。どこまで配慮するのかというのは難しい。
──作品に対する敬意とは
篠村 楽譜を読み込むというお話と、音楽の文脈のお話、どちらも重要なお話ですので、個別に掘り下げたいと思います。
まず、楽譜を読み込む営みに能動性がある、ということついてですが、それは、僕には、他者を理解しようとする、他者の心情を想像するということと同じもののように思えます。僕は、「作曲家に対する敬意」というものは、何か作曲家を絶対的に高い位置にいる人として崇めるということではないと考えます。確かに、作曲家は偉大な存在であることに間違いはありませんが、それでもやっぱり同じ人間だと思うんです。だからこそ作品に共感したりできる。そのときの敬意の抱き方というのは、目の前にいる人に対する敬意の抱き方と、同じようなものでいいはずなんです。まさに今も、何か失礼なことを言ってしまっていることもあるかもしれませんが(笑)、小倉さんと向井さんに対して、敬意を持ってお話しているつもりです。それで、作曲家も目の前にいる人も、自分ではない他者ですよね。他者というのは、どんなに通じ合っている間柄でも、絶対に理解できない領域を持っている存在のことです。他者に対する敬意というのは、その「わからなさ」を尊重しながらも、理解しようとすることで、楽譜を読み込む営みもそのようであるべきだと思っています。
それから、「自由な解釈」という言い方がありますよね。演奏家の手によって、その作品の新しい光が当たるというようなことは素晴らしいことですし、優れた作品ほど、無限に魅力があるということは間違いないです。ただ、僕が聴いていて違和感を抱いてしまう演奏は、作曲家の顔が見えず演奏家の顔ばかりが見えるような演奏です。逆に、演奏家の人間が見えない演奏もまた面白く感じられないのですが。どんなに作曲家本人、小倉さんや向井さんが「終止線を引いた時点で作品は自分の手を離れる」と言ってくれていても、演奏家のほうは、やっぱりそれが他者の書いたものであり、作曲家本人が意図していたことは何だったのかを、絶対にわからないけれども理解しようとするという姿勢は必要だと感じています。それは鑑賞においてもそうです。
小倉 いまお聴きしていて、私はもしかしたら、曲の中にそこまで人間を見ようとしていないかもしれないと思いました(笑)。作曲するときって、自分という人間を刻印してるのかな…? 人間を刻印するというより、音楽それ自体を刻印していると私は思っていて、そう考えると、演奏家としても曲に人間を見ているという感覚はあまり持っていないかなと思います。でももちろん、書かれたものを書いているのはAIとかではなく人間であるというのは明確です。
「自分色に染まってしまう」演奏のときって、本当に楽譜通りになっているか?という場合が多い。でも楽譜通りから外れるというのが、ある意味、言い方は悪いかもしれないですが、ちょっと流行っている昨今でもありますよね。戦略としてそういう方針を採る人もいると思うんですけれど。私がいつも思っているのは、楽譜通りに「聞こえるか」どうかというのが大事だということです。楽譜通りに聞こえるためには、(弾いている)自分(として)はそう思わないように弾いたほうが、楽譜通りに聞こえるという場合もたまにありますよね。例えば、全くドライにするより、僅かにペダルをかけた方がスタッカートらしく聴こえるとか、自分の中ではいびつに弾くことによって粒が揃って聴こえるとか。「楽譜通り」っていう言葉が、ある種奴隷的なように聞こえてしまう部分もあるから、受け身であるという風に捉えられるのかもしれないけれど、どう自分の身体の中に楽譜を落ちつけていくのか、そのプロセスが私は能動的だと思っていて、その前提として楽譜に書いてあることを尊重する。私の態度としてはそのようになっていると思います。
向井 自分は結構逆、つまり演奏家の方が偉いと思っていて(笑)。そういうところがあるから、作曲者に敬意は持ってくれていなくても全然いいんだけど、作品には持っていてほしいなという思いが強いです。
小倉 うんうん。
篠村 なるほど…。
向井 自分が書いた音楽はやっぱりすごく手のかかったものだし、なんというか…
小倉 大事に扱ってほしい、ぞんざいにしないでほしいという感じですよね(笑)。
向井 そうそう…! 現代音楽は再演することが編成的に難しい作品もあるし。もちろんそのことに納得してしまわないで、再演されるような作品を書くというモチベーションもあるのだけど、この機会のために書いた曲を、流れ作業のように弾かれたりしたときは悲しくなるかなあ…。作品は、自分の子どもみたいな感じだから。
篠村 僕はたぶん、作品を作曲者の一部というか、切り離せないものとして見てしまっているんだなということを、お二人の話を聴いていて思いました。僕は曲を書かないので、作品が手を離れるという感覚を知らないから、そうなのかもしれません。
後編につづく(こちら)
(構成・文)篠村友輝哉