「段ボール箱13番」 全話(サプライズエンディング短編ミステリー)
(あらすじ)
2024年の秋、市役所広報課に勤める葦沢実穂は、ビニールハウスで『凛仁果』という洋ナシを栽培している朽葉凛花という果樹農園主を取材する。凛花は『凛仁果』を段ボール箱で育成するという特殊な栽培方法をとっていた。先立つこと2年半前、定年を迎えた実穂の父、草平は、街はずれの廃倉庫で数百個の段ボール箱が並んだ異様な光景を目にする。廃倉庫を管理する女性から不思議な提案をされた草平は、知らぬ間に禁断の世界に迷い込み、そのまま失踪してしまう。朽葉果樹園に残された名刺から、父親の失踪と凛花との関係を疑った実穂は、その日の深夜、朽葉果樹園のビニールハウスに忍び込み、そこで衝撃の事実を知る。(289字)
(本編)
【2024年11月】
間口は5メートル程度だが、奥行きが100メートルはある細長いビニールハウスが5棟、平行に並んでいる。ハウスの高さも3メートル以上はあり、巨大な芋虫の群れにも見える。
午前9時、葦沢実穂は市の公用車の運転席から降り、昨夜の雨で少しぬかるんだ土の上に立った。ビニールハウスの背後に目を移すと、秋空の下に広がる低い山々が見渡せる。市役所に就職して5年、広報部に所属していながら、市の中心部から車で10分も走らない場所に、自然に囲まれた果樹農園があるとは知らなかった。
ビニールハウスの前では、空色の作業服を着た小柄な女性が一人、微笑みを浮かべながら待っていた。黒縁の眼鏡をかけたその女性は、一見すると愛くるしい少女にも見えるが、落ち着いた表情には成熟した女性の雰囲気が漂っている。年齢は、実穂と同じ20歳代後半といったところか。端正な顔立ちでありながら、少し寝ぐせのはねたショートヘアとのアンバランスがチャーミングだった。
「おはようございます。朽葉凛花さんですか?」実穂は声をかけた。「市役所広報課の葦沢です。今日は、よろしくお願いいたします」
女性は軽く頭を下げ、実穂に向かってゆっくりと近づいた。
「おはようございます、朽葉です。朝早くから、ご苦労様です」女性が答えた。耳に心地よい、少し低めの声だ。「朽葉果樹園にようこそ」
実穂は今年の4月から、市内で栽培されている農産物を市のホームページで紹介するコーナーを担当していた。今回紹介する予定の『凛仁果』という果物は、洋ナシの一種だがリンゴに近い香りがするとのことで、初出荷された昨年の秋口から市内で評判になっているらしかった。
社会人になるまで、実穂は両親と一緒に隣の町に住んでいたが、市役所に採用されたことを機会に実家を出て、市内にアパートを借りた。当初、女性の一人暮らしに実穂自身も不安はあったが、現在はすっかり住んでいる町になじみ、昔から住んでいたかのように愛着も持っている。
朽葉果樹園は、園主である朽葉凛花が女性ということもあり、男女差別はなるべくしないよう心掛けている実穂ではあったが、応援したい気持ちが強かった。
名刺交換が済み、実穂は凛花に先導されて真ん中のビニールハウスに入る。むっとするような高湿度の空気の中、実穂は思わず息を飲んだ。
「……壮観ですね」
高さ2メートルほどの樹がハウスの側面に沿うように2列、ハウス中央に1列の計3列、入り口付近から100メートルほど先の奥まで、ずっと並んでいた。本数にすると、1列あたり100本、3列あわせて300本はありそうだった。実穂は早速、スマートフォンのカメラでの撮影を開始する。
「少し奥までいってみましょうか」凛花のはずんだ声がした。「近寄っても、大丈夫ですよ」
樹と樹の間は1メートルくらいであろうか。樹の株元に視線を向けた実穂は、思わず声を漏らしていた。
「これは、段ボール箱?」
「はい。強度を増した上、撥水コーティングをした特殊な段ボール箱にはなりますが」実穂の背後から、凛花の声がした。「わたしたちは、段ボール箱栽培という方法で、『凛仁果』を育てています」
「段ボール箱栽培ですか、初めて聞きました」
