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アニメ作品のみかた
2023/9/30 原文まま
ログ・ホライズン
PSYCHO-PASS
銀河英雄伝説
私は銀河英雄伝説が一番好きで、この作品は初代ガンダム放映と同時期の1980年頃に小説、1990年代にアニメ化されたもので、OVA版と外伝だけで約120話程度ある。その他にアニメ映画が4作程度。
この作品を見だしたのは2018年頃からだが、流し聞き含めかれこれ最低6周くらい以上視聴している。120話×6周として46時間程度。
その甲斐あってオーケストラの美しさに出会うことができ、登場人物や社会、世界観といった、作者によりアニメに投影された思想や価値を少しばかり学ばせていただいている。
私にとってアニメや音楽、書籍といった作者が投影する作品というものは、(その個人の内面がコーヒーフィルターを通し濾過され抽出された珈琲のように、または茶葉から抽出されたお茶のように)その人間の個性が無意識下を含めて指向する価値や意義を現実に産み落としたものだ。
存在=光=音により言葉が生まれ、言葉から本になり、本からアニメになる。
この作品のような長編アニメと1,2クールの短編アニメ、もしくは繰り返し堪能する作品と1度見て終わる作品とでは吸収度量の差は大きい。継続は力なりというように。
2024/10/5 4:30~
1
ところで作品とは、味わい深いものである。作品にふれたとき、縁が生じる。世界観が好きな者やキャラクターが好きな者、思想が好きな者もいれば声が好きな者もいる。それは一つの入り口で、私が愉しいとおもうから、好奇心があるから抵抗なくスッとこころに入る。入ってみたことによって、時にそれは心を喜ばせたり、悲しませたりもする。つまり私の感情が刺激され、共感している。
これはまるでこころの教育、修心修養とでもいおうか、人間を人間たらしめるものだ。その反面、大人からすればなにをつまらぬことをと言われるかもしれないが、よ~く見てみると作者はたいへん勉強されており、あの理論を指しているんだろうなあとか、その発想法もあるのかとか、閃きのもととなる。たとえばログ・ホライズンは、魂魄や精神、月あたりであるし、サイコパスであれば世界構造(システム)や倫理、通常と異常あたりである。
2
ところで作品とは、人と人をつなぐものである。銀河英雄伝説OVA版は30年、40年前の放映で、そのころ若かった人は視聴していたり薄っすら覚えているようにおもう。リメイク版が放映されたことにより、OVA版で育った私などは若い人たちと話す1つのネタができる。
たとえば男からみた女関係であれば、自由惑星同盟のシェーンコップとポプランは真逆だなあと思いつつも、帝国ゴールデンルーヴェのミッターマイヤーとロイエンタールはまた違った真逆である。
まあなんにせよ、まったく違う価値観を一つの作品に入れることができるのは、多神教というかアニミズムというか、そのあたりの寛容さ、心の広さにあるだろう。AにはAに向いたものを、BにはBに向いたものを割り当てることは一つの理だが、それが過ぎると人間としてみれず駒のようにみえてしまう。
3
ところで作品とは、作者の思想であり哲学であり芸術である。こうしたらおもしろいんじゃないかとか、これが真実だろうとか、こんな理想があったらいいなとか、まあ情熱の灯がそこにあるわけである。私が現実のうちに生きているからそう思うのであって、現実に生きていないときはそう思わない。
たとえばサイコパスは明暗がはっきりしている。システムのうちに生きれば良いも悪いも健康管理もシステムがすべて決めて、また実際のところ論理的に100%正しい。シヴュラという完璧な母である。免罪体質という異常の存在を取り込もうとするのは、論理学でいえば帰納法を用いた科学への、母への回帰であるとともに母の進歩である。槙島聖護はそれを拒んだわけであり、自らも母と対等な存在として生きることができた。
つまり作者は、その作品を物語るほどの広さをこころの内にもっている。これを外に描き出すには他者の目を気にしない勇気がいるだろうし、あらゆる抵抗を超えるほどの情熱によって可能となる。下手な歌でも困難に挑み続ければそのうち聞ける音楽となる。
~8:00
1700字程度