なぜ事業再生にリストラは不要なのか?(1/3)
「事業再生に人員削減は不要」「リストラは価値創造につながらない」という揺るがぬ信念を持っています。
幾つかの企業再生を手がけた実体験に基づき、「リストラは、関わる人全員に強度のストレスを与え、人生設計まで狂わせるほどの劇薬なのに、それによって創造される価値は非常に少ない」ことが確信できたからです。
要は、「しんどいのに、効果がほとんどない」のです。
そしてこれこそが「くじらキャピタルでは、リストラをせずに結果を出そう」と決めた理由でもあります。
とある企業の再建でのことです。
当初は黒字脱却の目処がなかったことから、一番最初に人員リストラを行いました。その時は愚かにも、リストラは、事業再建をするうえで避けられないものと勘違いしていました。
対象者1人1人と向き合い、自分が直接、退職勧奨のメッセージを伝えました。
様々な家庭の事情を抱える多くの人。ほとんどの人が自分より年上で、長年会社に尽くしてくれた古参メンバーばかり。
そのような人たちに対し、自分は「会社は苦境にあり、今後あなたに対してポジションを用意できない」と冷酷に伝達し、アウトプレースメントのエージェンシーを紹介するという形でリストラ面談を行いました。
それによって多くの人の人生を狂わせました。
今考えるとこれは完全に間違いであり、取り返しのつかないことをした、と痛切に反省しています。未だに、あの時のことを思い出すと、胸が苦しくなります。お詫びしても、しきれません。
会社の雰囲気は陰悪になり、「リストラはこれが最後」とアナウンスしても、社員の疑心暗鬼は晴れません。次は自分なのではないか、業績次第では2回目もあるのではないか、切られるくらいだったら先に辞めた方がいいのではないか、なぜ経営ではなく自分たちが経営不振の責任を取らされるのか・・・。
(余談ですが、退職というイベントはその会社の社風、関わる人の本性が一番出る局面と思います。
ある社員は、このような局面でも他の社員を気遣い、士気を鼓舞してくれました。その強さ、明るさに多くの人が救われました。
一方で、とある経営メンバーは、社員の反発を恐れて逃げ回り、面談の場には一切出てきませんでした。経営トップの卑怯な振る舞いに絶望した人事部長は、リストラの完遂前に会社を辞めました。リストラという非常事態は、関わる人間の本質を残酷なまでに露わにします。)
「もう二度と、経営は信用しない。」
直接言われずとも、社内で浴びせられる社員の視線から、怒りがダイレクトに伝わってきました。
会社が苦境にあるのは、第一義的には経営の責任ですが、社員にも当然責任はあります。それは絶対に認識してもらう必要はありますが、その責任の取り方が退職勧奨なのか、というと、それは違うでしょう。
不合理だな、と頭の片隅では理解しつつも、自分にできるのは、せめて全員と直接会い、自分の口からメッセージを伝え、その怒りを正面から受け止めることだけでした。
人材流動性が極端に低い日本において、リストラをすると多くの不幸が生まれます。
その瞬間の雇用状況、経済状況によってその後数年間、場合によっては残りの人生全ての報酬が大きくマイナスに振れ、確定してしまう。それが対象者とその家族の人生設計を大きく狂わせる。そしてその話がまだ会社に残る仲間に伝わり、広く社内に共有される。
結果、経営に対する信任は失われ、「ともに苦境を乗り越えていこう」という前向きな一体感もなくなります。
リストラは、特に日本の雇用環境においては決定的は絶望を生むことを、自分はまだ理解していませんでした。
・・・が、実は、それだけで「リストラは不要」という結論に至った訳では、ないのです。