『凛仁果』の樹は、引越しのときに使うものを少し平べったくしたような段ボール箱の中心部分から、まっすぐ上に生えていた。樹高は2メートル前後、うっそうと茂った薄緑色の葉の合間に、プラムくらいの大きさの、赤味がかった『凛仁果』の実がいくつも垂れ下がっている。
「段ボール箱の大きさは、縦と横が75センチ、高さが55センチになります」凛花が樹の横に立った。「わたしの祖父は元々農業試験場で果樹の品種改良に携わっており、30年ほど前、『凛仁果』を作り出しました。ナシとリンゴは同じバラ科の果樹なので、様々なかけ合わせをすることで、リンゴと洋ナシをあわせたような香りの『凛仁果』を生み出すことができたそうです」
「30年前……そんな昔からある品種だったんですか」実穂が、凛花と樹の写真をとりながら言った。「でも、わたしは『凛仁果』の名前を最近まで知りませんでした」
「『凛仁果』は、大変栽培が難しい果物なんです」凛花が答える。「春に苗木を植え付けてから翌々年の秋に収穫するまで約2年半かかるのですが、普通の栽培方法ではうまく育たないことがわかりました。そこで、果樹園を開いた祖父とその後を継いだ父が研究し、わたしが実用化したのが、この段ボール箱栽培です」
「段ボール箱で育てないと、うまく育たないわけですね」
「『凛仁果』は、土壌や栄養の状態のわずかな違いで、実をつけたりつけなかったりします。この段ボール箱の中に特別な肥料を充填して、一定の条件下で2年半、『凛仁果』を育てることで、安定して果実を収穫できるようになりました」
「それは、素晴らしいですね」
実穂はかがみこんで、樹の株元の段ボール箱の写真を撮った。上面の中心部分に穴があき、そこから突き出した樹がビニールハウスの天井に向けて伸びている。段ボール箱の蓋はガムテープで止められており、「13」という番号が黒マジックで書かれていた。樹を区別する番号なのだろう。
「凛花さんのお名前は、『凛仁果』から取られたんですか?」
「いえ」凛花が少し顔を赤らめた。「もともとは『仁果実53号』という品種名だったんですが、商品化するとき、わたしの名前の一字をとって、『凛仁果』という名前にしてもらいました」
「凛花さんのお名前の方が先だったんですね」
実穂の言葉に、凛花が恥ずかしそうにうなずいた。
「祖父や父は『仁果実53号』の商品化まではできませんでしたが、梨やさくらんぼといった果樹の栽培で家計を支えてくれました。そんなとき、果樹園の三代目であるわたしが『仁果実53号』の栽培に手を挙げて、昨年、何とか出荷までこぎつけることができました」
実穂は、少し意地悪な質問をしてみることにした。
「当然、この箱の中身は企業秘密なんですよね?」
「ええ」凛花が困ったような表情を見せる。「すみません」
「ちょっとでも、見てはいけませんか?」
「申し訳ありません。それに、見て面白いものではありませんよ」凛花は小首を傾げた。「それよりも、『凛仁果』を味わってみませんか?」
凛花は、「13」と書かれた段ボール箱の樹から、『凛仁果』の実を一つもぎ取って、実穂に手渡した。実穂は、実を口に近づけた手を止め、凛花に尋ねた。
「ところで、『凛仁果』の苗は、この段ボール箱にどうやって植え付けるんですか?」
凛花は、腰に提げた紺色の作業バッグから全長30センチくらいの細長い、ねじ回しに使うドライバーのような器具を取り出した。器具全体の半分が柄の部分、残りの半分がドライバー部分になっている。ドライバー部分の太さは2センチほどあり、先端は鋭く尖っていた。ドライバーというよりも極太の千枚通しに近い。
「この特別な定植用のナイフで、段ボール箱の真ん中をぐさっと一突きします」凛花は柄の部分をつかみ振りかぶると、素早く振り下ろす仕草をした。「直径が2センチで深さが15センチの穴ができますので、そこに『凛仁果』の苗を植え付けます」
「ちょっと、怖いような器具ですね」
実穂はそう言って、すかさず『凛仁果』の実にかぶりついた。果汁が一気に口の中へ流れ込み、甘酸っぱい豊かな香りが鼻から抜けていく。濃厚な洋ナシにリンゴをあわせた味というのは絶妙な表現だった。
