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コンペでならした学生時代/平和記念聖堂でメジャーデビュー─「菊竹清訓氏が述懐する丹下健三」前半

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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

これまでの連載はこちら


ピースセンターのコンペでは,ものの見事にやられたという印象を受けました.
これではいけない,心を入れ替えなくてはと思い,丸坊主にしました
菊竹清訓


目次
●コンペでならした学生時代
●平和記念聖堂でメジャーデビュー
●ピースセンターと丹下さんとの出会い
●卒業後,竹中工務店へ
●紆余曲折の末,村野事務所へ



コンペでならした学生時代

─菊竹さんは敗戦直後に早稲田大学を卒業されますが,その時期に各大学が「文教地区」(『新建築』1947年10月号,11月号掲載)の計画を発表しています.それには参加されましたか.

菊竹 いいえ,参加していません.ただ,佐藤武夫先生が関係されていた新宿のコマ劇場の計画には参加しました.
佐藤先生のところでは,大林新さんと一緒に,吉原に住んでおられる女性の生活や部屋の使われ方などの調査もしました.


─焼け野原ではなかったんですか.

菊竹 いいえ,違いました.焼け残ったところだと思います.売春禁止法の施行以前で,あまり足を踏み入れるようなところじゃないと思っていたら,意外にちゃんとしていて,住んでおられる女性たちの生活もきちっとしているんです.旦那がきて泊まって,翌朝お食事をつくって食べさせてから帰らせるという感じでした.


─それは,再開発に関係していたんですか.

菊竹 なんらかの計画に関係していたんだと思います.


─菊竹さんの卒業設計はどのようなものだったんですか.

菊竹 東京につくる国連の極東分館という案を出しました.そういう施設はありませんので,架空の計画です.


─やはり,モダニズム風の?

菊竹 そうですね.2階分の大きなピロティをもつものでした.内藤多仲先生に構造の相談にいったところ,「そういうのは月から吊るんだな」といわれて.(笑)


─それは残っていますか.

菊竹 大学に保存になり,卒業設計展で全国に展示されて回ったのですが,結局戻ってきませんでした.


─菊竹さんの名前がジャーナリズムにはじめて登場するのは,『新建築』の1948年4月号の住宅コンペです.「12坪木造国民住宅懸賞競技」といいまして,おそらく学生コンペのようなものだったと思うのですが,ご記憶にありますか.

菊竹 ものすごく鮮明にあります.なぜかというと,この案には曲面の屋根を載せていますが,それは,学徒動員で山梨の韮崎にいたときに設計したドーム屋根を元にデザインしたからなんです.
立川飛行機の分散防護工事というのをやったんです.南下がりの斜面地の川を挟んだ向かいの崖に横穴式のトンネルをつくり,そこに地下飛行機工場をつくりました.そこで戦闘機の組立てをやり,その工場で働く工員たちの三角兵舎というものをつくりました.

各大学から学生たちが動員されて,下士官待遇で監督をし,職人たちを使って兵舎をつくったんです.2,000戸くらいつくったと思います.
5つの地区に分かれていて,各地区ごとにゼネコンが決まっており,僕のところは大林組でした.そのころは材料がないんですよ.板しかない.もちろん大きな寸法の角材はない.そこで,板だけでつくれる構造としてジベルと釘だけでできる2”×4”のようなものを考えました.そうして大きなトラスにして掩体壕を覆い,そこに飛行機を入れておくんですが,そのひとつが潰れたんです.
その理由は,掩体のために土をかぶせておくのですが,雨が降って土が湿って重くなって潰れちゃった.そこで,もっとよい方法を模索した結果,両側を板で固めてアーチをつくろうということになった.実験するところまではやったんですが,終戦になって完成はしなかった.
その後東京に戻ってやったこのコンペの住宅の屋根でそれを使ったんです.
この方法を実際の建物で使ったのが,高田馬場と早稲田の間にある「コア」という喫茶店です.


─このコンペの後,再び『新建築』で商店街のコンペ(商店建築懸賞競技,『新建築』1948年6月号)があって,今度は1等を取られますね.これのご記憶は?

菊竹 あります.


─仙台のショッピングセンターのコンペとは別ですね.

菊竹 ええ.


─軽量石造住宅のコンペはどういうものでした?

菊竹 これは佐藤武夫研究室におられた大林新さんとの合作です.石材の組合が企画したものだったように思います.


─同じ1948年に「仙台市公会堂」のコンペ(『新建築』1949年5月号)があるのですが,菊竹さんはそれに参加されましたか.

