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【表現者として現代を生きる】野木青依×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第9回 前編

 今回のゲストは、マリンビストでモデルの野木青依さんです。
 野木さんとは桐朋学園大学での同級生でしたが、在学中はあいさつを交わす程度の関係に終わってしまいました。そのあとも私の演奏会に来てくださったり、SNS上でちょっとしたやり取りをしたりということはありましたが、ゆっくりお話しする機会がないままでした。
 野木さんは卒業以降、マリンバの演奏や企画以外にも様々なお仕事を手掛けられていて、また演奏家としても既成のスタイルとは違った演奏会を開かれたりと、「ポップな」雰囲気を基調に新しい表現のかたちを追求されています。そのご様子をネット上で見ていて、この機会にじっくり話を聴いてみたいと思いました。
 こういう動機で依頼したので、対談は必然的に、野木さんの活動内容を伺いつつ、現代の表現者の課題や役割をめぐるものとなりました。たっぷりと想いを語ってくださり、野木さんの活動の根幹にある「願い」が感じられる内容となりました。


野木青依(のぎ あおい)
桐朋学園大学音楽学部卒業。
市民(特に親子)に向けた演奏会・音楽ワークショップの企画に力を注ぐ。
モデルとしても活動。「URBAN SENTO」メインビジュアルモデル「HOUGA Short Movie」出演他。

ーー根源的な感動に立ち返る

篠村 野木さんは、音楽家、特にクラシックの音楽家としては珍しい活動をしています。僕自身も、演奏やレッスン以外にも、音楽以外の芸術に言及したり、文章でもあまり今の音楽誌なんかでは見かけない雰囲気のものを書いたりしていて、(自分で言うのも何だけれど)珍しい活動をしている。活動内容の質感は違うけれど、その点で重なるところがあるなと思って、今回お話してみたいと思いました。
 対談の前の雑談で、「コンサートホールに来る人たちというよりも、もっと幅広く音楽を届けたいという思いがある」と言っていたけれど、まずそのあたりから話を始めたいと思います。僕は今、クラシックは特にだけど、文化全体の力が衰退していると感じているのね。それをどういうアプローチで克服していくかと考えたときに、やっぱり上から広めていく、変えていくという方法だともう難しいと思う。例えば国際コンクールとかで優勝してコンサートをたくさん開いて音楽を広めていくというやり方では、根本的な解決にはならない。コンサートホールという場に集まる人の多くは、既に音楽に関心を持っているわけだし、まず肩書や経歴から入ってもらうというのが既に本質的でないでしょう? もっと根本的なところに音楽や文化を広めていかないといけないということを考えています。

野木 私自身は、自分の人生の友達として音楽があるということに毎日すごく感謝していて、音楽によって救われているし、生きやすくなっている。だけど、それって私がそもそも音楽と出会えていたからで、今はその出会いの場が限られすぎているような気がしていて。芸術の力がなくなっている原因には、人と芸術とが離れすぎてしまっていることがあると感じています。例えば音楽なら、「私音楽できないから…」って言う人がすごく多い! 「楽器弾けるってすごい」みたいな。「音楽教室とかに通っていないと音楽はできない」と皆が思い込んでいるような気がしていて。音楽ができる人=ステージに上がる人、自分とは遠い存在の人、アイドル的な崇拝の対象みたいになってしまっている。私は、音楽はそういうものではなくて、そもそも生まれながら身体の中にあるものなんじゃないかという思いがあって。音楽と人との距離を縮めたいというか、音楽とか芸術は非日常のものではなくて日常のものなんですよと提案していけたらいいなと思っています。
 そうするために、すごく日常的な、「なんでここに?」と思われるようなところにマリンバを運んで演奏するという企画をしている。銭湯の浴室とか、JRの高架下の倉庫とか。駅から家までの道のりにある場所にマリンバがあって、そこで音楽に出会う。出会うはずのなかった人にマリンバに出会ってほしい。

篠村 やっぱり、専門的に勉強してきた私たちのような人って、その世界が世界全体だって思い込んでしまいやすい環境にいて、それが、専門家じゃないと理解できないとか、そういう印象を与えてしまうことに繋がっている。できもしないくせに、知らないくせに感想ーー特に批判的なーーを言うのはどうなんだみたいなことを言う人もいるけれど、そういう風潮が野木さんの言う近寄りがたさみたいなものを生んでいるような気がします。もちろん、作品をより深く味わったり理解するためには知識や教養は必要だけど、芸術はそれがないとわからないというものではない。解説がないとわからないような音楽は、結局音楽自体で表現できていないということなわけだし。
 僕は、音楽について文章を書くときに、その演奏や作品の分析よりも、その音楽や音から自分が感じたことをどれだけ言語化できるか、言葉の先に言葉にならないものが捉えられているか、純粋に読み物としても楽しめるものになっているかということを一番大切にしています。専門的な言葉を羅列して精緻に分析されていても、聴いた本人の感動が反映されていない文章は全く面白くない。で、そんなものを読んでも音楽を聴こうと思わないと思うのね。その演奏から自分は何を受け取ったのかというところ、そこが一番大事で、そして専門家でなくても何かを受け取ることはできる。専門家こそ、そういう純粋な感動に戻っていかなければならないと感じています。野木さんが言うように、音楽が人生と繋がっているということ、音楽に触れることでその前と後とで人生や価値観が変わるということ、そこを届ける側がもっと意識していかないと、どんどん狭い世界になってしまう。