「これは、美味しいですね」
「『凛仁果』は健康にもいいみたいですよ。祖父は今年で85歳ですが、病気一つしたことがありません。父は果樹園をわたしに任せて、今は農業大学校の先生をしています」凛花はもう一つ果実をもぎとり、親指と人差し指にはさんで実穂に差し出した。「実穂さんも、ご両親に『凛仁果』をプレゼントしてはいかがですか?」
実穂は曖昧な笑顔を返すと、凛花の顔と『凛仁果』のアップの写真を撮った。凛花のまぶしい笑顔と魅力的な果実である『凛仁果』は、これから徐々に認知度を高め、人気の果物として受け入れられていくだろう。しかし、実穂の暗く沈んでいく自分の気持ちを、持ち直すことができずにいた。
実穂の父親である葦沼草平は3年前、会社を定年になった日に失踪し、行方不明になっていた。母親である葦沼小春は、その心労がたたったのか重い鬱病にかかり、60歳を前に療養施設での暮らしを余儀なくされていた。
「市役所の方へのお土産に、『凛仁果』をいくつかお渡ししますね」
凛花は腰の作業バッグからビニール袋を取り出し、手にした『凛仁果』を入れた。他の樹から収穫するため、収穫鋏を手に別の樹に向かう。
「ああ、お気遣いなく」
実穂はそう言いながら、何気なく「13」と書かれた段ボール箱に視線を落とした。そのとき、箱の底部に土で汚れた紙が引っかかっているのに気づいた。
腰を落として紙を拾い上げる。すっかり泥にまみれていたが、誰かの名刺だということがわかった。名刺には、聞き覚えのある衣料品卸の会社名と「葦沢草平」という氏名が印刷されていた。
【2021年10月】
午後9時半、葦沼草平はオフィス街の谷間にある小さな公園のベンチに座り、薄雲にかすんだ三日月を見上げていた。
今夜、有志で開いてくれた送別会の帰り道、酔い覚ましのために、一人でこの公園に立ち寄ってみた。都会の風景に季節の移ろいを想起させるものは少なかったが、冷たさを含む空気はすでに秋の深まりが感じられる。
草平は今日、区切りの日を迎えていた。40年近く勤めあげた会社を定年退職したのだ。
今の時代、60歳でリタイヤするサラリーマンは少ないのかもしれない。ただ、成人した一人娘も手が離れ、妻と二人、老後を静かに過すのも悪くないと思い、離職を決断するのに時間はかからなかった。
2年ほど前、自宅近くに10坪ほどの広さの土地を購入してあった。毎週休みの日にはそこを耕し、野菜を育てるという趣味も定着しつつある。新鮮な野菜を肴に旨い日本酒を飲みながら、これまでの人生を振り返り、これからの人生を設計するという生活も悪くない。
会社の人事部も、65歳までは嘱託で働けると、引き留めてはくれた。しかし、草平が固辞すると、あっさりと退職を認めてくれた。彼がそれほど有能な社員でもなかったこともあろうが、すがすがしいほど、さっぱりとした対応だった。
ふと思いついて、会社が入っているビルの前に立ち寄ってみることを思い立った。駅からほど近い10階建てのビルの5階に、草平が勤めていた衣料品卸の会社はあった。
ベンチから立ち上がり、歩きなれた石畳の歩道をビル街に向かって進む。やがて、目指す『白銀センタービル』が目の前に現れた。
このビルには、数えきれないほど足を踏み入れていた。大抵の場合、ビルに入るときの足取りは重く、出るときの足取りは軽かったが、今思えば、それほど悪くないサラリーマン人生だったのだろう。草平は、ちらほらと窓明かりの残るビルに向かって深々と一礼すると、きびすを返して歩き始めた。
駅までは、徒歩で5分程度の距離だった。ただ、今夜は特別な夜。少し酔って足取りも覚束なかったが、隣の駅まで歩いて帰ることにした。
週に1回は通っていた定食屋の前を左折して、細い小路に入る。もう、この店の生姜焼き定食を食べることもないかもしれない……そんな感慨にふけりながら、街路灯に照らされた商店街の間を早い足取りで進む。まだ午後10時前だというのに人通りはまばらで、シャッターをおろしている店も多かった。
