鍼と出産〜出産編③
エピデュラル、するでしょ
痛みはまさに耐え難いものになっている。心の中で「痛いじゃないか〜〜!」と叫んでいた。無痛分娩なのに、まったく今までの自然分娩と変わらない無念と憤り。
アマンダたちはわたしの子宮口の具合を見ながら何やら動き出している。いろんな器具やらリネンやらが乗せられたカートが運び込まれ、緊張感が走っている。なにそれ、それよりエピデュラルのほうどうなってんの…?もう私にはそれしか考えられない。
ベッドの隅に腰掛けて諭すような口調でアマンダが口を開く。
「今までよく頑張ったわ。もうあと一押しなの。なんていうか、もうこのまま頑張っちゃう?」
全く進展ないと思っていたので唐突な現状報告は嬉しい驚きだったけど、え、なんて?エピデュラルやらんって言った?
このとき何を思ったかDDがまさにこの瞬間のわたしの表情を撮影していたのだが、人非人!!とでも言いたげな、土壇場で裏切られたことへの驚愕と非難の入り混じったなんとも言えない強烈な表情だった。
エピデュラルをしても効くまでに20分はかかるし、それまでに産まれてしまうかもしれないから手間だしこのままいっちゃえば、ということだったようだけどこのときのわたしにはもはやいつ産まれるかというのはもはやどうでもよかった。この瞬間のこの痛みから解放してくれ!!
なんのためにここまで頑張ったんだ、と抗議するとアマンダは「じゃあ麻酔科医を呼んでくるわね」とあっさりオッケーしてくれた。
ここの人たちはあくまで本人の意思を尊重してくれるし、もしそれが提案を断るかたちになってもそれで気を悪くすることはない。結局選んだことには責任が伴うから。
エピデュラル、まだまだ
麻酔科医は果たして別室で待機していつでも出動可能、というわけでは当然ない。「今お願いしてきたからあと15分くらいで来れそうよ!」とアマンダはこともなげに言ってくれたけど、わたしのアラートが発動。
カナダ人の15分が15分のはずがない。
イディオムなのかなんなのか、ここの人たちは5分かかることをワンセカンド、というし15分かかることをワンミニッツとか言うんだよね。それを15分って言うんだからこれは30分は覚悟しないとね、そしたら陣痛あと何回くるんかい。
半分諦めながらも日本人の血がすがるように時計を見ることをやめさせない。5時45分。6時にはくる、あと15分、14分、キタキタ、いてええ〜、あと10分…ああ、やっぱり6時過ぎた、あああ〜痛え〜。午後から嵐の予報は的中し、窓の外はどんよりと暗く激しい雨が降っている。稲妻が遠くで光るのと呼応するように激痛が襲う。ああ〜!
必死の形相で歯を食いしばり牛の悲鳴のごとく絶叫するわたしを見かねたステフがこれ、やってみる?とヘリウムボンベを持ってきてくれた。本来ならもう少し早い段階で使うのだろうけど、わたしが鍼を持ち出したことで遠慮していたよう。
いつ吸うのか吐くのか要領を得なくて戸惑ったけど、あ、これが一番効くかも、とあへえ〜と妙なうめき声を出しながら思った。それとも目新しさに気が削がれて痛みの感度が瞬間的に下がっただけなのか。それがわかる前に麻酔科医がついに登場した!!
