レフトアイ。
私は物心ついた頃から「左目の視力」が弱かった。
母曰く
「出産した病院の看護婦さんが眼病だった。」
ことが原因だという。
原因の真偽はわからないが、小学校に上がる前から眼科や視力矯正を謳う鍼灸院などに通った。
結論からいえば母が必死になって探してくれた其れ等の治療は功を奏さず。
私の低い視力は「弱視(メガネやコンタクトレンズで矯正不可能)」と診断され現在に至る。
こう書くと両眼はっきり視える方々は
「生活で不自由するだろう。」
という印象を持たれるかも知れない。
しかしながら本人生まれてこのかたこの視力なので生活するのに全く支障がない。
二十代前半で取得した運転免許証も、
視野検査に合格すれば(運転の上手い下手は別にしても)難なく更新出来ている。
しかし私を産んだ母からしたら自分が産んだ
子ども(私)の左目が弱視だったことは、
それなりにショックだったのだろう。
私が小学校高学年になるまで、あらゆる治療法を試してくれた。
インターネットのない時代によくもそこまで自分で情報収集してくれたものだと、人の親になった私も母の愛情には感謝しかない。
おそらくこの「不自由のなさ」には、
二つの理由がある。
一つは先述したように物心つく前から左目の視力が悪く、片目しか見えない世界で生活することが「普通」だったという先天的な理由。
もう一つの後天的な理由は幼い頃から「エンパシー(共感力)」が高く、他人の事情にも深く同情・同調してしまう性格だった私にとって。
「世の中が見えすぎる」=「両眼の視力が良い」というのは、もしかしたら生きづらさを感じる要因になったのでは?と自分なりに感じる部分があるからだ。
おそらく「後天的な理由」の方は環境からもたらされたものが、自分なりの解釈に変化したものだと推測する。
そして私の母は一度たりとも私に
「こんな目に産んでごめんね。」
と謝ったことがない。
これに関してはある意味、我が母は「子(私)の目の治療に対して、思う存分向き合い治療もしたし、全く心残りがない。」
ということかも知れないし。
私自身、自分が弱視であることを「不幸」だと感じたことがないのだ。
私にとって「片目しかハッキリ見えない」
ということは『片目が弱視でボンヤリした世界』だからこそ。
世の中の"汚いもの"を見ずに済んでいる部分もあるのではなかろうか?
そんな風に考えると弱視も悪く無いのだが、
それは「片目で世界が見えている」という幸運に恵まれているからかも知れない。
わたしは至って、こんな呑気な考え方ができる
自分自身が大好きな人間だとつくづく思う。
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