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「虫の知らせ」全話 (R18ホラー短編➀)

#ホラー小説部門

#眠れない夜に


(あらすじ)

市民劇団に所属している三十四歳のわたしは、夫と娘がいる平凡なパート従業員。同じ劇団員の狩場樹音と一緒に、公民館の大ホールの舞台袖で、公演中の推理劇への出番を待っていた。樹音は大手の芸能事務所にスカウトされ、来年の春に公開されるミステリー映画の主演女優として芸能界にデビューする予定だった。樹音の肩に止まった一匹の蠅に気づいたことを契機に、わたしは、一か月ほど前に友人の死体を発見したこと、それに端を発した二つの死の連鎖を思い出した。三つの不条理な死の背景に思いを巡らせる中、目の前に再び蠅が現れ、わたしは恐ろしい運命の渦に巻き込まれる。(268字)

(次作)

「深い窓」全話 (R18ホラー短編➁)|進見達生 (note.com)


(本編)


 市民劇団『ファントム・ゲート』による推理劇は、中盤に近づいていた。
 舞台の上では、閉ざされた雪の山荘で殺人が起こり、偶然に居合わせた警部が容疑者への尋問を開始するシーンが始まっていた。
 わたしは、舞台の袖で、着ているメイドの衣装の最終チェックをしていた。ワインレッドのワンピースの上にフリルの付いた真っ白なエプロンを着け、髪には白いレースで縁取られたヘッドドレスのカチューシャを付けている。今の時代ではメイド喫茶くらいでしか見られないコスチュームだが、演出家が指定した衣装なので、文句はいえない。
 定員が三百名程度の小さな劇場は満席だった。マイナーな市民劇団の作品を見に来る物好きな人間は毎回それほど多くなく、これだけ盛況なのは経験したことがなかった。客の半分は出演者の家族か友人だろうが、残りの半分はマスコミや芸能事務所の関係者であることが想像できた。
 劇場とは言っても、市の公民館の大ホールをその日の午後いっぱい借り切っているだけだった。天井は高いが、ホールを照らすオレンジ色のライトは頼りなく、座面を倒すタイプの布張り椅子の大半も擦り切れているはずだ。しかし、ホール内は今まで経験したことがないほどの熱気に包まれ、ところせましと舞台を動き回る俳優たちも、熱に浮かされた様子で自分たちの演技に没頭していた。
 今回の演目は、新進気鋭のミステリー作家が、今回の劇のためにわざわざ脚本を書き下ろした作品だった。ありふれた街の市民ホールを満席にしたのも、地方の小劇団のために名の知れた作家がわざわざ脚本を準備したのも、舞台袖のわたしの目の前で出番を待つ、今は無名の若手女優の存在によるものに他ならなかった。
 狩場樹音。確か二十歳になったばかりのはずだ。
 彼女は、高校を出てから調理師の専門学校に進み、市民劇団に所属しながら、このあたりでは有名なケーキ店でパティシエ助手をしていた。彼女の美貌は地元ではつとに有名で、聞きつけた大手芸能事務所の目にとまり、スカウトされた。今回の推理劇は、彼女にとって、市民劇団『ファントム・ゲート』での最後の公演になる。
