月の下で香るモクセイ 第2話
「大型免許を取ってみないか?」
喜多川課長にそう持ち掛けられたのは、ある日の昼休み。営業所での休憩室でコッペパンをかじっていると、愛妻弁当を持った課長が隣に座ってきた。よく「うちのカミさんが作ってくれてるんだぞ」と自慢している。
「大型免許ですか」
最近考えていたことなので、タイムリーだなと思いつつも、私は食べかけのコッペパンを置き、課長の方を向く。
「ああ。阪東は優秀だからな。取得したら、手取りは二万五千円上げられるかもしれない」
「二万五千円ですか?!」
私は思わずその話にがっついた。
二万五千円。我が家にとっては大金だ。二万五千円あれば、もう少しいいアパートへの引っ越しを検討できるかもしれない。
だが、免許取得に時間を取られて今の仕事が疎かになるのは嫌だ。それで仕事の時間が減ったら、昇給する前に生活がもっと苦しくなる。
「すみません、今回は見送らせていただけますか?」
私が課長に頭を下げると、残念そうに、だけど明るく彼は言った。
「そうか、わかった。そういえば弟さんと妹さんを養っているんだっけか」
「はい。いつも早く帰ってしまってすみません」
託児所のお迎えと家事があるので、私は十九時までに帰らせてもらっているのだ。
「いいんだよ。阪東は偉いな。親御さんもこんないい娘さんで喜んでいるだろう?」
親御さん。
私は喉から出そうになる、「虐待されてます」という言葉をぐっと飲みこむ。課長に心配をかけるわけにはいかない。
そう、私が頑張ればいいのだから。
「は、はい。ありがとうございます。ははは」
私は苦笑いしてなんとかその場をやり過ごす。
この世界は、すべての人間にまともな両親がいることを前提として回っているのだ。仕方がない。
味のないコッペパンをかじる。コッペパンが食べられるだけ、私は恵まれている。そう思うしかなかった。
「でさ、『うちの子勉強しなくて困っちゃうんですー』とか言うんだよ。ありえない」
七月十四日。夕ご飯を食べながら、夏美が口を尖らせる。その横で日向がため息を吐いた。
「俺のところも、『うちの子がいつもすみません。きちんと勉強させますから』だってさ。本当にどうなってんの。まじあたおか」
今日、日向と夏美の小学校では授業参観と教育相談が行われたらしい。
例にもれず、うちの母親も参加し、教育相談という名の三者面談にも参加したとのこと。
「つまり、また普通の母親を装っていたってこと?」
私が聞くと、二人はコクコクと頷く。こういったところはよく似ているので面白い。
「そうそう。それどころか教育ママ装ってたよ。中卒のくせに」
日向がそう言うと、夏美はポカっと日向の頭を叩いた。
「痛っ! 夏美、なにするんだよ!」
「中卒のくせにって言葉は、あまりにもお姉ちゃんに失礼すぎるって思わないの? お姉ちゃんも中卒だよ? 謝りなさい!」
夏美はまるでリンゴのように顔を真っ赤にしている。どうやら本気で怒っているようだ。日向は夏美の言葉を聞き、夏美とは対極的に顔を真っ青にして私に頭を下げる。
「ごめんなさい、姉ちゃん……」
顔は見えないが、日向は涙声になっていた。
「気にしてないよ、大丈夫。夏美もごめんね」
それは本心だった。確かに中卒のせいで給料が低いのは確かだが、別に私は学歴に自分の価値を依存させていない。私の価値はそれ以外で見出して見せると、高校を辞めたその日から決めていた。
私は日向と夏美を抱きしめる。彼らが最後に人から抱きしめられたのはいつだろう。
彼らはお金にも、愛にも飢えていたのだ。
お金ばっかり稼ぐことに集中してしまい、こうして彼らを抱きしめてやることも、話を聞いてやることも私はしなかった。
やっぱり、姉失格だ。
でも、愛だけでは腹は膨れないのも確かである。
愛は金にならないが、金は愛になるのかもしれない。
夏休みは世間一般の子供たちにとっては嬉しいものなのかもしれない。だが、阪東家の子供たちにとってはそうではない。
七月二十一日。今日から夏休みだ。そして今日は、久しぶりに私も6休みである。夏休み中、私の仕事はある日は、学校がないので、昼間は子供たちを家に残すことになる。私はどうもそれが不安でたまらないのだ。平日昼間になんて来られたらたまったもんじゃない。
せめてすぐに逃げられるようにと、私は寝室の窓の近くに、階段状に棚を置いておく。こういう時は一階の物件でよかったと思う。