この街に限らず、社会全体の元気がなくなっている。草平はそんな気持ちになった。黄昏に向かう世情を憂いながらも、これからは、それを陰ながら応援するしかない、と自分に言い聞かせた。今までの様に、人生の勝ち組、王道などというものはなく、これからの時代、自分自身で望む道を探していくしか、方法はないのかもしれない。
そんな感傷に浸っていたせいか、「少し脇道にそれてみようか」という気まぐれが、ふいに頭をもたげた。草平は隣に駅に続く小径を逸れて、見覚えのない、遠回りの細道を選ぶことにした。
見通しの悪い曲がりくねった道を五分ほど歩くと、店舗自体が途切れ途切れになり、やがて人通りも途絶えてしまった。駅までそれほど距離がないせいか、周囲の丘の上には新しい住宅街が広がっていた。しかし、道の左右には、さびれた町工場や資材置き場が続き、小さな雑木林の合間から、赤い三日月が見えた。
さらに、10分くらい進んだところで、突然、道が行き止まりになった。どん詰まりの場所には、ポツンと白熱電球が灯り、錆びた鉄製の柵を照らし出していた。柵の向こう側には、腰のあたりまで伸びた雑草が繁茂し、さらにその奥には、倉庫と思しき大きな長方形の建物が黒々とした姿を見せていた。
……あれ? ここ、見たことがある。
草平は記憶の底をさぐった。中堅社員だった約30年前に、確かにこの場所に来たことがあった。
衣料品の卸で、流通管理を担当していた頃、会社の近くで在庫品をストックしておける倉庫を探していた。車であちらこちらを移動しながら見て回った倉庫のひとつが、この建物だったのだ。
30年の月日は、当時の様相を一変させていた。あの頃、鉄製の柵は鈍く輝いていたし、倉庫に続く石畳の両側には、青々とした芝生が広がっていたはずだった。コストがあわないことで、結局、この倉庫との契約は見合わせたのだったが、こんな荒れ果てた状態になっていようとは、夢にも思わなかった。
そのときだった。
10メートルほど先の雑草の下から、突如、ひとりの男が姿を現すのが見えた。チャコールグレーのスーツに、雑草の枯葉や種子がこびりついているのがわかった。男はよろめきながら雑草の海を進み、もつれた足で真っ暗な倉庫に向かって行った。
男の姿が倉庫の中に消えても、私はその場から動くことができなかった。私は、彼のことを知っていた。勤めていた会社の同僚の男、錦沢涼介だ。
彼は、会社でも将来を嘱望され、昨年、40歳の若さで営業本部長に抜擢されていた。創業者の一族ということもあり、いずれは重役の椅子に座る人間のはずだ。旅先で知り合ったという、キャビンアテンダント出身の美しい女性と結婚し、小学生になる可愛い娘さんの写真を見せてもらったこともある。
そんな、会社では「勝ち組」と言われている人間が、どうして、こんなうらぶれた場所にいるのか、想像もつかなかった。
草平は、たっぷり5分間は、その場に立ち尽くしていた。このまま、何もなかったことにして、元来た道を引き返すのが、もっとも無難な選択肢だろう。しかし、錦沢涼介はなぜ、ここにいるのか?
錆びた鉄柵にすみに、出入口らしき門扉があるのを見つけた。門扉に手をかけ、ぐっと力を込めて押してみると、ぎぎっという音を残し、思いのほか軽く扉が開いた。伸び放題の雑草を踏み分け、草平は倉庫の敷地内に足を踏み入れた。
不法侵入には違いない。ただ、この倉庫が現在も機能しているとは、とても考えられなかったし、何より、倉庫の中に消えた錦沢の行方が気になったのだ。
一歩一歩足を踏ん張り、クロールの様に雑草を両手でかき分けながら、草平は倉庫に向かった。建物の前のポーチまでたどり着くと、灰色のスチール製のドアがあった。ドアは細く開いていたが、奥は真っ暗で何も見えなかった。
刹那、ポーチの真上にあった電灯が眩しい光を放った。
「あの」
背後から声をかけられ、草平は飛び上がるほど驚いた。振り返ると、黒縁の眼鏡をかけた若い女性が私の真後ろに立ち、とまどった表情を浮かべながら、身体を揺らしていた。20歳代と思しき可愛らしい雰囲気の女性で、ぴったりとした黒いスーツに身を包みながらも、ちょっと寝ぐせのついたショートヘアに愛嬌があった。
