目指せ出版! 日本史のセンセイと行く全国制覇の旅18 源平合戦
一ノ谷を追われた平氏軍はつぎに讃岐国の屋島(香川県)に陣を張ります。中学校2年生の国語の教科書にも載っている「扇の的」、屋島の戦いです。
海上から矢をいかける平氏軍。陸から攻める義経軍。両者決定打がないまま夕方となります。そのとき平氏方から美しい女官が乗った船が一艘、金の日輪(太陽)を描いた真っ赤な扇を竿の上につけて前に出ました。
「この扇を射ることができる武者は源氏方にはいないだろう、できるものならやってみろ」というメッセージだと受け取った総大将の義経は、弓の名手を探させます。このとき推薦されたのがまだ20歳になっていない御家人・那須与一(なすのよいち)。飛んでいる鳥3羽のうち2羽を射止めるほどの腕前の持ち主です。しかしあたりは暗くなってきていて、しかも船は波に揺れて一定していません。距離も80m弱と、条件は与一にとって悪いものばかり。そこで与一は
「南無八幡大菩薩、願わくはあの扇の的を射させたまえ。これを射損じたら弓を切り折り自害して人に二度と顔を合わせるものではございません」
と神に祈りを捧げ、きりりと狙いを定めてひょうっと射ました。そして矢はうなりを上げて飛び、扇のかなめから3cmほど離れたところをひいふっと射切ったのです。敵味方に分かれてはいても、平氏軍も義経軍もどよめき、感嘆しました。
いま屋島の戦いが行われた場所には、「駒立岩」が残っています。与一が海の中に馬を進めたとき、馬が乗るのにちょうどよい岩があったのです。そこから50mほど離れた壁に扇の絵が描かれているのですが、50mですら当てるのなんかまず無理だよ、と言いたくなるほど遠い距離です。また近くには神に祈りをささげたと言われる「祈り岩」も残っています。与一はその後若くして亡くなったとされているのですが、即成院(京都府)というお寺に墓が残っています。このお寺には「願いが的に当たる」として多くの参拝客が訪れているそうです。ちなみにこの即成院の「木造阿弥陀如来及び二十五菩薩像」(重要文化財)は必ず見たほうがいい超オススメの仏像。阿弥陀如来が二十五菩薩を率いて極楽浄土から来迎(らいごう、迎えに来る)する様子を現したもので、菩薩たちは手に楽器を持ち「仏さまのオーケストラ」とも呼ばれています。私が行ったときには特別公開で内陣にまで入れました。チャンスがあればぜひ見てほしい仏さまです。
隆盛を誇った平氏一門も西へ西へと落ちていき、ついに壇ノ浦(山口県)まで追い詰められます。源平合戦最後の大いくさ、壇ノ浦の戦いです。この戦い、最初は平氏軍が優勢だったようです。しかし潮流が変わり、義経が船を操る水夫たちを狙って射落とさせたところから形勢が逆転します。もはやこれまで、と悟った平氏方は次々と水の中に飛び込んでいきます。その中には平氏と行動を共に都落ちをしていた安徳天皇(数え年8歳)もいました。祖母である二位の尼に抱きかかえられ
「波の下にも都はございます」 といって入水した安徳天皇。歴代の天皇の中で最も幼くして崩御(ほうぎょ、天皇が死ぬこと)しました。
現在の壇ノ浦は関門橋がかかり、多くの船が行き来する重要な場所になっています。古戦場跡としては「みもすそ川公園」として整備されていて、源義経と平知盛像が建っていたり、幕末の下関戦争の時の砲台のレプリカが置いてあったりします。またみもすそ川公園のすぐ近くには安徳天皇をまつった赤間神宮があります。ここは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「耳なし芳一のはなし」の舞台になった場所です(江戸時代は阿弥陀寺(あみだじ)という寺だったが廃仏毀釈で神社になった)。ハーンの「怪談」は集英社文庫などから出ているので、興味のある人はぜひ一読を(ハーンはこれらの話を英文で書いています。だから日本の物語を英語で書いて、それを日本語に訳すという変わった形になっているんです)。