久しぶりの休みと言っても、何をすればいいのかがわからない。やっぱり単発バイトを探しておけばよかった。適当に家事でもするか。朝の準備がないのはずいぶんと楽だ。
「おはよう、姉ちゃん」
日向が起きてきた。夏休みだというのに早起きだ。日向は食卓代わりの段ボールの上で、原稿用紙を広げた。
「ん、おはよう日向。夏休みなのに早起きで偉いね。それは何?」
私は日向の原稿用紙をのぞき込む。
「将来の夢についての作文を書け、ってさ。夏休みの宿題」
日向が面倒そうに原稿用紙をつまんでヒラヒラと揺らす。
「そうなんだ。書くことは決まってるの?」
「決まってるけど……」
日向は黙り込む。だがその瞳は何か言いたげだ。私は彼の隣に座り、肩を優しく叩く。冷たかったのか、少しだけその体が震えた。
「話してごらん?」
「……になりたい」
「ん?」
日向は顔を赤らめ、大きく息を吸い込む。
「弁護士になりたい。たくさんの人を救いたいし、生活だって楽になるでしょ?」
日向の体はまだ震えていた。私は彼の手を握り、にっこりとほほ笑みかける。
「いいじゃん! 姉ちゃん、日向が法科大学院まで行けるように頑張る!」
「え、でも……」
「何? まさかもっと難しい予備試験受けるの?」
「そうじゃないけど……」
そうだ、日向は一番近くで私のことを支えてくれている。金銭面についても、彼が一番知っているのだ。子供たちに夢を叫ばせることすら許してあげられない私がなんとも憎いが、もう頑張るしかないのだ
「お金のことなら心配しないこと。姉ちゃんの幸せは、日向たちの幸せなんだから」
照れくさくなったので、「洗濯してくるね」と言って外に逃げる。
子供たちがどうすれば幸せになってくれるか、そのことを模索して日々働いている。いつだって、子供たちの一番の味方でいて、あんな両親から守ってやりたい。それこそが私の幸せで、私の使命なのだ。
洗濯と掃除を終えると、もうすでに昼になりそうだった。そろそろご飯をつくらなくては。
その時。
「花澄―?!」
ドアがガンガンと叩かれる。母親が来た。私は日向にアイコンタクトを取る。寝室にいた夏美と双子を連れて、日向は窓から外に出た。私は深呼吸をして、覚悟を決める。
「いるんでしょ?! 早く開けなさい!」
母親はさらに声を荒げた。私は震える手で玄関まで走り、扉を開ける。
そこにはやたらと派手な化粧をした母親と、ジュンがいた。
「……何しに来たの」
私は二人を睨みながら訊ねる。すると母親は妖怪のように笑い、私の体を押す。私は壁に激突し、鈍い痛みが脊髄にはしった。
「ちょっと部屋を貸してもらおうと思ってさあ、ねえ、ジュンくん?」
女になっている母親を見て、私は吐き気を催す。無精ひげを生やし、不潔な見た目の中年の男、ジュンはヤニで黄色くなった歯を見せて笑う。揃いも揃って気持ち悪いペアだこと。
だけど、その目元はやはり双子に似ている。血縁上の父親がこんな男だなんて。あの子たちが気の毒だ……と言いたいところだが、私たちの父親も大概である。
勝手にズカズカと上がり込む。私はその光景を呆然と眺めていたが、突然母親は踵を返して、低い声で「おい」と鳴いた。
「もてなすことくらいできんのか!」
バチン。
私の頬に衝撃が走る。また平手打ちされたのだ。いくら女とはいえ、力は相当強く、私はよろけてまた壁にぶつかる。
もてなすといっても、私の家には水かお茶くらいしかない。私は麦茶を冷蔵庫から出し、ダイニングで座る二人に差しだした。
二人はそれを無言で受け取る。
「にしても汚い部屋だこと。アンタ、長女のくせに情けないなあ!」
「俺らの子供たちはどこ?」
ジュンは気色悪い笑みを浮かべて私に聞いてきた。何が俺らの子供たちだ。育てて
もいないくせに。
「近所の公園じゃないですかね?」
「じゃないですかね、って何よ?」
子供たちは恐らくその近くに避難しているだろう。軽くそう返すと、母親は私のことをじっと睨んだ。まるで私を呪い殺そうとしているかのように。
「え?」
次の瞬間、私の体は吹っ飛んだ。
「痛っ……」
「アンタ、そんなんで子供を育てている自覚はあるのか?! 死んじゃったらどうするつもり?! 本当に無責任だ!」
無責任なのはお前らだ! と叫びたいところをぐっと堪える。