 女性にしては百七十センチ近い長身で、髪はショートカット。彼女のボーイッシュな容姿は、本作の探偵役にはぴったりだ。胸が小さくほっそりとした体つきは少年のようでもあり、目の大きな中性的な横顔は、確かにうっとりするほど美しい。
 彼女の純白のスーツ姿は凛々しく、ピンストライプの碧いシャツとインディゴブルーのネクタイもよく似合っている。髪がわずかに銀色に煌めいて見えるのは、染めたわけではなく、もともとの地色なのかもしれない。
 彼女は今から数分後、大雪のせいで車を乗り捨ててきた名探偵として舞台に登場する。劇のクライマックス以上に盛り上がることは間違いなく、この手の物語としては比較的まともな脚本も、あわれにもかすんでしまうことになるだろう。
 今日の推理劇が終了し次第、彼女は来年の春に封切られる、全国ロードショーのミステリー映画の主演女優として、撮影に参加する予定だと聞いている。新人の売り込みには定評のある芸能事務所であり、芸能人としての彼女の未来は燦燦と輝いていると言える。
 一方のわたしはと言えば、あと一か月ほどで三十五歳になる、パート従業員だ。樹音のような生き方は望まないにせよ、その華やかな将来には少なからず嫉妬を覚える。
 これでも、中学生以来、男性には度々言い寄られていた。自分の言うのも気恥ずかしいが、栗鼠を思わせるつぶらな瞳と、小ぶりながら少し尖った鼻は男にとって可愛く見えるらしく、告白されたことも一度や二度ではない。背は大きくないものの、スタイルも悪くないと思っている。
 学生時代は浮名を流していたわたしも、勤めていた食品会社の同じ職場にいた今の夫と九年前に結婚し、翌年には長女が生まれた。夫の月給は決して高いとは言えないが、わたしや娘にはとても優しく、誕生日や結婚記念日などには、必ずプレゼントを買ってきてくれた。自分は、そこそこ幸せな人生を送っていると心から思う。
 客席では夫と小学二年生の娘が、わたしが舞台に現れるのを今か今かと待っているはずだ。セリフが二つしかないメイドの役は、娘にとっては大いに不満だったようだが、今回が二回目の舞台との立場を考えると、セリフがある役がもらえただけ御の字だと思う。
 舞台上では、警部役の中年男性が、誤った推理で見当違いの犯人を指摘するセリフに差し掛かった。そろそろ、探偵役の樹音がさっそうと登場する場面だ。
 わたしは、樹音の後ろについていくかたちで舞台に進むことになる。「探偵の方がいらっしゃいました」というのが、二つあるセリフのうちの一つだった。薄暗い舞台の袖から、眩いばかりに明るい舞台に足を踏み入れるのは勇気がいるが、舞台から見た観客席は暗闇に近く、ほとんど観客の姿が見えないことがせめてもの救いだ。それよりも今後、わたしとは比較にならないほど人に見られることになる樹音は、どんな気持ちなのだろうか。
 わたしは、樹音の背中をじっと見つめた。彼女は舞台の方を向いたまま、人形になってしまったのではないかと思うほど動かない。
 樹音の真っ白な上着の肩に、蝿が一匹とまっていることに気づいた。蠅は小刻みに手足をすり合わせているが、樹音は気づいていないようだ。わたしが一歩前にでると、蠅は耳障りな羽音を残して舞台の袖の奥に飛び去って行った。
 蝿……わたしは目を閉じた。悪夢の始まりは、そう、一か月ほど前にわたしが見つけた、あの死体からだ。
 
