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不確実な世界で「可能性と希望」を見出すために
夢や希望を叶えたいと思った時、どれくらいの強さがあればいいのだろう。どれだけの可能性を自分自身に感じていればいいのだろう。
手の中にある自分の強さを信じるためには、一体何をすればいいのだろう。
それが本当に自分自身の力なのかも分からない中で、どうしたらいいのだろうか。
何か大きなこと何か新しいことを始めるとき
自分の手元にあったものを手放さそうとしているとき
そもそも何もかもなくなって全てを懸けているとき
今ある道への疑問から新しい世界へと飛び立とうとするとき
このどれかに当てはまらなくても、現時点での立場から旅立とうと計画したり、旅立っていたり、道半ばであったりする人は多くいるだろう。
自分の可能性を信じるか
他者から可能性を見出されたか
それによっても歩く道は異なっていく。
前回、同じ世界にいるのに「スポットライト」か当たらないということを書いた。結局は恵まれていなければならない何も始まらないのではないかというところに疑問があった。
そして、スタートラインは同じようであって同じではなくて。初めから勝負が決まっているかのような理不尽さもあるのではないかと語った。
不確実な世界ほど、見返りも大きければ、自分自身が心の底から喜びを見出しやすい。
その反面、博打すぎる日常の連続や自分を信じ続ける強さ、社会から断絶などに直面する状態は避けられない。
自分の作りだしたもの、知って欲しいこと、楽しませたいこと。純粋な思いであるほどに、届かないことへの恐怖や戻れなさからは逃れられない。
必死に走り続けても、必死に形にしても、雑多なもの中にも紛れてしまう。
あの子ものは、あの人のものは、ちゃんと評価されるのに、ちゃんと見つけてもらえるのに、どうして自分だけはダメなのだろうと悩む日々。
それでも叶えたいからと信じていても、ただ通り過ぎてしまう毎日に「思い」も「希望」もボヤけてしまう。
少なくとも、不確実な世界で可能性や希望を見出していくためには、日常生活の当たり前を望むことが難しくなる。
夢や目標が、ごく一部の人のみにしか拓けていないものであるならば、何かを諦めていくしかなくなってしまう。確かに、あれもこれも得ている人がいるのは事実である。全てを諦めなくても、ちゃんと得られている人もいる。
その人と自分は何が違うのか、それさえも読み取れないほどの誤差であるにもかかわらず叶わない。
でも、その誤差を見つめることが大切なのかもしれない。
ほんの小さな誤差が、運命を左右するのが「不確実な世界」なのである。誰かがいた、この時期だった、適切な言い方だった、たまたま伝わった、たまたま繋がる人が多かった、そんな偶然の連続が実現に繋がる。
積み上げた結果とされる受験や試験などでさえも、どの問題が、体調や天候が関わってくるのだから。
闇雲に続けることも手であるし、期限を決めるのも正しい。命を懸けることも、どこかで線引きをするのも正しい。
何が人の心に引っかかるかなんて分からない。
それでも伝え続けた人しか、正解か不正解かは分からないと感じる。
ギリギリの生活が正しいわけでもない。そして、自分を押し殺してまで安定を得ることが正しいわけじゃない。ただこの世界で生きる以上お金がなければ、自分の世界を豊かにすることは不可能である。それに、その豊かさが夢を叶えるための手助けになることが十分に有り得る。
片手間にやっては成功できないとか、2足のわらじはダメだとか言うけれど、極限状態で成功する確率は、コツコツと積み上げて無理をしない状況での成功とそうは変わらない。
不確実な世界は、何事も不確実なのだから。
今、夢のための行動し、周りの人ばかりが成功して悩んでいるとき
成功していない自分が言うのはおかしいけれど
「可能性と希望」を殺さないためには
不確実な世界でも「無理のない生活」を続けることであると思う。半歩でもやり続けていく強さが、大きなものへと繋がることを絶やさないことだろう。
ネガティヴになったとしても、泣いてしまっても、苦しくても、辞めてしまいたくても
自分の夢や目標を、何らかの形で継続することを忘れないことなのかもしれない。
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