0円教育物語④ みんな違ってみんないい。楽しみ方も、違っていい。

16具体的に「自分のこと」に集中してみる
 勉強において、具体的に、「自分のことに集中する」とは。
 人がもつ能力はそれぞれ違う。好きな食べ物が、嫌いな食べ物が、人と違うことと同じである。「能力の上下」の範囲は超えて、「違う」のである。この際、「上か下か」は問題ではない。
 それぞれの能力が「違う」のであれば、「みんな一緒に」というわけにはいかない。違う能力から出発するそれぞれの勉強において、みんなやることが、やるべきことが、やるといいことが違ってくる。
 自分にとっては得意なことが、誰かにとっては不得意なことであっても、誰かにとっては得意なことが、自分にとっては不得意なことであっても、それはごくごく自然なことといえる。「そういう生き物」が、不思議なことに「人間」である。
 例えば、算数の割り算が苦手だとする。まずは「自分は割り算が苦手だ」ということを発見するところから始まって、そのとき、それが「自分ごと」になる。ではその苦手意識を克服するために、「そのための方法」を考えてみる。例えば「割り算のテスト」で何点を取れたら、個人的に嬉しいかを、考えてみる。別に何点でもいい。「自分で」決めてみる。こういうときに「テストの点数」というのはわかりやすくて、利用しやすい。「自分が納得をする」ための「わかりやすい数値」として利用をする。仮に「60点」を納得できるものだと設定したなら、今度は「割り算のテストで60点を取るため」の方法を考える必要がある。ここでも、もちろん「自分で」考えてみていい。「自分は割り算のテストでどうやったら60点が取れるのか」を「自分で」考えてみる。そして仮に「学校に行く前に必ず10問といてからいこう!」としたのなら、テストまでトライしてみる。朝起きたら、「あ、10問」と思い出すように、習慣化する。習慣化するためには「自ら習慣をつくる」ことが欠かせないので、「習慣をつくってみること」も立派な前進である。「朝の10問」が果たして本当に「60点」につながるのか、つながらないのかは分からないが、分からないなりに、前進をする。「分からない」以上、「やってみないと」検証はできない。
 僕は、「このプロセス」が「勉強」ではないかと考える。そして、「自分が60点を取りたいから、そのために毎朝10問練習する」というプロセスは「自分ごと」である。長い期間をかけて、ある地点を目指して積み重ねる行為である。即効性はないけれど、長い期間かけて積み重ねていけるのが、勉強の面白さであり、楽しさである。そして「行き着きたい先」はあくまで、「自分が嬉しくなる地点」である。嬉しくなれれば、そりゃ嬉しい。嬉しくなれるのなら、そりゃ嬉しくなりたくはないだろうか。勉強はそんなにつまらないものでもない。
 別に「60点」である必要は、もちろんない。「80点」でも、今が35点だから「45点」を目標にしても、「100点」を目標にしても、なんでもいい。とにかく「自分が嬉しくなる」だろう点数だとか、「自分がそうなれたらな」と思える点数であることが、より面白さを生み出す。「ご褒美に美味しいものを食べる」ことがわかっていれば頑張れるのと同様に、「そうなりたい自分」をめがけて、ちょっくら頑張ってみる行為が「勉強」である。案外、面白そうではないだろうか。
 つまり、勉強は「テストの点数が高いから」楽しく、「テストの点数が低いから」つまらないものではないのである。そんなことでない。たしかに、足の速い子は積極的に走りたがる程度に「得意」という効力が働くことも考えられるが、それは背の高い子が背の順になると一番後ろに行く、程度のことで、「そういうものだ」ということでしかない。単純に「個人的なゲーム」のように、「自分のため」に「自分がウキウキする未来」のために、得意不得意関係なく、ちょこっと勉強をしてみる。それでいいのが「勉強」である。それを無理して「競争道具」に仕立ててしまうのは、あくまで「人間」である。人間はそこまで「勝ちたい」のだろうか。「勝ちたい」人は何かに勝つために勉強をして、楽しめば、それでいい。僕には「自分のワクワク」に勝る「目標」を設定することが、この上なく難しいように、思えてならない。
 これが「自分に集中する」ということである。誰かにあれこれ言われて、仕方なくやるのも悪くはないが、それ以上に、自分が無理をすることなく、自分ごととして目標を立てて、自分の世界で頑張ってみる空間は、それはそれで貴重なものではないだろうか。意外と、こんなにもお手軽に、「自分ごとを楽しめる機会」も、そうはない。

17どうせやるなら楽しいことに
 勉強はやったらどのような意味があるのだろうか、やらないとどんな不都合なことがあるのだろう。
 おそらくここには、いろいろな考えがあるだろうと思われる。ただ「どんな理由」であるにせよ、「勉強」は用意される。子どもたちに対してはよりダイレクトに「勉強」として、それが大人になっても「学び」が求めらることに、変わりはない。「学べる」ことも、人間がもつ一つの「特権」であるとも言える。