菊竹 ええ.1等になった武基雄先生の下でパースなどのお手伝いをさせていただきました.


─このとき,武さんに負けたのが,丹下研のグループなんです.ただ丹下さんはいなくて,浅田孝さん,大谷幸夫さん,太田実さんでやっています.
このころ,丹下研とおつき合いはありましたか.

菊竹 いいえ.まだありません.




平和記念聖堂でメジャーデビュー

─この後,「広島平和記念聖堂」のコンペがありまして,このコンペが,菊竹さんの名前を建築界に知らしめたんですが,当時の印象では大きなコンペという感じはありましたか.

菊竹 戦後最大のコンペでした.おそらくほとんどの設計事務所が参加したんじゃないかな.


─このコンペは,最優秀がなくて,2等が井上一典さんと丹下さん,3等が菊竹さん,前川國男さんほか.佳作には内田祥哉さん,大江透さん,小坂秀雄さん,高田秀三さん,道明栄次さんなどが入賞されています.
このとき菊竹さんは ,大学の3年生でしたよね.案は,墨絵のように勢いよく描かれていて,明快な案なんですが,どのようなことを考えられたのですか.

菊竹 教会堂だけRCの建物で計画し,礼拝が終わったあと人の集まる広場を背景にして,広場を囲む他の建築は木造とし,こちらは後から建て直したりすることができるという考え方です.


─ほう,もうメタボリックなことを.

菊竹 ええ,でもまだはっきり意識してはいませんけど.


─一般のモダニズムのヴォキャブラリーとはちょっと違うところがありますね.入賞したときはどんな気持ちでした?

菊竹 全然予想もしていなかったから.なんかの間違いじゃないかと思いました.審査をされる方の.(笑)


─村野藤吾さん,堀口捨己さんはじめ豪華な顔ぶれだったんですけどね.
当時,菊竹さんは大小かまわずコンペをやってられるんですけれど,何か事情があったんですか.

菊竹 生活費がなかったんですよ.学費もなければ生活費もない.どん底でした.
農地解放で資産がすべてなくなってしまったんです.

そういうことは実感がないでしょうからわからないと思いますが,戦争が終わるまでは白米を食べていたんですよ.ところが,戦争が終わり,農地解放があったら,とたんに芋のつるになった.もちろん食べられたものではなかった.そして学費も全然なくて,とにかく貧乏でした.
ですから,コンペももっぱらアルバイトのつもりでありとあらゆるものを片っ端からやりました.




ピースセンターと丹下さんとの出会い

─平和記念聖堂の翌年(1949年),広島のピースセンターのコンペがありましたが,聖堂のコンペと比べて案がたくさん発表されなかったんです.応募作品集も出ませんでしたし,『建築雑誌』も主だった3案,つまり,1等の丹下案,山下寿郎案,荒井龍三案しか発表されていなくて,コンペの実態がわからない.前川事務所では大高正人さんが担当していたけれど,最後に詰め切れなくてやめているんです.菊竹さんは出されましたか.

菊竹 ええ.ただこれはとても難しいものでした.正方形の案でした.


─真四角の案というのは「スカイハウス」(『新建築』1959年1月号)につながる菊竹さんらしいものですね.

菊竹 そうですねえ.あんまり意図的じゃないんですけど.


─丹下案はどんなふうに感じましたか.

菊竹 まったく想像を超えたものでした.
まさかゲートのようなものだとはね.ただ,ゲートのようにすることで,奥に広がる公園を全部生かせるわけです.前と後ろを連続させながら視点はそこに集中する.一方私の案は,敷地の真ん中に置いちゃったからまったく敷地の使い道がなくなっちゃった.単体の建築になってしまって.これには,本当に反省させられました.


─それ以前のコンペでは,ピースセンターほど強いショックは受けなかった?

菊竹 ええ.やろうと思えば十分に建築界でやっていけると思っていましたから.ところが,この丹下さんの案を見て,これは根本的にアプローチを考え直さなくてはならないと思いました.


─はじめて丹下さんに会ったのは,いつごろですか.

菊竹 武先生のお宅だったかもしれません.おふたりは親しかったですから.藤森さんは丹下さんがサンタクロースになった話をご存知ですか.


─エッ.

菊竹 クリスマスのときに,武先生のお宅にサンタクロースの格好をしてお見えになって,いろいろなものを配っておられました.私がまだ学生のころだと思います.


─けっこうお茶目な.(笑)

菊竹 ですから,親近感というか,人間味を感じました.