「もしかして、お客様でしょうか?」彼女が、ためらいがちに口を開いた。
「客?」草平は、鸚鵡返しに答えた。「ここは、お店か何かでしょうか?」
「し、失礼いたしました。ここは、初めてなんですね」彼女は、あわてた口調で言った。「それでは、こちらにどうぞ」
彼女は、スチール製のドアを開き、倉庫の内部に向けて手を差し伸べた。「お入り下さい」
彼女が壁のスイッチを入れ、倉庫の中は柔らかなオレンジ色のライトに照らされた。そこには、異様な光景が広がっていた。
天井の高さは、5メートル近くはあるだろうか。想像以上に広々とした空間だった。広さは小さめの体育館くらい。しかし、何と言っても壮観なのは、緑色のリノリウムの床に並べられた数百個の段ボール箱だった。
引っ越しのときに使うくらいの大きさの段ボール箱だ。上面は正方形だが、高さは上辺より短く、少し平べったい。それが、床の上に30センチほどの間隔で、整然と並べられていた。大半の段ボール箱の蓋が閉じられており、蓋が開いているものは数える程度しかなかった。
「これは、どのくらいの数があるんですか?」
草平が聞くと、彼女は眼鏡をずりあげた。
「えーと、横の列が10個で、縦の列が30個ですから、300個ですね。因みに、段ボール箱の大きさは、縦と横が75センチ、高さが55センチになっています」彼女は、ちょっと首を傾げて見せた。「地下にも同じスペースがあるんですが、すべて埋まってしまっていて。1階も残りはわずかになってしまいました」
「それにしても」草平は、彼女の整った顔をじっと見つめた。「この段ボール箱は、いったい何のために?」
「ここは、会員制の癒しの場ですよ」
「癒しの場? 会員制の?」
「そうですね。百聞は一見に如かず、といいますから」彼女は、にっこりと微笑んだ。「今夜も、おひとりが正式にこちらの会員様になられました。よろしければ、そのお客様のご様子を、ご覧になってみますか?」
彼女は草平に背中を向け、段ボール箱と段ボール箱の間の細い隙間を、縫う様に歩きはじめた。草平は、恐る恐る、彼女の後に続く。ちょうど中央あたりの列まで進むと、ポツンと蓋の開いた段ボール箱がひとつあった。彼女はかがみ込み、その段ボール箱の右隣の箱の蓋を開けた。
草平は、そのときの驚きを、一生忘れることはできないだろう。
その箱の中には、先ほど私が目撃した錦沢涼介の身体が、横向きに身体を丸める格好で、みっしりと詰め込まれていた。
「この方、初心者なんですが、なかなか上手に入りましたね」彼女が感心そうに言った。「皆さん、できるだけ隙間ができない様、ご自分で工夫されて段ボール箱の中に入るんですよ」
「しかし、何のために……」
「ほら、この方のお顔を見て下さい」彼女は、錦沢の横顔を指差した。
彼は、軽く目を閉じていた。ときおり、口のあたりをぴくぴくと動かしている。会社では、見たことがない様な、穏やかな表情で微笑んでいた。何の憂いもない、安心しきった顔だ。お腹のあたりがゆっくりと上下しており、生きていることはわかる。
彼女が、ゆっくりと蓋をしめた。「お幸せそうな表情でしたでしょ?」
「まさか、このあたりの箱の中には……」
「蓋が閉まっているすべての箱の中には、この方と同じく、癒しを求める方が一人ずつ、ぎっしりと詰め込まれています。もちろん、ご自分で身体を詰め込んだんですが」
インターネットの画像で見たことがある、箱の中に隙間なくもぐりこんだ猫の画像を思い出した。確かに彼らも、恍惚の表情を浮かべていた。
「会員になるためには、どのくらいの会費が必要なんですか?」
草平は、自分が発した言葉に愕然とした。自分は何を言っているんだ? 段ボール箱の中に入る人間など、変態に違いない。こんなところで、油を売っている場合ではない。自分には、老後やりたいことが沢山あるんだ。沢山……自分はこれから、いったい何がやりたいのだろう?