エピデュラル、いよいよ
結局アマンダが呼んでくれてから30分強、というところで来てくれたのでまあまあカナダ人にしては合格だわ…。
医者はロン毛でリラックスしたおじさんで、倫理上決められているのでしょう、注意事項やリスクをリラックスしながら淀みなく早口で言ったあとで、で同意します?と聞いてきた。もちろんほとんど聞いてないけど力強くイエスを言う以外あり得なかった。
邪魔になるコードを外してベッドに起き上がり、医者に背を向けて座らされる。注射針が刺さる時が結構痛いよ、というのが先ほどの注意事項の中で言われていたけど、実際痺れるような衝撃があった。それにしたって経験中の陣痛に比べればなんのことはない。処置自体は一瞬で終わって、効くまでに20分はみてね〜、なんかおかしかったら言ってね〜と言って医者は軽やかに去って行った。
分かっていたけど当然即座には効かないし、その間にも容赦なく陣痛は襲う。こんなはずでは〜と悲痛な叫びを心の中であげ続ける。ちょっとよかったヘリウムガスも片付けられちゃったし、しかもなんかこんなときにオナラが出そう…。必死に我慢の両面展開。
変化を感じ始めたのは確かに20分をすぎた頃だったろうと思う。陣痛は痛みのない小休止からじわじわと嫌〜な波がきてピークまで盛り上がるのが前半、マックスに到達してから痛みを畳み掛けてくるのが後半。その前半の嫌〜、キタキタまでいつも通りで痛いのだけど、その後の後半がすっぽりなくなった感じで小休止に入る。前半だけを繰り返す感じが続き、痛いのは痛いのだけどまあましになってきた。
こんにちは、赤ちゃん
ステフが「プープ(大便のこと)したくなってこない?」と聞いてきたので素直にそんな感じがするのよね…とオナラを堪えながら答える。
それを聞いたミッドワイフたち、「赤ちゃんがだいぶ下がってきてるわね!もうすぐよ!」と準備を始める。赤ちゃんが産道を通るとき、物理的に大腸・直腸に圧をかけるので便意を催すのは当然のことみたい。
するとどばっと我慢できずに中から激しく流れ出た感覚が。こりゃ出てしまったわ…!と恥ずかしくなったけどもうどうでもいいよ、とスッキリしながら開き直る。ミッドワイフが腰の下に敷いていた吸水シートを取り替える。後でDDに聞くと大の方は出てなかったみたいで、大量の血と水だったみたい。ここで本格的に破水し、いよいよ赤ちゃんが見えてきた!
「いきんで、思いっきり!頑張って!」「もっと強く!」「惜しい、もう一回!」と明るく朗らかに声援?を送るミッドワイフ達に応えてわたしも一生懸命お腹に力を入れて気張る。だけどこの頃にはエピデュラルが確かに100%効いてたようで、頑張っても感覚が空振りするような妙な感じだった。これ以上力入んないし、なんか手応えないし、え〜、どうすんの?という感じで何度か繰り返していると、実際は結構進展があったようで「頭よ!」と歓声があがる。
すでによれよれだけど好奇心で少し体を起こして股の間を見ると小さな、濡れた黒い毛の張り付いた丸いものがひょっこりしてる。本当に不思議な光景だった。
ところでミッドワイフのアポイントメントに出産間近になってようやく帯同したDDは、繰り返しキャッチする意思があるかを確かめられていた。
キャッチ、つまり股から出てきた赤ちゃんを受け止めること。
DDは聞かれるたびに怖気を振るって、できない!あるいは分かんないよ!と答えていた。理由を聞くと、「血が苦手」「スプラッターな光景に気絶しそう」、さらには「トラウマになってもうエッチできなくなるかも」だと。
悪気もなくしれっとこんなことを妻に言える無神経に唖然とした。生殖が本来の目的であるのが性行為、その結果の出産という現実を、まるでおぞましいもののように考えて、痛みや汚れは妻だけに押し付け、自分は気持ちのいいこと、美しいものしか見ようとしないという自分勝手さ。お前なんんかに頼まんわ、キャッチなんか。とわたしも思っていた。
「ダディ、キャッチするでしょ?」ついにそのときになってアマンダがDD に尋ねた。驚くことにDDは多少動揺しながらもイエス、と答えている。
渡されたゴム手袋を装着して緊張した面持ちでスタンバイする様子が見えたけど、なんというか、けっこうどうでもよかった。今ここにある痛みとしんどさだけが全てなのだ。
もう一度いきむとずるっと中から滑り落ちる感覚がある。やった、産まれた…!