─どんな人の集まりで?

菊竹 武先生のお宅でのクリスマスの集まりで,ご家族の方と,あと武研の方が何人かおられたと思います.身内だけの集まりでした.


─広島のコンペの後,丹下さんに会われたそうですね.

菊竹 いやー,僕も若気の至りで.
だけど,広島のコンペは,本当に悔しくて.悔しくてというより,ものの見事にやられたという印象を受けましてね.これはいけないなと思って,どうしたらいいか考えて,やはり心を入れ替えなくてはと思い,丸坊主にしました.
その2〜3日後に,武先生が「うちの菊竹が丸坊主になった」といって,丹下さんに紹介され,お目にかかりました.そのときがはじめてではなかったんですが,それまでは,丹下さんも私のことは知らなかったと思います.


─場所はどこでしたか.

菊竹 銀座だったとは思いますが,わりときちんとしたバーのようなところでだったと思います.


─丹下さんはどうでしたか.

菊竹 なんか奇妙な感じだったのだろうと思うのですが,相当失礼なことを申し上げたのだと思います.


─どんな?

菊竹 とにかく今度は勝ちますからというような.(笑)


─決意表明をされたんですね.

菊竹 ほんとにねー.若いときの思い上がった発言です.




卒業後,竹中工務店へ

─ピースセンターのコンペのときは4年生で,1950年に大学を卒業されて,そのあと竹中工務店に入社されますよね.

菊竹 はじめは大学院に残れといわれて,院にいたんです.
そうしたら,6月ごろだったと思いますが,早稲田の先輩だった竹中宏平さんが訪ねてこられて,竹中にいらっしゃっいというお誘いを受けて,それで行ったんです.そのとき伴野三千良さんが竹中の設計部長でいらっしゃいました.

伴野さんはもともと村野事務所の東京事務局長だったんですが,戦争中に竹中の設計部長になられたんです.そして,ちょうど日比谷の「日活国際会館」(『新建築』1952年6月号)をやっておられて,そこへ配属になりました.
竹中宏平さんにお目にかかったときに,自分は新しいコンクリートや鉄骨を勉強したいといったら,ちょうど今,日活をやっていて,伴野さんがそれを統括しておられるというので,行くことにしたんです.


─竹中に入られて,翌年の3月ごろだと思いますが,「下関市庁舎」のコンペ(『新建築』1951年4月号)に武さんと一緒に佳作に入賞されていますね.このときはどういうお立場でしたか.

菊竹 竹中にいるときも,方々へ引っ張られてお手伝いしましたから,武先生に呼ばれて手伝ったのかもしれません.


─ほかに,ご記憶のコンペはありますか.

菊竹 建築学会の18坪2階建集合住宅のコンペは,武研究室の先輩で竹中におられた沢野さんと一緒にやりました.これは竹中時代です.


─案のご記憶はありますか.

菊竹 これは,ほとんどそっくりのものがミースのシカゴの建物であるんです.2階建ての低所得者用集合住宅で,当時は知りませんでしたが,今から20年くらい前に見てびっくりしました.相当スタディして案をつくりましたので,よく覚えています.




紆余曲折の末,村野事務所へ

─このあと竹中から村野藤吾さんの事務所へ移りますね.

菊竹 伴野さんの紹介でいきましたけれど,たぶんそのテラスハウスが原因だったんじゃないかと思います.
竹中で働きながらそういうコンペを出すというのは不届きだということになってやめさせられたんです.それで岸田日出刀先生が,それなら丹下さんのところを紹介してやるよといってくださったんですが結局ダメで,それじゃあ前川さんのところを紹介してやるよというのですがそれもだめで,行き場がなくなった.
それで村野さんのところをどうかということになったんです.


─岸田先生のところには出入りしていたんですか.

菊竹 ええ,亡くなった家内が岸田先生の研究室にいましたから.
岸田先生からはいろいろなことを教えられました.僕は岸田先生の「1等必選論」には賛成なんです.


─広島平和記念聖堂のコンペのときにいわれていた「どんな場合でも必ず1等をつくれ」というやつですね.

菊竹 ええ.それから,建築のリーダーには,コンペできちんと1等を選べる能力をもつこと,歴史的な建築をきちんと紹介できること,いい建築家を育てること,という3つの条件が必要だと思うのですが,岸田先生はその条件を満たしておられた方でした.それから僕が,丹下さんのところも前川さんのところもダメでしたが,とにかくこういうことをやろうと思っていますといったら,男を決して影でコソコソするな,みんなが見ている前で行動する覚悟で考えなさい,と岸田先生にいわれ,決心して村野さんのところへ行きました.