「いえいえ、わたくしたちはボランティア団体ですので、お金はいただいておりません」うろたえる私を気にかける様子もなく、彼女は答えた。「この場所には、いついらしても、いつまでいらしても構いません」
「つまり、無料ということですか?」
「その通りです。しかし、残っている段ボール箱は数個程度ですから、まあ、早い者勝ちになりますね。段ボール箱がなくなった時点で、会員の募集は終了することになっていますし」彼女は、錦沢が入っている箱の横の、空の段ボール箱を指し示した。「ちょっと、入ってみますか?」
馬鹿馬鹿しい、と草平は思った。家では妻が待っている。退職した夜に、こんな怪しげな廃倉庫にある段ボール箱に入るなんて、正気の沙汰ではない。
「お願いします」
草平は、自分の思いとはまったく正反対の言葉を発していた。自分は、いったい何を言っているんだ? 今言った言葉を取り消して、さっさとこの場所から立ち去るべきだ。早く家に帰って、熱い風呂に入って、それから……。
草平は、段ボール箱の中に両足を入れて、うずくまった。横たわると身体を回転させ、背中を箱の側面に密着させる。
「なかなか、お上手ですよ」彼女が言った。「どうぞ、ごゆっくり」
段ボール箱の蓋が閉められる寸前、彼女がにっこりとほほ笑むのが見えた。蓋が締まり、段ボール蓋にマジックで何か書き込む、きゅっきゅっという音が聞こえる。
「ああ、この段ボール箱は13番になります」暗闇の中、彼女の声が聞こえた。「蓋の上にマジックで書いておきますが、お気になさらずに」
「13」という数字は縁起が悪いな、という思いが一瞬頭をよぎったが、すぐにどうでもよくなった。草介は、静かに眼を閉じた。
【2024年11月】
軽自動車のヘッドライトの灯りが、「朽葉果樹園」という看板を浮かび上がらせた。駐車場に停車した軽自動車のドアが開き、紺色のウィンドブレーカーを羽織った実穂が姿を現した。
朽葉果樹園を訪れた日の夜11時。再びビニールハウスの前に立つことになった自分に、実穂は戸惑いを感じていた。しかし、「13」と書かれた段ボール箱に父親の名刺が残されていた理由をはっきりさせない限り、今夜は眠れそうになかった。
朝とは違い、ビニールハウスの背後に広がるのは黒い闇だけだ。ハウス内の灯りも最小限にとどめているようで、オレンジ色の電灯がぽつりぽつりと点るばかりだった。
実穂は、ヘッドセット型のLEDライトを頭に装着し、今朝入ったばかりのビニールハウスの扉に手をかける。手に力を込めると、扉が少しだけ開いた。朝見たときと同様、やはり鍵はかけていないようだ。
扉がきしむ音を最小限に抑えながら、自分一人がすべりこめるだけのスペースを作る。30センチほど扉が開いたところで、素早くハウス内に侵入した。
蓋に「13」と書かれた段ボール箱は、入口から10メートルほど入ったビニールハウス中央の列にあるはずだ。実穂は中央の列の段ボール箱を指でさして数えながら、ハウスの奥に進む。頭につけたLEDライトが揺れ、段ボール箱に生える無数の樹がいっせいに襲い掛かっている感覚に捕らわれる。
やがて、目的の段ボール箱が見つかった。ライトに照らされ、土で汚れた蓋の上の「13」という文字がはっきり見える。箱の中身を確認するためには、蓋を封じているガムテープを剥がすか、段ボールを破るか、どちらかしかないだろう。見終わった後にこっそりと元に戻すとなると、ガムテープを剥がすしかない。
実穂が腰をかがめ、ガムテープの端をつかんだ。その途端、不意に目の前が明るくなった。周囲を見渡すと、強烈な白色LEDライトが、ハウス全体を煌々と照らし出していた。
眩しさに目を細めながら、のろのろと実穂は立ち上がった。目の前には、両手を腰にあてた凛花が、無表情で立っていた。冷たい顔は、陶製のビスクドールを思わせた。
「実穂さん、何をされているんですか?」
「いや、これには事情があって」実穂の口がもつれて、言葉がうまく出てこない。「勝手にビニールハウスに入ったことがお詫びします。でも別に、何かしようと思ったわけではなく……」
凛花は、黙って実穂を見つめていた。数秒間の沈黙の後、凛花の表情がふっと緩んだ。
「段ボール箱の中身ですか」凛花は、大きくため息をついた。「そんなにご覧になりたいのであれば、お見せします」
凛花は「13」と書かれた段ボール箱の上にかがみこむと、蓋を固定していたガムテープを慎重に剥がした。『凛仁果』の樹を傷つけないためか、ゆっくりと蓋を開ける。
「どうぞ、触っていただいてもいいですよ」