別に育てたいって言って育てているわけでもないし、私は流れ落ちる一筋の涙を止めることができなかった。そんな私を、母親は容赦なく痛めつける。
「まあまあミホちゃん。落ち着きなよ。一応娘でしょ?」
「娘? あんなクソ男の遺伝子が入ってる人間なんて気持ち悪いわ。私の子供は聖也と聖奈だけだから」
じゃあ育てろや! と言いたいのをこれまたぐっと堪える。
母親のことをミホちゃんと呼んだジュン。一応かばってくれたことになるのだろうか。でも、不倫をしていて育児放棄をしている時点で信用できない人間である。
「とりあえずアンタは私らの邪魔しないところに消えて。てか死ね」
私は痛む腰をさすりながら寝室へ逃げる。
家事もできそうにないし、この時間を利用して高認の勉強をしよう。そう考えて私は高認テキストを棚から出す。古本屋で安かった、ボロボロのテキスト。ところどころに書き込みがなされている。
寝室の壁にもたれて、私は演習をする。だんだんとわかる問題が増えてきた。学校に通わなくなると、勉強が急に恋しくなることもある。
数学の問題に苦戦していると、私の耳に毒が飛び込んできた。
「あ、んんっ……」
ダイニングから、母親の嬌声が聞こえてきた。それと同時に、皮膚と皮膚がぶつかり合う
音がパンパンと響く。
また始まったよ。
私は耳を塞いだ。あまりにも気味が悪い。
ここはラブホじゃないっての。
吐きそう。だが吐くわけにはいかない。掃除の手間が増えてしまう。私は窓から逃げ出したい衝動を抑え、部屋の隅でうずくまって時が過ぎ去るのをただ待った。壁一枚隔てたところで、母親と不倫相手がセックスをしている。嫌悪感でしかない事実だ。
気が狂いそうになりそうになりながらも、時は過ぎた。風呂場からシャワーの音が聞こえてくる。
私はダイニングに戻る。するとそこにはジュンがいた。てっきり一緒にシャワーを浴びていると思った。
空のコップを台所に下げ、また寝室に戻ろうとすると、「なあ」とジュンに話しかけられた。
「……なんですか」
「ちょっとここ座ってよ」
ジュンはそう言って座っているところのすぐ隣を指さす。
従いたくはないが、彼の機嫌を損ねたらどうなってしまうだろうか。もしかしたら、母に告げ口をされてひどい目に遭うのかもしれない。
「……はい」
私は少しだけ距離を取ってジュンの隣に座る。
「さっき、大丈夫だった?」
鼻につく、やけに甘い声。私はジュンの顔を見る。まるでエロ本を前にしているかのようなにやけ顔。
「先ほどはどうも」
一応かばってくれたのだ。
私が冷たく言い放つと、ジュンは唐突に私の乳房を鷲掴みにした。
「ひゃうっ?!」
「まあ、お礼だと思ってさ」
耳元で囁かれ、私の背筋が凍った。
バックハグされながら、両乳房はジュンの手によって形を変える。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られながらも、やはり彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。でも同時に、母親の機嫌も損ねてはいけないのだ。
「母には、内緒にしてくださいね」
私はそう言って、一応同意した。
風呂場のシャワーの音が止むと、ジュンは私の乳房から手を放した。痛む乳房をさすりながら寝室に戻ろうとすると、「ちょっと待って」とジュンに呼び止められる。ジュンは近づいてきて、また何かされるのではと怯えるが、彼は私の手のひらに一万円札を握らせた。
「え?」
私が間の抜けた声を出すと、ジュンは「口止め料と、お礼」と呟いた。
寝室に戻ると、入れ替わるように母親が風呂場から出てきた。そして間を開けずにドアの開閉音がする。どうやら帰ったようだ。私はほっとしながら、畳をずらす。
ジュンからもらった一万円札を畳の裏に入れた。これ以外は、私が身を粉にして稼いだもの。それに対しこれは、私が知らないオッサンに胸を触らせて不本意に稼いだもの。そう考えると破り捨てたい。だが、子供たちのためにもお金は一銭でも多い方がいいのだ。
「私、処女なんですけれど」
家に唐突に来たジュン。しかも母親はおらず、彼一人だった。とりあえず子供たちを避難させて応対する。挨拶もなしに、私は急に抱き寄せられた。そのまま耳元で開口一番に「五万でどう?」とささやかれたのである。