 「そうであるならば」である。そうであるならば、勉強が私たちにとって、あなたにとって、より有意義なものになった方が、面白くはないだろうか。別に面白くなくていいと考える人はそれでいいが、僕はどちらかというと、面白くあってほしいと思ってしまう。そしてその「面白くする方法」として、「自分ごと」にしてしまおう、という試みである。
 「勉強をする」という行為は「勉強のみ」に適応されるものであるかもしれず、実際「それ以外の機会」にみることのない知識を学ぶことは多い。だが、「勉強に対する感性」は、勉強に限ったものではない。自分の興味関心とは少し離れたところにも「あ、これは面白いな」と思う瞬間であったり、「これは面白くないな」と感じることであったり、やってみると意外と発見はあるものである。そして、何か物事を体験してみて、「何かを感じる」という機会は、それがスポーツだろうが、ゲームだろうが、遊びだろうが、これといって大きな差はない。スポーツだろうが、ゲームだろうが、遊びだろうが、勉強だろうが、「これは好きだな」とか「これは好きではないな」とか、「これは楽しい」とか「これは楽しくない」とか、さまざまな感情、発見をし得る点で、共通する部分は非常に多いのである。
 そのように考えると、とりわけ「勉強はしなければいけないもの」でも「勉強はするべきもの」でもない、と言える。勉強も、スポーツも、ゲームも遊びも「強制されて」やらなくてはならないもの、というわけではない。「好きに」すればいいものである。
 ただ「生きていく」ことを考えると、必ずしも「好きなこと」に限定しておけばいい、ということでもない。赤ちゃんが生まれてこの方、好きなことだけを続けたところで、残念ながら「できること」などほとんどない。赤ちゃんは、赤ちゃんなりに「できないこと」を克服していかなくてはならない。それが好きなことかどうかは別として、歩けるようになったり、言葉を発せるようになったり、していくのが「生きる過程」ともいえる。
 そこで「勉強」が登場する。多少のストレスを感じながら、「できないことに向き合う機会」が提供される。「好きなこと」かどうかは問われずして、当然のごとく「用意」される。
 当たり前のように用意されるものに対して、「やるべきかやらないべきか」を議論するのは、なんだか自然の原理に逆らっている。どこか「なぜ夏は暑いのか」を議論しているような感が、僕にはしてしまうので、ここでは省略をさせていただくが、少なくとも「用意される」のであれば、「やってみること」も悪いことではないのではないか、と僕は思う。そして、どうせやるなら、多少「楽しいな」と思えるやり方を探してみてはどうだろうか、というのが僕の考えである。別にやってもやらなくてもいいが、「やる準備」がされているのであれば、「意地を張って」やらない選択をする必要も、特にないように思われる。そして、悲しいかな、「その習慣」は「用意されている」うちに身につけなければ、「用意されなくなる」大人になってから身につけるのは、やや難易度が上がる。「子どもの時間」に用意されるものを「大人の時間」に学ぼうとするのは、より高価となる。少なくとも、大人になると「合間を縫って」身に付けなくてはならなくなる。なんらかの価値を生み出すことを求められる「大人」が、「自らその時間をつくりだす」のは、それ自体難易度が高い。そして、大人になってから、「sinθ」の値を求められるようになっても、それこそ「なんの役に立つのか」という議論になる。sinθの値を出すことそれ自体がとても楽しいのなら、それはそれで幸せそうだが、「そうも言ってられなくなる」のが「大人」の実際ではないだろうか。それでいて、子どもには「勉強をしろ」とでもいうのであろうか。それはそれで、面白くはある。が、「多少の苦痛」を伴いながらも、「できることを増やそうとする姿勢」を「身につける」のは、「子どもの時間」が適していると、僕には思える。大人に「その時間」が「用意される」ことは、残念ながら、あまりない。
 「子どもの時間」で「勉強をする」行為が身につくこと、「できないことをできるようにしようとする習慣を身につけること」には、それなりのメリットがあるのである。それが早ければ早いほど、それだけ「あなたができること」の範囲は広がり得る。「その習慣」があるかどうかが重要なことであり、何も「より求めづらいsinθを求められるようになる」ことがそれほど重要なことではない。何度も言っていることだが、社会において「sinθ」を求めるタイミングは、あまりない。