 
 それは、九月中盤の残暑厳しい夕暮れ時のことだ。わたしは、スーパーマーケットのレジ打ちのパートを終えて、自転車で自宅アパートに帰る途中だった。勤め先から自宅までは自転車で十分ほどだが、特にその日はうんざりするほどの暑さで、ゆるやかな上り坂を上り切ったときには、着ていたブラウスはぐっしょりと汗にまみれていた。わたしは自転車をおり、肩で息をしながら自転車を引き始めた。
 高校時代の友人とその夫が住む、古びた一軒家の前を通りかかった。真っ赤な夕陽が降り注ぎ、家全体が血にまみれているように見えた。そろそろ闇が忍び寄る頃だが、門灯もついておらず、家の中も暗いままだった。
 彼女と彼女の夫は、同じ中高一貫校の教師をしており、彼女は国語を、彼女の夫は美術を担当しているらしい。彼女が夫とぎくしゃくしていることは、高校時代の同級生から何となく聞いていた。彼女の夫は女性にだらしなく、一年ほど前から夫婦で衝突しては、離婚するだのしないだのの罵りあいになるのだそうだ。現状では、こじれにこじれて、修復が不可能なまで関係は悪化しているらしい。
 彼女の夫は美術教師であると同時に、市民劇団『ファントム・ゲート』の代表兼総監督でもあった。わたしの長女が小学校に入ったタイミングで、彼女から「夫が主催している市民劇団に入らないか」と誘われ、それを機に彼女との付き合いが再開した。彼女たち夫婦に子供はいなかったが、以来、わたしは子供を連れて、度々この家に出入りすることになった。
 わたしが劇団に入る旨を彼女に回答する際、彼女の夫とこの家で初めて会った。西洋人を思わせる彫の深い顔や心地よい低めの声、スマートな物腰は、女性にとってさぞかし魅力的だろうな、との好印象を持ったことを覚えている。
 彼女の夫とは、三月末の夜、一度だけキスをしたことがあった。劇の打ち上げが終わった後、帰る方向が一緒だということで、二人連れだって自宅のある方角に向かって歩き始めた。夜桜が満開で、何となく心が浮き立っていたことを記憶している。二人とも酔っていたこともあり、途中にある児童公園の茂みで不覚にも唇を重ねてしまった。ただ、わたしの胸に伸びてきた彼の手をやんわりと押さえ、その場でそれ以上の関係に発展することは抑えることができた。
 以降、劇団での練習のたびに、彼女の夫の粘りつくような視線は何度か感じたが、できるだけ関わりを持たないよう、適度な距離感で対応してきたつもりだった。
 正直を言えば、彼女の夫に興味などはなかった。高校時代から勉強ができ、偏差値の高い大学に進んだ彼女に、いつも見下されているように感じていたことへの、単なる腹いせだった。三十歳を超えても、女性的な魅力が彼女を圧倒しているところを見せつけてやりたいとの、暗い思念もあった。
 わたしの存在が、彼女と彼女の夫との関係が破綻しかかっている原因の一端である可能性はあった。ただ、他の劇団員からの話を聞く限り、彼の勤め先である学校の女子生徒や女教師、劇団員の女性などとの不適切な関係の噂は絶えず、彼の手当たり次第の女漁りは、もはや病気の域に達しているらしい。
 そんなことを思い出しながら、わたしは彼女たち夫婦の家の前で立ち止まった。
(彼女はまだ、帰ってきていないのだろうか)
 薄暗闇の中、門の手前から玄関の方に視線を向けた。そのとき、ドアがほんの数センチ、開いているのに気づいた。ドアの隙間からは黒い闇がのぞいていた。
(何、いるの?)