どうでもいいけど考えてみるとこれまでの2回の出産は夕方産気づいて入院、一晩陣痛が続いて明け方の出産というパターンだったから、コンタクトも外し、メガネも未装着。今回は午後入院だったからなんなら日焼け止めまで塗ってる外出体勢だったので、初めてコンタクトを装着し、はっきりと産まれたばかりの我が子をみることができた。小さい、とても小さいけどしっかりと人間の形をしたものがDDの両手の中に抱かれていた。
DDはというと、恐怖に怖気づくどころか興奮して目に涙まで浮かべている。「産まれたよ!見て!」と産まれたばかりの赤ん坊をわたしの方に差し出すも、「臍の緒、そんな長くないから!切ってからにして!」とステフに冷静に止められている。そして躊躇なくハサミを受け取り臍の緒を切っている様子がぼんやり視界に映る。のちに聞いたところ、臍の緒というのはぬるぬるして弾力があってなかなか切れず、まるで焼肉屋でホルモンを切るような感覚だったとか。血を見たら気絶するとか言ってたのは何だったの、と聞くと当時アドレナリンが全開で怖いとかもうそんな感情は一切なくなって異様にハイになっていたらしい。彼は果たして焼肉屋でホルモンを頼むことはできるのだろうか。
臍の緒がまだついた小さな赤ちゃんを興奮したDDから手渡される。ここまでにふんぎゃあと小さいけどしっかしとした声が聞こえて安心した。産まれたばかりの赤ん坊と対面すると、愛おしさが溢れ涙が出そうになる、これが母性ね、なんてのをよく聞くんだけど、不思議なくらい何の感動もない。感動はあとからするにして、それより!何より!終わったよ!もう痛いの終わった!いきむの終わった!その開放感と安堵が全てだった。痛みって恐ろしいものよ、理性も情感も吹っ飛ぶわ。
このとき7時を少し回ったところ。陣痛が始まってちょうど5時間。3人目にしては遅いのかどうかは分からないけど、スムーズな出産だったと言えるのだろう。まだのんきだった午前中、フェスティバルで描いてもらったお腹のカナダ国旗にぽてりと乗せられた小さな赤ちゃんをそっと撫でる。
助っ人で急遽休日返上で駆けつけてくれたもう一人のミッドワイフ、サラが胎盤や残留物を子宮内からごっそり引き抜いてくれた。すべてがで終わったとき、いつの間にか晴れた夜空にカナダデーを祝う花火が上がった。
ウェルカムトゥザワールド!
おつかれ、わたし
ミッドワイフを利用する利点はミッドワイフが産後ケアのために退院直後から自宅を訪問してくれること。裏を返せば出産したら即退院なのである。全ての気力体力を使い果たし、外は花火も鮮やかな夜空となった今、心から思う。頼むからこのままここで寝かせてくれ…!
すると事後の事務処理を終えたらしいアマンダがまたも神妙な面持ちで「赤ちゃんは健康よ。パーフェクト。でもやっぱりちょっと平均より小さめなのよね。」と言う。先ほど身長体重を測っているのを一緒に確認したけど、50cm、2944gといういたって申し分ない値だったのだけど。両親ともに小さいアジア人だから普通っていうのは間違いないんだけど一応北アメリカ基準でやってかないといけないから、念のため一日入院して様子をみたいんだけどどうする?と聞かれ即答で入院を決めた。ありがたい…!
結果として赤ちゃんは順調におっぱいを飲み、入院の1日で体重も標準に足りずとも標準ペースで増えていることが確認できたので、出産から丸一日で退院することになった。そしてそれから今に至るまで大変な日々が続くわけなのだけど、鍼灸師としてまた機会をみて出産を振り返りたいと思っている。