 そして、「どうせやるなら」、どこかに「楽しさ」があった方が間違いなく面白い。そのために「自分ができないこと」から出発して「自分ができるようになる」未来に近づこうとする。そして「その過程」の楽しさを、感じてみる。これが僕のおすすめである。ただ「こうなったらいいな」というイメージに近づこうとする行為。ただ「なんか良さそうだな」という理想を感じ続けようとする毎日。少しでも「気持ちのいい方向」に向かっていることを実感するための勉強。ある角度から見れば、「勉強」もそれなりには面白く、その体験は意外と「その時間だから」許されている貴重なものなのである。

18自分のことに集中する=楽しい=超越
 勉強は「自分のことに集中する」練習の場である。そして、「その楽しさ」は「今日楽しい」とか「明日楽しみ」とか「昨日は楽しかった」とかの「一時的な」楽しさではなく、もっとじんわりと、じりじりと、着々と楽しさを感じるものである。おそらく、そのじんわりとした楽しさを感じるということが、「自分を高めている味」なのではないかと、僕は思う。そしてその「自分のことに集中する」ことが「勉強」の範囲を超えて応用できるようになったときに、ある種の「超越」した境地にたどり着けるのではないか、と僕は期待している。簡単な言葉にすると、「人と比べない」とか「人に嫉妬しない」といったことを「無意識に」手に入れられるのではないか、ということである。よく耳にする「人と比べない」とは、「人と比べないようにしよう!」と意識をしている時点で、だいぶ人と比べてしまっているように思われ、本当に「人と比べない」状態があるとするなら、それは「人と比べる」という概念がなくなったときである。「人と比べないようにしよう!」という意識は、「人と比べるから」こそ、発生するものである。「人と比べずに、自分のペースで勉強しよう!」と意識することは、つまりは「人と比べて勉強をしているとき」である。「勉強」とはもっともっと「自分ごと」である。
 「勉強」の範囲を超えた「超越」の具体例を挙げてみると、「仕事」が代表的ではないかと、思われる。仕事は偏差値ではなく「給料」で比べられやすい。「あの人はいくら稼いでいる」だとか「あの仕事はお給料がいいはずだ」とか「あの仕事は大して儲かっていない」とかとか、である。
 「その議論」については、それぞれの好きにすればいい。ただ、僕は「そういう思考」の元に働くようでは、いくらを稼ぐにしろ、そこまで「楽しくはないのだろうな」と思ってしまう。というか「勉強」を通して「超越」することはできなかった人なんだろうな、と思ってしまう。別に「超越すること」が正解ではないが、仕事を相対的な価値観でしか捉えられない人というのは、「その仕事」をしたくてしている人というよりは、むしろ「自分の体裁」を意識しているのだろうな、と思えるし、毎日がそんなに楽しくないのだろうな、と思えるし、「自分」以上に「他人」に振り回されて生きているのだろうなと、思えてしまう。僕は、「自分が」楽しければそれでいいと考えているし、「自分が」何をするか考えることが好きであるし、「そうすること」でしか「自分が楽しい人生」を作ることはできないと考えているし、「そうしようとすること」でしか、自分のやりたい仕事などできないだろうと考えているので、そちらの方向で生きていこうとしている次第である。極めて個人的なことであるが、「超越すること」は、案外、「誰しもがそれぞれに幸せに楽しく生きていくため」の一つの方法論ではないかと、勝手に仮説を立てている。つまり、客観的に考えても「他人に振り回されるよりも、自分が自分の楽しいことをする方が、楽しくなるのではないか」と思えてならない。いくら大谷翔平が「楽しそうに」野球をやっているからといって、誰にとっても「野球をすること」が楽しいわけではないのは、当然である。万人共通で不変の「楽しいこと」は存在しえず、「あなたが楽しいこと」をすることが「あなたが楽しくなる」一番の方法ではないか、という僕なりの見解である。そして、「その態度」を「勉強」を通して身につけようということである。いかがだろうか。
 もう少し「超越する」ということについて述べたい。
 「超越する」とは「自分のことに集中をする」ということである。「自分のやりたいこと」を「自分のため」に「自分」がやる、「それ」に時間を使うということである。「こんなことをやったら楽しくなるのではないか」、「あんなことをしてみたい」といったことを、実際にやってみることで「あなたの楽しい」に近づこうとする行為の完成形が「超越」である。