実穂は、そろそろと箱に近づき、中を覗き込む。褐色に灰色の混じった小さな顆粒がぎっしりと詰め込まれていた。凛花に手渡された小さなシャベルで少し掘ってみたが、ときおり現れる樹の根の切れ端らしき破片以外は何も出てこない。
「主な材料はキノコの菌床です」凛花は、普段の冷静な声で言った。「近くのキノコ生産者の方から、キノコ栽培の後に処分されてしまうものを安く譲っていただいています。その菌床を破砕した上、堆肥や化学肥料などを混ぜ込んだものを培土として、段ボール箱の中に充填しています」
実穂は悄然と立ち上がった、じっと実穂を見つめる凛花の視線が痛かった。実穂としても、このまま黙っていることはできない。凛花には、きちんと事情を説明するしかない。
実穂は、ウィンドブレーカーの内ポケットからビニール袋を取り出した。中から泥にまみれた名刺を取り上げ、凛花に差し出す。
「この名刺が、13番の段ボール箱の下の隙間に入っていました」
「葦沼草平さん……」凛花は、手にした名刺に顔を近づけると、小さくつぶやいた。
「葦沼草平というのは、わたしの父です」実穂は話を続けた。「3年前、会社を定年になった日の夜から、行方不明になっています」
凛花が、はっとした表情で実穂を見た。LEDライトの光で、凛花の顔の凹凸が彫像のように浮かび上がる。
「父の名刺がなぜこの場所にあるのか、それが知りたくてビニールハウスに侵入してしまいました」実穂は深く頭を下げた。「申し訳ございません」
「事情はわかりました。顔を上げてください」凛花は、実穂に名刺を返しながら、言葉をつないだ。「葦沼さん、思い出しました。少し説明が必要なのですが、聞いていただけますか」
「それは、もちろんです」
凛花は一瞬、遠い眼をすると、低い声で話し始めた。
「段ボール箱栽培には、大量の段ボール箱が必要になります。2021年の春から1年間、置ききれない段ボール箱を、駅近くの使わなくなった倉庫に置かせていただいていました。特に盗まれるようなものでもないので、倉庫には鍵をかけていなかったのですが、驚いたことに、段ボール箱の中に勝手に入り込む人たちが現れたんです」
「でも、何のために?」
「癒しのためにです」実穂の問いに、凛花は視線を落とした。「世の中に、こんなに疲れ果てている人が多いとは知りませんでした。段ボール箱に入り、猫のように体を箱の中にぎっしり詰め込むことで、心のつかえが取れて、自分がリセットできるのだそうです」
凛花は、思い出すのが辛いのか、少し顔をゆがめた。
「段ボール箱は、いずれは使うことになります。でも、それまでは疲れ果てた人たちに利用していただくことにしました。お金はいただきませんでしたが、人が増えすぎても困るので、一応、段ボール箱の使用については会員制ということにしました。葦沼さんは2021年の10月の終わりくらいにいらっしゃって、1時間ほど段ボール箱の中で過ごされたと記憶しています」
「まさか、父がそんなことをしていたとは、知りませんでした」
「3年前の記憶をなぜ、これほど詳しく覚えているかというと、葦沼さんは非常に強い印象を残されたからです」凛花が話を続けた。
「強い印象?」
「葦沼さんは、段ボールから出てこられると、わたしと一緒にこの段ボール箱での休息を普及する仕事をしたいとおっしゃいました。自分は定年になって、今後やるべきことを見失っている、これからは疲れ果てている人たちのために何かをやってあげたい、と」
「それで凛花さんは、何と?」
「段ボール箱は果樹の栽培のために準備していると、はっきりと申し上げました。その翌年の春に段ボール箱はすべてビニールハウスに移動して果樹の栽培を始めるので、皆さんの休息のために段ボール箱をお貸しするのは、それまでだと」
「父は何と答えました?」
「それでは、段ボール箱で果樹を栽培する仕事を手伝いたい、とおっしゃいました。人員は足りているので、その必要はないとお答えしたのですが、無給でもよいので手伝いたいと。もっと、きっぱりとお断りすればよかったのですが、取り付く島もなくて」凛花は、実穂が手にした名刺に視線を落とした。「この名刺は、葦沼さんが段ボール箱の中から出られたときに落とされたのでしょう。床に落ちた名刺が段ボール箱の隙間に引っかかり、そのまま残ってしまったのかもしれません」
凛花の言葉によれば、その日の夜半に草平は倉庫を退去し、それ以降は姿を見せることはなかったそうだった。自宅に帰る途中で事故やトラブルに遭遇してしまったのだろうか。それとも……。
実穂は、恐ろしい想像をしてしまった。しかしそれは、草平が帰宅途中に事故にあったり、トラブルに巻き込まれたりするよりも、真相に近いのではと実穂は考えた。
草平はその日の深夜、自宅に帰ってきていたのではないだろうか?