─前川さんのところへ行かれたんですか.

菊竹 行かずじまいでしたが,2回お目にかかりました.


─なんかいわれましたか.

菊竹 「君ねえ,もう独立してやんなさいよ」っていわれました.(笑)


─確かにねえ.聖堂のコンペでは前川さんと並んだんだし.(笑)
丹下さんのところをどうでした?

菊竹 丹下さんのところには1週間くらいいたんですよ.そうしたら「やっぱり早稲田の人が丹下研にいるというのはちょっと具合が悪いよ」といわれて.


─そのとき丹下研では何をやってましたか.時期的には広島をやってたんじゃないかなと思うんですが.

菊竹 うーん.みんなが忙しくしているというより,お昼くらいに集まってきて,議論ばっかりしていて,それで帰っていくというような感じでした.(笑)


─大谷さんや浅田さんとはそこで面識を得たんですか.

菊竹 おふたりがいらっしゃることは後日知りました.僕は丹下さんしか知らなかったし,一緒にやったというようなもんじゃなくって,横のほうに座ってぼんやり見ていたという感じでしたから.(笑)


─村野事務所ではどうでしたか?

菊竹 わりと忙しかったです.「丸栄百貨店」(『新建築』1954年4月号)の図面をたくさん描かされました.ガラスブロックのファサードの建物です.これは大変でした.
僕は図面を描くのはそうとう早いほうでしたが,とにかく全面にガラスブロックを描かされるわけです.そしてでき上がって見せると「うーん,ここのところもう一段増やそうか」とかいわれて,また一日半くらいかけて描き直すわけです.とにかく大変でした.

そのうちにコンペがありまして,たしか外務省庁舎の指名コンペだったように思いますが,それを村野事務所でやりました.
いちばん最後にパースを前田健二郎さんに依頼をされて,わからないことをいろいろと打合せをした記憶があります.


─前田さんは美校出の絵の上手な方で,戦前はコンペ荒らしでならした方です.

菊竹 緩くカーブした案で,あの斜面の敷地に村野案の建築があったら,さぞ柔らかな雰囲気になったであろうと思います.


─あとはどんなコンペを?

菊竹 東京都庁舎ですね.


─村野事務所でコンペをやるときは,村野さんが最初に案を出すんですか.それともみんなで討議をして進めるんですか.どんなふうだったんでしょうか.

菊竹 近藤正志さんがチーフでしたが,案をつくるのは,私がやらされました.


─菊竹さんは,コンペ界ではよく知られていましたから.(笑)
あれは丹下さんが勝ちましたが,どんな印象でしたか.

菊竹 議会棟を建物の真ん中でつなぐのは正当な案だと思います.
僕も村野さんのところで議会棟をつなぐ案を出すべきだといったんですが,応募要項に真ん中でつながないことという条件があった.ですから,村野事務所の方は全員つなぐべきじゃないということで,意見が対立しました.
それで1等案が決まったらつないであったものですから,驚きました.
1年半くらいいましたから,もうひとつコンペをやったと思うのですが,力不足で3つともダメでした.


─今度は武研究室に戻りますね.それはどんな経緯ですか.

菊竹 やはり行き場所がなかったからです.


─村野事務所をお辞めになった理由はなんですか.

菊竹 構造や設備のあり方も含めた建築の方法論について「これでいいのか」という疑問をもったからです.でも,後で村野さんの作品を見ると,ずいぶん思い切った構造を試みられたり,設備もとても面白い.でも当時は,この考え方では先がどうなるか見えなかった.


─村野さんは,モダニズム的なことをやらないですよね.
むしろ装飾的なことをしたり.その辺については共鳴する感じでしたか.

菊竹 造形に関しては圧倒的に優れていますよね.僕が憧れたのは,ドイツの表現派の流れをくむ「宇部市民館」(『新建築』1937年6月号)でした.ドイツから届く本もほとんど全部読んでおられたようです.そしてその本の上にスケッチをどんどん描くんですよ,アイディアを得ながら.
御堂筋に建つ「そごうの増改築」(『新建築』1953年8月号)も担当しました.そこでは驚きました.コンクリートを打ってでき上がっている階段をぶちこわして,またやり直したりするんですから.こういう経験は他のところではありませんでしたから,いい経験になりました.
(『新建築』1999年9月号掲載,後編に続く)



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