 玄関横の小さな窓にはカーテンがひかれ、中の様子をうかがい知ることはできなかったが、電灯がついている気配はない。勤め先から帰ってきた彼女は、夜が近いことに気づかないまま、眠ってしまっているのかもしれない。
 ドアが細く開いていることは気になったが、そろそろ学習塾から娘が帰ってくることもあり、自転車を引きながら、家の前を通り過ぎる。彼女の家の生け垣を曲がったところで、玄関のドアが激しく開けられる音がした。
 わたしは自転車を止め、生け垣の隙間からそっと玄関を盗み見た。玄関先に背の高い青年が立っていた。真っ赤な夕陽を正面から浴び、顔を歪めて、からだを左右に揺らしている。
 彼の顔には、見覚えがあった。
 茶色く染めた髪の毛の下で、小さな目がきょろきょろと動いている。長身ながら身体にしまりはなく、何となくふやけた感じがしている。
 わたしと入れ違いで、市民劇団を出て行った青年だった。出て行ったというより、追い出されたと言った方が、正解かもしれない。劇団の備品を勝手に持ち出して、リサイクルショップに売り払ってしまったのだ。
 青年は上を向いて、顔をしかめたり、笑ったりする表情を繰り返している。やがて正面に向き直り、「うっ」とうめき声を漏らし、両手で口を押さえながら身体を九の字に曲げた。その恰好のまま、わたしがいる場所と反対側に、全速力で走り去っていった。
(何があったんだろう?)
 不安と興味が入り混じる中、わたしは周囲を見回し、誰もいないことを確認した。生垣の前に自転車を置いたまま、玄関先に向かう。
「ごめん下さい」
 声を掛けながら、開けっ放しのドアから家の中を覗き込んだ。薄暗い廊下の奥から、うっすらと異臭が漂ってくる。生ごみを放置しておいたときに発生するような臭いだ。
 嫌な予感がした。わたしの本能が、このままこの場を立ち去ることを声高に主張していた。しかし、わたしの好奇心が、その声を無理に押さえつけた。
「ごめん、入るわよ」
 わたしはハンカチで口元を押さえ、玄関に入った。靴を脱いで、闇に包まれつつある家の奥に向かう。何度か入ったころのある家なので、間取りは何となくわかっていた。突き当りのドアは開いたままで、闇を透かして正面にキッチンが見える。廊下を進むにつれ、異臭が強くなっていくのがわかった。
 キッチンに入ったが、暗闇に塗りつぶされた部屋の様子をうかがうことはできない。壁にあるはずの電灯スイッチを探り、部屋の明りを点けた。
 キッチンのシンクの前で、彼女が倒れていた。身体は奇妙にねじれ、土気色の顔は、すでに生きている人間のものではなかった。シンク周辺には吐しゃ物がまき散らされ、そのすえた臭いに死臭が混じった、耐え切れない空気がただよっている。彼女は薄く白目をむき、口をわずかに開けていた。青白い唇の間から、数匹の蝿がさかんに出入りしている。
 わたしは喉から声を絞り出して、外に飛び出した。携帯電話で警察に電話をしたが、立っていることができない。門の前で腰を抜かして、その場にへたりこんだ。自分の腕に視線を移したとき、二、三匹の蠅が止まっていることに気づき、再び絶叫した。それは、友人の死体の口から這い出してきた蠅たちの一部に違いなかった。
 その後の警察の捜査で、彼女が睡眠薬の大量摂取で死亡したこと、夫の女性関係に疲れた上での自殺である旨の遺書が残っていたことが判明した。
 わたしは、好奇心に負け死体を見つけてしまった自分の不運を呪うと同時に、自分が彼女の自殺の原因の一端を作った可能性があることに、かすかな罪の意識を感じていた。同時に、このことは誰にも漏らすまいと、自身に強く誓っていた。
 