【2021年10月】
1階の玄関ドアが勢いよく開く音がした。
時間はすでに深夜零時をまわっている。葦沼小春は2階の寝室から顔を出し、階段の上から玄関を見下ろした。
夫である草平が少しいら立った様子で玄関に靴を脱ぎ棄て、急な階段を上がってくる姿が見えた。薄くなった白髪は乱れ、スーツやシャツも皺くちゃになっているのがわかる。
築30年の自宅は、小さな土地に建てられていることもあり、部屋も狭く窮屈で、勾配のきつい階段は足を踏み外すと真っ逆さまに玄関先まで転げ落ちてしまうほど急だった。結婚して間もなくローンを組んで購入した建売住宅だったが、小春は30年以上たった今でも、その暮らしにくさに閉口することがあった。
階段をのぼり切った草平は、はあはあと息をはずませながら、小春の前に立った。草平の口からはかすかにアルコールの臭いがしたが、送別会の後に二次会にいったにしては酔っている印象ではない。ただ、白髪の頭の下に浮いた汗をぬぐおうともせず、目をぎらつかせながら立ち尽くす姿は、酔っていないだけに気味が悪かった。
「朽葉さんという生産者と一緒に、果樹園で働くことにした」
草平が、吐き出すように言った。
「朽葉さんって、誰?」
「やる気のある若い女性だ。その女性と意気投合して、彼女の果樹園を手伝うことにした」
小春には、訳が分からなくなった。朽葉というのがどんな素性の女なのかはわからないが、草平がその女に夢中になりかかっていることはわかった。
草平は自分の年齢や容姿がわかっているのだろうか? くたびれた初老の小男に惹かれる女がいないとは言わない。しかし、古女房を差し置いて女のもとに走るような男が、女性にとって魅力があるとはとても信じられなかった。
「わたしは、どうするの?」
小春は、静かな声で尋ねた。少し頭を冷やせば、いつもの温厚な夫にもどってもらえると信じていた。しかし、草平から返ってきたのは、信じられない言葉だった。
「お前?」草平が吐き捨てた。「お前のことなんか知るか。自分のことは自分で考えろ」
頭の中が真っ白になった。草平と出会い恋に落ちるまでの記憶、苦労をしながらも二人で夢中に取り組んだ子育て、苦しい家計の中での旅行や外食、家族で残した数々の思い出……市役所に就職した一人娘の実穂の顔すら、その瞬間はすべて消え去っていた。
「離婚はしないでおいてやる。ただ、おれはこの家を出ていく。それだけだ」草平はそう言い捨てると、小春に背を向けた。「車を使うぞ」
無意識に、草平の背中を強く突き飛ばしていた。階段を降りようとしていた草平は、そのまま頭から転げ落ち、玄関先まで転げ落ちた。首が奇妙に折れ曲がり、じっと動かない。
小春は、自分も足を踏み外さないよう、進捗に階段を下りた。倒れている草平の背中に手をあててゆすってみたが、何の反応も返ってこなかった。
不思議なほど、悲しみはわき起こってこなかった。自分の30年間はいったい何だったのだろう、という虚無感を冷静に受け止めていた。娘の実穂の顔が浮かんで消えたが、それよりも夫の死体をどのように処分するかとの考えが、頭の中を占有しはじめていた。
そういえば、2年ほど前に家庭菜園をするために購入した10坪くらいの広さの土地があった。土日になると草平はそこに行き、マメトラとかいう小さなトラクターで土を耕していた。50センチ以上掘り起こし、土をふかふかにしたと草平が自慢げに話していた。ここから車で数分の場所だ。草平の死体を埋めるのにはうってつけの場所ではないか。
草平のうめき声に、小春ははっと現実にもどされた。
草平は死んではいない。
草平のちょうど頭の上あたりの玄関先に、小さな金属製の傘立てが倒れていた。草平が階段から落下したときに、ぶつかったのかもしれない。小春が拾い上げると、手にずっしりとした重さが感じられた。
小春は傘立てを振りかぶり、うなり声をあげながら草平の頭に叩きつけた。
了
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