ーー自分に正直になることの大切さ

野木 私は人それぞれの感受性をすごく大切にしたい。やっぱりみんな感想を言ったりするのが恥ずかしいと感じていて、「これで合ってるのかわからない」とか「難しいことはわからないから」とか、そういう風になってしまっている。けど、自分が思ったことや自然に感じたことを、「それって違うかも」と蓋をしないで素直に言えるとか、自分が自分の思ったことに納得するとか、そういう経験をしてもらえたらなと思っています。
 私はもともと子供が大好きで、大学の時も保育園でバイトしていたんだけど、子供のその自由さとか想像力の豊かさとか、枠に全く囚われていない、そもそも枠がないというのが本当に素晴らしいと思っていて。一番の先生は子供だなって思う。子供の時に持っているその創造性が、社会に触れていくごとにどんどん丸くなっていってしまう。子供は、自分が出した音に正解とか不正解とか考えないで音を出せるのに、大人はマレットを持ってもらっても叩けないとか、ピアノに触るのが怖いとか、そういう風になってしまうのが寂しいなと思って。自分の出す一音にすごく恐怖心を持ってしまう。それって音楽に限らないことで、自分が感じたことに、「何歳だから」とか「女だから」とか蓋をしてしまう。楽器体験ワークショップとか、観客回遊型ライブーーお客さんを囲むように奏者がいて、演奏中はお客さんが自由に動き回れるーーとかを通して、能動的に目の前の時間を楽しんでもらって、自分の音とか感想に自信を持つ、素直になる、そういう体験をしてもらえたらいいなと思っていて。音楽を好きになって欲しいという思いもあるけど、それ以上に、自分が知らなかった世界が他にもたくさんあるということを知って欲しいというか。知らないことってたくさんあるんだと知ることができたら、世界が明るく見えたりするんじゃないかなと。

篠村 教育とも関係するね。仰る通り、自分たちとしては、音楽を好きになってもらえたら一番嬉しいんだけど、それ以上に、音楽教育を通じて、一人の人間としてこの世界と向き合っていく姿勢を伸ばしていくことが、本当は一番大事なことだと思っています。結局表現物って、それを創り出した人が今という時代や人間をどう捉えているのかということが反映されていて、それらを通じて自分なりのものの考え方や感じ方を伸ばしていくというか。いろいろなものに触れていくと、ものの見方も多角的になる。そうすると、いまワイドショーとかネットで言われているほど世の中って単純じゃないんだと思えるようになったり(笑)。自分自身も芸術を通じてそういうことを勉強してきたから、芸術にはそういう面もあるなと思います。僕は常々、芸術とか文化に携わっている人こそ自分に正直でなくてはいけないと言っています。先生がこう言っていたからとか、偉い演奏家とか評論家がこう言っているからとか、そういうことに一番縛られてはいけない。むしろ「本当にそうなの?」というくらいでいる方がいい。振り返ってみても、尊敬の念を抱いた人はみんな自分に正直な人だった。そういう人の言葉に触れることで、凡庸な言い方だけど勇気が持てるようになったというか。

野木 マリンバって、クラシック界での歴史がとても浅いのだけど、私が師事した安倍圭子先生がそのパイオニア的な存在で、先生の人生がそのままマリンバの歴史になっているくらい。作曲家の三善晃先生などに新曲を作ってもらって自分で初演して、マリンバの地位をあげてこられていて、ピアノやヴァイオリンのような地位にマリンバを置きたいという思いがとても強い! でも私は、最終的にかなりポップな活動をしていて…安倍先生の「開拓精神」を継いだのだ、と思っています。

篠村 僕は、コンクールの審査とかの場に、音楽家じゃない芸術家を何名か入れる、というようなことをやっていくべきじゃないかと思っていて。もちろん、ある程度音楽に造詣が深い人である必要はあると思うけど、実際の演奏会は音楽家だけが聴きに来るわけじゃないし、専門家だからわかることがある一方で、他のジャンルの人だから気づけることがたくさんあると思う。さっきも言ったけど、音楽の専門家の中には「できない人は意見するな」という人が少なくない。まあ、そう言いたくなるような的外れな意見もあって、僕自身もそういう気持ちになることもあるけど(笑)、それにしても音楽界は風通しが悪すぎる。もっといろいろな感性を持った人の声に耳を傾けるべきだと思います。
 ある意味で権威的な存在をどう捉えるかというのは、なかなか難しい問題があると思います。その存在が足枷になることもあるんだけど、その存在があることによって生まれるものもある。
 ある意味で権威的な存在に対して、ここは違うんじゃないかと思ったとして、そこから自分の考えが形成されていったとする。そうすると、その形成された自分なりの考えは、その違うんじゃないかと思った対象が存在したから生まれたと言うこともできる。批判って、ネガティブなイメージがあるけど、一方ではそういう面もあって、人って実は、自分と反対のものに出会ったときにより真剣に考えるんじゃないかとも思います。

後編に続く)
(構成・文:篠村友輝哉)


野木青依(のぎ あおい)
桐朋学園大学音楽学部卒業。
自粛期間中に制作した、自身のマリンバ演奏・歌唱による2ndアルバム「踊りにおいでよ」を5月に配信リリース。音楽を通して生活を祝福するインスタレーション 「Celebration at home」を写真家/工藤葵と発表。
市民(特に親子)に向けたの演奏会・音楽ワークショップの企画に力を注ぐ。
他、演劇・映像等の楽曲制作も手がける。
モデルとしても活動。「URBAN SENTO」メインビジュアルモデル「HOUGA Short Movie」出演他。

篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。6歳よりピアノを始める。桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。
ライターとしては、音楽エッセイを中心に執筆している。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間コラムの連載を担当した(うち6篇はnoteでも公開)。エッセイや、Twitter、noteなどのメディア等で文学、映画、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

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