 
 自分のこめかみに何か異物があることを感じ、目を開けた。小さな羽音が聞こえ、顔に蠅が止まっていることに気づいた。あわてて手で払いのけると、蠅は螺旋状に回りながら、客席の方に飛んで行った。
 二、三度瞬きをして、おもむろに舞台に目を向ける。ちょうど警部役の中年男性がアドリブのセリフを吐いて、客席から笑いを取っている場面だった。
 舞台に上がるタイミングが読めないせいか、樹音は両手を腰にあて、不満げな様子で立ち尽くしている。少年っぽい立ち姿ではあるが、首から背中にかけてのゆるやかなカーブやくびれたウエストは、まぎれもなく成熟した女性の身体だった。
 わたしの出番も、あと数分後に迫っている。心を落ち着かせるために再び軽く目を閉じた、不意に死んだ彼女の顔が瞼の裏に現れ、あわてて目を開ける。
 再び悪夢がよみがえってくる。わたしが所属する市民劇団の代表兼総監督の妻が自殺したことは衝撃だったが、惨劇はそれだけでは終わらなかったのだ。
 
 
 わたしが死体を発見した翌日の夕方、家に刑事が二人、訪ねてきた。その日もうだるような暑さに加え、クーラーの調子が悪く、首元から流れて落ちる汗を一日中ぬぐっていた。
 少し話が長くなるというので、居間に通し、麦茶を出した後に二人の前のソファーに座った。刑事たちもハンカチを握りしめ、何度も額の汗にあてている。
「この男をご存知ですか?」
 年かさの方の刑事がカラー写真を差し出した。昨日、彼女が死んだ家の玄関先から逃げ出した青年の上半身が映っていた。その旨を刑事に告げると、二人は顔を見合わせた。
「彼女の夫である美術教師の男性はご存知ですよね」若い方の刑事が口を開いた。「確か、その男性が代表をつとめる市民劇団に奥さんも所属されているとかで」
「はい、それが何か……」
「実は昨夜、金属バットで男性が撲殺されるという事件が起こったのですが、その被害者が彼女の夫である美術教師であることがわかりました」
「殺された……」
 わたしは思わず絶句した。額の汗を手首で払い落とす。
 刑事によれば、彼は夜半過ぎに勤め先である学校の残務整理を終えて児童公園を通りがかったところで、金属バットを持った男に襲われ、めった打ちにされたというのだ。わたしの友人が死んだのと同じ日の夜に、夫である彼も殺害されたことになる。
「これはオフレコですが」若い刑事が声をひそめた。「公園に設置されていた防犯カメラの映像から、劇団の代表の男性を襲ったのが、写真の青年であることが判明しています。ただ、被害者が倒れて動かなくなっても、執拗に金属バットを振り下ろす姿は、激しい憎悪に駆られた犯行としか考えられないんです。その動機を、われわれは探しているわけでして」
 わたしは息をひそめ、再び写真に目を落とした。赤い夕陽を浴びながら、友人が死んだ家のドアの前に立ち尽くす、青年の姿を思い出す。彼が彼女の家に入り、彼女の死体を発見したことは明白だろう。刑事の話を聞く限り、彼女の家を立ち去った後、どこからか金属バットを持ち出し、公園で彼女の夫を待ち伏せたことになる。
 そう言えば、確かあの青年は、あの家を出て逃走する前、天を仰いだまま、顔をしかめたり笑ったりしていた。笑っていた?
「何か思い当たるふしはないでしょうか?」
 刑事の問いに、わたしは首を横に振った。
「さあ、わたしにはちょっと……。この青年は、わたしが劇団に入る前に辞めていますし」わたしは一息をついた。「ただ、備品の横流しについても、どちらかといえば穏便な方法で解決されたと聞いています。このひとが劇団の代表に感謝することはあっても、恨みを抱くなんて想像できません」
「この男が、亡くなられたご友人の家から逃げ去る前の様子はいかがでしたか?」
 わたしの気持ちを推しはかったのか、年かさの刑事がたたみかけてきた。わたしは少し躊躇した後、おずおずと答えた。
「何かにおびえている様子でした」
「何か、というのは?」
「わかりません、そんなことまでは」暑さの影響もあってか、自分の声に棘があるのがわかった。「上を向いたり、身体を九の字に曲げたり、落ち着かない印象でした。わたしに気づかずに走り去ってしまったので、それからのことは知りません」
 刑事には、青年が天を仰ぎながら顔をしかめたり、そして笑ったりしたことは話さないでおいた。しつこく尋ねられることは目に見えているし、特に彼が笑っていた理由はまったく想像がつかなかった。いったい青年は、何を笑っていたのだろうか?
 わたしが刑事の訪問を受けた翌日の早朝、加害者である青年が河川敷で死体となって見つかったことをネットニュースで知った。友人の夫を撲殺した日の夜、市のはずれにある橋梁から川に飛び込んだらしい。週刊誌の記事によれば、川辺に打ち上げられた青年の死体には、無数の蠅がたかっていたそうだ。
 一方、後々に劇団員から聞いた話では、友人の夫の頭蓋骨は、完全に崩壊するまで金属バットで叩き潰されていたらしい。わたしにとって、未遂とはいえ関係を持ちそうになった男が、そこまでおぞましく殺されたことは、トラウマになりそうだった。
 被害者と加害者の接点は、市民劇団以外、見つからなかった。警察の総力をあげた捜査も空しく、青年がこれほどまでに苛烈な行動を取る理由は、結局わからなかったようだ。
 しかし、わたしは青年の気持ちが理解できた。ただ、なぜ自分が理解できるのか、わからなかった。
 