当然、私は処女だ。雄一とよくじゃれ合ってはいるが、それ以上にはならない。それに、こんなオッサンしかも母親の浮気相手に処女をささげるのは気が引ける。
「じゃあ十万」
またジュンはささやいた。
そういう問題じゃない、出てけ! と頬を打ちたいところだが、機嫌を損ねるわけにもいかない。それに、十万という金額はあまりにも魅力的だ。十万円あれば、引っ越し資金に一気に余裕が出る。
「……乗ります」
私はダイニングで押し倒され、中にしっかりと性欲を吐き出された。
こんな生活のせいか、もう一年以上生理が来ていない。いや、面倒だしお金もかかるから来ない方が助かるけれど。だから妊娠の心配はしなくていい……のかわからない。無月経でも排卵は起こることもあるとどこかで聞いたことがある。私の場合それすらも怪しいが。
手に残った十万円を畳の裏に入れる。どんどん畳の裏が汚いお金で満たされていく。
寝室の隅で眠る双子。さっき君たちののパパとセックスしたよ、ごめんね。心の中で呟いて、自分はもしかしたらとんでもないことをしたのではないか、自分は相当汚れているのではないかと自己嫌悪した。
あれからもしょっちゅうジュンは家に来た。そのたびに性行為を要求し、彼は七万円を毎回握らせた。それで母親とも関係を持っているらしいから困ったものである。
畳の裏の貯金は、五十五万円にまで膨れ上がっていた。また、物置にあるいろいろなものを入れている段ボール箱の奥底に五万円。銀行には十二万円を預けてあるので、七十二万円もの貯金ができた。私は、そろそろ貯金を切り崩してテレビでも買おうかな、アパートの内見にも行こうかな、とホクホクとしたが、そのお金を稼いだ手段を思い出して自分をぶん殴りたくなる。
ジュンが来るたびに股を開き、七万円を握らされ、生活の足しにする。
こんなことをしているだなんて、子供たちには言えるわけがない。
日は過ぎ、もう八月は中盤、十日になっていた。
私は毎朝のルーティーンとなっている畳の裏の貯金確認をする。今朝は聖也と聖奈がぐずったせいで、時間が結構ぎりぎりなのだ。
重い畳をずらすと、そこには私の希望と汗と罪悪感の塊がしっかり存在している。
「よしっ」
私はそう言って軽くガッツポーズを作るが、もう時間がない。ずらした畳を直す時間すらも惜しい。まあいい。このまま出かけることにしよう。私は畳をずらしたまま出かけた。
「俺、大学行こうと思って」
十七時の営業所。そこで雄一は唐突に私に告げた。
「大学? これまた急に。てかそんな頭あるの?」
「ちょっとくらいはあるわ、失礼だな。俺、本当は教師になりたかったんだ」
「教師? あんたが?」
あまりにも意外なその言葉に、私は目を丸くする。
そういえばこの前も日向の夢を聞いた気がする。人の夢を聞くのは楽しい。語る人はみんな、瞳を宝石のように輝かせるから。でも、何も夢がなく、あっても叶えるための時間とお金のない私とどうしても比べてしまう。
「うん。高校時代の恩師が忘れられなくて」
「そんなにいい先生だったの?」
雄一はゆっくりと、自信満々にうなずいた。やはりその瞳も輝いている。
「とっても。俺が進路に迷っていた時、ここに就職させてくれたのもその先生だから。俺も、誰かの人生を導けるような人間になりたくてね」
「誰かの人生を導く、か……」
私とは程遠い人間像だ。私には何かを語れる教養はない。中卒の、ただのドライバー。私が話したって、聞いてくれる人などいないのだ。
すべてを受け止めてくれる人も。
「というか、ここはやめるの?!」
教職課程はかなりの忙しさだと聞いたことがある。通信制の大学はあるものの、それでもかなりハードだろう。いくら体力のある雄一とはいえ、きっと厳しい。
「まあ、ここで働いているのは大学に行く資金を貯めるためってのもあるし。今年いっぱいでやめるよ。てか、そんな顔すんなよ。やめにくいわ」
知らないうちに悲しい顔をしていたらしい。
入社当時から切磋琢磨してきた仲間がいなくなることがわかったのだ。私は必死に笑みを作り、「頑張れ」と彼の肩をたたく。
鼻の奥がツンとする感覚はしたが、泣いたら負けだ。
私は気合を入れなおし、夜の配達へ向かう。
もう荷物も少なくなってきたころ、ひっきりなしに私の携帯が鳴った。
画面を見ると、非通知とある。
迷惑だし、何より怖い。運転の邪魔になるので、私はスマホの電源を切ってリュックにしまった。