コロナ禍は不幸か?
コロナ禍は不幸なのだろうか?
当たり前が当たり前で無くなった。
確かに幸せは日常の中にしかないのだろう。
自分が今は当たり前だと思っている日常。
その中にしか幸せはない。
でも、つい年末に14歳になった長女を見ていて、日常の当たり前をそのままにしてあげられて良かった。
と私には思えたお正月。
私たちが日常としていた、当たり前としていたもの。
例えば忘年会や新年会。
あったら楽しいかもしれない。
会いたかった人もいる。
だけど、付き合いで、とりあえず、義務のように出ていたものもあったのは確か。
自由に飲みに行きたいな~
と思っていた時期もあったけど。それも無くてもいいかな。と思うのは、きっと満たされてきたからなんだろう。
そう。お酒もまた麻薬のようなものだ。
当たり前が当たり前で無くなった時。
それは自分の幸せを見直す時なんではないだろうか。
普段、不満に思っていることも、究極突き詰めたらさもないことになるのでは?
欠けているように思うのは、不幸なように思うのは、今あることをただ、受け入れられていないだけ。
幸せにはただ気付くだけ。
守ろうと思っても、守れない時だってきっとある。
だけど、少なくとも14年間、長女に日常を、当たり前をそのままにしてあげられた中に、私の努力はもちろんあった。
何の成果も無い。何の意味もない。何もできてない。
だけどもともとそうなんだ。努力したと思ったって成果が無いことだってもちろんある。
私が守ってるつもりの日常も、私の努力の成果だと思っている今の日常も、本当はどうかなんて、わからないわけだけど。
でも何を信じるかじゃないかな。
ただ当たり前の日常を、子どもたちの毎日を。
少しずつ良いものにしようと、信じて進む。
どんな風かはわからないけれど、きっと未来につながると信じて。
だからコロナ禍はただ不幸なのではなく、幸せを見直すための大事な時間にもなるんじゃないか。
いつもとは違う、多くの人にとって、例年とは違う、そういう意味では当たり前ではないお正月だけど。意外にも幸せそうに過ごしている。
SNS上で見かけるのは、そんな姿も多くある。
コロナ禍は、幸せのための準備の時間だと思えたら。そうして、次の春を楽しみにできたなら。
Long Vacation...昔々、そんなドラマもあったっけ。
たくさんの音楽や映画や、自分でできることを総動員して、密かに秘かに楽しみながら、春を待ちたいと思うお正月でした。