 
 観客席からどっとわいた笑い声で、わたしは我に返った。舞台の上では、警部役の中年男性が、間違えて犯人扱いされた初老の婦人に向う脛を蹴られ、大げさに床に転がっていた。
 友人、その夫である市民劇団の代表兼監督、劇団を放逐された青年、この三人の不条理な死が、わたしの胸の中に広がり、黒い塊となっていくのがわかった。
 何度も離婚の危機を迎えていた友人は、なぜ急に自死を選んだのか? その夫は、なぜ無関係に思える青年に惨殺されたのか? 青年は、自分のした行為が恐ろしくなって自殺したのか?
 青年の気持ちが理解できるなんて、わたし自身の頭の中がどうなっているのか、自分でもわからなかった。ただ漠然と、何かを「知らされて」いた感覚があるのだ。
 友人の死体を発見した日の夕暮れ、あの青年が笑っていた理由は、「知らされた」ことで自分の運命の歯車が狂ってしまったことを自嘲したように思えてならなかった。
 何かを「知らされて」いたとすれば、こんな空想もありうる。
 わたしの友人は、彼女の夫が女漁りをしていることを生々しく「知らされて」、絶望と怒りの中で死を選んだ。青年は、わたしの友人の死の原因を「知らされて」、友人の無念を晴らすために、その夫を撲殺した。そして、見知らぬ女のために殺人を犯した不条理に押しつぶされ、橋梁から飛び降りた。そして、わたしが青年の心を理解できるのは、そんな青年や友人の気持ちを「知らされて」いたから。
 しかし、「知らされる」だけでは、自らに手をかけたり、恐ろしい殺人を犯したりすることはないだろう。人を「駆り立てる」ものの存在があるに違いない。
 いったい何によって「知らされて」、そして「駆り立てられて」いたのだろうか?
 ふと気づくと、蝿がわたしの着ているメイド服の袖口にとまっている。手で払いのけると、舞台袖の奥の方に飛んで行った。
 樹音が振り返った。黒目がちの大きな目で、わたしの方をちらりと見ると、再び舞台に視線を戻す。
 市民劇団の主催者が殺害されるなどという異常事態であれば、当然、推理劇の公演は中止になるものと思われた。
 しかし、今回の公演を実質仕切っているのは芸能事務所が連れてきた演出家であり、樹音の売り出しが最終目的である芸能事務所も、推理劇の開催を強く希望した。そんな背景もあり、劇団の代表兼総監督の死などなかったかのように、推理劇は何事もなく開演したのだ。
 何かが異常だ。普通ではないものが、広がり、この世界を浸食している。
 蝿が舞台袖から再び現れ、くるくると空中を舞ったかと思うと、わたしの左の耳の先にとまった。
「いやっ」
私の声に、樹音が再び振り向いた。蠅はわたしの耳から離れ、樹音の鼻の先に移動した。
 樹音の目が、大きく見開かれた。樹音は、鼻先の蠅にはまったく注意を向けないまま、わたしを凝視している。彼女の目は瞳孔がすっかり広がって、きらきらと金色に輝いて見えた。蠅が樹音の鼻の上を移動し、鼻の穴から樹音の中に入っていった。そのとき、樹音がうっすらと笑うのがわかった。
 この女は人間ではない。わたしは、そのとき初めて気づいた。
 後ろから誰かに左腕をつかまれた。振り返ったわたしの目の前に、醜くゆがみ、顔を青黒く染めた夫が立っていた。
「この売女……」夫の声はかすれていた。「俺が、何も知らないとでも思っていたのか」
 夫の手には、出刃包丁が握りしめられていた。わたしが家でいつも使っている包丁のように見えた。確か、今日のお昼ご飯に、娘の好きなカレーライスを作るときにも使っていたはずだ。
 夫の耳の中から、蠅が一匹、這い出してくるのが見えた。背後では、樹音がくすくす笑う声が聞こえた。彼も、わたしの秘密を「知らされて」いたのだろう。
 夫は出刃包丁を振り上げ、わたしの首筋に向けてまっすぐに振り下ろした。


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