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同じ言葉でも同じではない

どんな言葉も人によってその受け取り方がことなります。

その人が過去経験したことによって、特定の言葉から想起されるイメージや、引き起こされる感情が異なるからです。しかし、その根本となる認知は平素ほとんど自覚することができないと言います。

わたしは、あなたの認識を見直してみなさい、改めなさい、という啓示(神様からのメッセージ)として、メガネのレンズだけが道に落ちているところを見かけたり、何かしらの眼に関するメッセージを受けることが多いです。

自分の認識によって、歪んで、あるいは間違っても見えているのであれば、まずはクリアに見えるようにしたいものです。

聖書では、イエス様を通してこのように伝えられています。

まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7‬:‭5‬

また、使徒パウロは、御言葉を語るとき、主の愛なしに語るなら、ただのうるさい言葉だ。主を核にしないなら、どんなことをしても一切は無益だと言いました。


たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭13‬:‭1〜3

神様が言わんとすることと自分が受け取ったことが同じでない可能性がある、ということを知っておくことはとても重要です。

そして、疑問があるなら、必ず解かれるまで尋ねることです。

疑いを感じたら、自分の考えで終わらせないで、尋ねてみなければなりません。答えを見つけられなければ、問題を解決できずに終わってしまうのです。
鄭明析牧師の御言葉




神様の認識とおなじかどうか点検してみなければなりませんね。

間違いに気付けること、そして、直せることもまた、主がくださる祝福です。

自分の非を認めたくない弱さもありますが、傲慢にならず強情をはらず、認めて直した方が、結局のところ、自分にとって楽で有益です。

もっとよく導いてくださる神様に感謝します。