悲しくまぶしいそれをスケッチする 木下紗耶子
木下紗耶子
(元川崎市岡本太郎美術館学芸員、現国立近現代建築資料館研究補佐員)
私が初めて見た花沢の作品は、絵やオブジェ、文章を組み合わせたインスタレーションだった。第19回岡本太郎現代芸術賞展に花沢が入選したとき、私は学芸員として、幸運にも彼女の作品が組みあがっていく過程を見て、会期中も毎日のように作品を見ることができた。中央の大きなキャンバスには、風に巻かれるような花々や植物が黄や赤、青で描かれ、それらに包まれた白い顔が描かれていた。キャンバスの周囲はリカちゃん人形や風船で飾られ、扇風機がそれらを揺らしていた。足元には小石が敷き詰められたスペースがあり、花沢の日記を読むことができた。
日記には身近な人の死に直面したときの花沢自身や周りの人間のこころの震え、歪み、そして元に戻ろうともがく様が書き出されていた。(その文章の一部は2020年11月に刊行された画集『SHINOBU HANAZAWA 2013-2020』に収録されている。)日記を読むと画中の人物が誰であるか、そしてインスタレーションが彼女の作り上げた祭壇、祈りの場であることが分かる。
花沢は作品制作を通じて何度もその人物に出会い、喪の作業を続けていたのだろう。花沢の作品は、展示室入口から見て突き当りの場所でゆらゆらとオブジェを揺らしながら、展示室に一種の静けさをもたらしていた。
個展の度にすこしずつ公開されてきた花沢の文章は、恋人や母親、友人らとの何気ないおしゃべりに沿った心の動きなど、ごくプライベートな出来事をつぶさに観察し丁寧に言葉に紡いだものだ。ファーストネームやニックネームで呼ばれる見ず知らずの登場人物が現れ、読み手は他人の日記を読んでいることを強く意識させられる。しかし、花沢が多くの言葉を費やしてかたどろうとしているのは、誰もが皆一度は経験したことのある(または、これから経験する)「別れ」や「死」であり、その言葉にできない空白のような場所こそがむしろ彼女のテーマではないかと思われる。
そして、唐突にも思える「笑い」や「ダンス」のエピソードがしばしば挿入される。特養に入ったばあばの部屋にかけられている音楽を「ダースベイダーみたいな音楽」と母親と笑ったり、真理亜と「ピスタチオのアイスがくさりかけのお茶の味で笑った」りする。または、「家でYOUTUBEを開き、アフリカンダンスやサルサを検索し画面内の人たちと踊る。家族で踊る」など。読み手にとっても、笑いは喪失感を一時的に包み、ダンスはからだと心に起伏をもたらす。同時に、花沢は笑いやダンスに注目することで、私たちの生活の滑稽さを拾い上げてもいる。そうして、「別れ」に触れたとしても、私たちは笑えるし踊れる、と伝えているように思う。その意味で花沢の文章はプライベートな内容を起点にしながら、全ての人々に共通の経験や感覚に向って開かれている。
一秒たりとも留まることなく死にまっしぐらに向かう私たちにたいして、生まれてから死ぬまでの束の間、きらきらと火花を散らす生を指し示す。
花沢は、生のゆらめきとそこここにある死について、その言葉にならなさを知りつつ、言葉に紡ぎ、絵に描き、そしてダンスして、印づけようとする。
不意にあるいはヒタヒタと迫る死をつまみ上げ、よくよく観察して、ときどき微笑みながらスケッチしているのだ。また、言葉とイメージをミックスしながら、生が放つひかりと滑稽さを取り上げ、そのかたちと質感を確かめ、定着させているようだ。
その試みから生まれる作品は、にぎやかで悲しく、すこし滑稽で、そしてまぶしい。