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で、結局神はいるのかいないのか

「宗教は本当なのか」という問いは、どこから手を付けていいのか分からない、そんな漠とした問いである。そこで、この問いを「神は存在するのか」という、やや重複するものの別の視点に基づく問いに置き換えて考えることにする。


なぜ置き換えるのか

1.「宗教は本当なのか」という問いは、その意味・対象が大きすぎ、分析の対象になり得ないから。一方、「神は存在するのか」は、神の定義さえ明確化すれば(あと「存在する」とはどういう意味か、という定義付けも必要かもしれないが)、分析の対象になりうる。
2.「神」は、多くの宗教の中心を成す概念だから。
3.前述の宗教論争において、神が存在するのかどうかというテーマについて、かなり熱い議論がなされていて、無神論者サイド/神学者サイド双方からおもしろい論点が多数提示されているので、それを紹介したい。


宗教における「神」の位置付け

「宗教を信じる」とは、具体的に何を意味するのか。何によって構成されるのか。
例えば、各種儀式に参加したり、(その宗教に特有の)いろいろな習慣に従って行動する、といった面もある。また、その宗教の教えに従い、「善く生きよう」と努力する、といった面もある。

後で詳しく取り上げるが、各種宗教的行動・思想のうち、「儀式への参加」、「習慣に基づく行動」、そして「善く生きよう、という想い」、これらは実は、無宗教の人間でもやっていること。ここには「信者」と「無宗教者」の境目はない。
では、信者と無宗教者を(決定的に)分けるものは何か。それは、「神・超自然・奇跡・迷信」、それを本気で信じるかどうか

この中でも「神」という概念、これこそが、多くの宗教の一番根本を形成する、といっても過言ではない。神というのは、この世に数多くある宗教の、一番コアとなる部分を構成している。世界の三大宗教と言われるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教。そのどれもが、その中心に「神」という概念を置いている。

これは「宗教」というものをどう定義するか、とも関わってくる。例えば「善く生きたい」と願い、それを実践すること、それだけでは「宗教」とは言えない。また、「人生は実に不可思議なものである」とか、「運命のような、うまく説明出来ないものがあるのかもしれない」と考えることも、それ自体は「宗教」ではない。では「宗教」とは何か。やはり、何らかの神(あるいは神々)というものが存在する、という前提をまず打ち立て、その上で、その神と関連づけて「善く生きよう」とか「不可思議だ」とか「運命だ」と考え生きること、それが(多くの信者にとっての)宗教。神が存在することを信じ、その神を崇拝することは、多くの宗教にとって一番根本となる部分なのだ 。

「神」を信じない宗教もある

宗教の中には「神」という概念が無いものもある。例えば仏教など(これらの「神」を信じない宗教はNon-theistic religionsと呼ばれる)。

しかし、そのような宗教でも、例えば「霊」とか「ご先祖様の因縁」といった、もしかしたら存在するのかもしれないがまだ実証されておらず、故にそれが存在すると根拠をもって言うことが出来ない、そのようなものの存在を真実とし、重視しているケースが多い。

ここで分析の対象とするのは「神の存否」で、神の存在を前提とする宗教をクリティカルに分析するが、分析の対象は必ずしも「神」ではなくてもいいのだ。例えば「霊」でも「ご先祖様の因縁」でも、あるいは「Fairies」でも「ネッシー」でも、まだ科学的に実証されていないことを真実だと信じること(すなわち根拠無き思い込み)であれば何にでも置き換えられる。


さて、以下では根拠に基づかない信仰(Belief)の最たるものといってもいい「神は存在する」という信仰について、信者との問答を通し、考えていきます。

神を信じている信者に対し、「あなたはなぜ、どのような根拠に基づいて神を信じるのですか?」と尋ねたら、どのような答えが返ってくるでしょうか。  (続く)

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