 「超越」の原動力は「成功」ではない。「うまくいくこと」が原動力ではない。「ただ自分の理想に近づこうとすること」が原動力である。うまくいくためにやるのは間違いないものの、「うまくいくかどうかわからないからやらない」という選択肢は取りえない状態である。「うまくいかないかもしれないからやらない」のでは、それは「自分の理想」に近づこうとしているのではなく、「うまくいきたい」だけといえる。「うまくいきたい」のは、「あなたの理想」ではなく「誰もがもちえる理想」である。別に「あなただけが」うまくいきたいのではなく、「皆」うまくいきたいものである。「うまくいくかどうかわからないから、やらない」という発想は、「誰にとってもの理想」に近づこうとしていることの裏返しと、言える。勉強を例にすると、「できるようになるかはわからないからやらない」という発想であり、「勉強ができる」とは、誰にとってもの理想であり、苦労を伴わずに「勉強ができる人間」であれるのなら、「誰もがなりたいもの」だと、思われる。「自分ができるようになりたいこと」と「みんな等しく考えること」は全くの別物であり、「テスト」が用意される以上、取れるものなら「100点」を皆が取りたいのは、容易に想像できる。「うまくいく」が「実現する」とわかっているなら、誰にとっても「それなりに旨味のあるもの」ではある。「うまくいくこと」はそもそも「皆」が望んでいる。皆が望んでいることを、「あなた」が望むのは、「あなた」だからではなく、「あなたも皆の一員だから」である。もっとも「勉強ができる」というラインがどんなものなのかは、僕にはわからない。
 「自分のことに集中する」とは「楽しいこと」であり、「自分のことに集中する」とは「超越」であり、「超越」とは「楽しいこと」だと、僕は感じる。

19勉強は「個人的な楽しみ」である
 改めて、勉強とは「個人的な楽しみ」である。個人的に、できないことをできるようにする過程を、楽しむものである。僕は、「勉強」によって、「その人が頭がいいのかどうか」はもしかしたら測れないかもしれない、とさえ感じている。これは、僕がちょっとだけ勉強をしてみたことがある経験からの、感想である。
 ちなみに僕は、勉強を超個人的に楽しんできた、記憶がある。ときに点数を競う姿勢で取り組んだことも、ないこともなかったが、競ったところで、大した勝負もできない僕は、「勝負する人」自体があまりいなかったことも幸いして、「勉強で競う」機会はあまりなかった。というか、僕は友だちがほとんどいない。それだけかもしれない。
 僕は、本当にたまのたまに、奇跡のひらめきを自分で実感することもあったが、「勉強」に関しては「できないこと」が多かった。できるようになるまでにはかなりの時間を要し、時間をかけて身につけたものの今となっては何一つ覚えていないこともあり、「身につけた」としても「できる」レベルには到底及ばないことも、たくさんあった。「できないものはできないものだ」と知る経験を、たくさんできた。ただそれを深刻に捉えていたかというと、まったくそんなことはなく、できないなりに「やること」は多かった記憶がある。見方を変えると、「やることがたくさんで、深刻に捉えている暇がなかった」ということかもしれない。「できないことが多い者」にとって、「それをできるようにする」には時間も、労力もかかるので、「できないものが多い」というのは、かえって「やること」が豊富に用意されるのである。その恩恵を見事に受けて、僕は「勉強」において「できないことによる深刻な境地」には遭遇することさえないまま、「学生」を終えた。「勉強を理解する」とか、「より深い学び」とかを考慮する暇もなく、とにかく付け焼き刃のその場凌ぎの勉強しかしてこなかった。それが果たして「身になったのか」といえばそれは自分では分かりえないが、それでも、自分なりの「乗り切り方」として、「自分なりに乗り切る」という目標をクリアすることはできたので、それはそれでよかったと感じている。「自分さえわかれば良い」精神で、とにかくめちゃくちゃな暗記の仕方を見出して、とにかく「今を乗り切る」ことを繰り返していても、それなりに「楽しい勉強」はできるものである。「勉強のやり方」に決まりなどは「特に」ない。
 受験に関して、高校受験も大学受験も僕はあくまで「自分ごと」だと思っていたので、自分のイメージがワクワクするところだけを希望した。受かるとか受からないとかも、もちろん大事ではあるけれど、それ以上に「自分がいいようにやろう」という心意気で取り組んでみた。その心意気は、おそらく僕の身の丈には合わないものだったのだろうな、と振り返ると思われる。高校受験のときは「それはバクチみたいなもんだ」と先生に言っていただいたり、大学受験のときは浪人前提の話を、当時の先生に、たくさんしていただいた記憶があるが、僕にはもちろん、これといって関係はなく、特に希望を変えることもなく、その状態で受験をしたが、結果的に、「自分のワクワク」に近づこうとする姿勢がうまくいったのか、どちらもそれなりに、希望通りに終えることができた。「結果」がよかったからそれでいいということではなく、「結果」で見返したい気持ちも特になく、ただ自分が後悔しないように、自分が楽しいようにやって、「それ」に近づいていく練習だけはそれなりにやっていた、そして、それはそれで悪くなかった、という経験ができたのが、何よりだと思っている。改めて、勉強は「個人的に」やるものである。「その点数では」とか「その成績では」といっていては、「自分ごと」ではなく「他人ごと」の勉強である。受かっても受からなくても、「受かったら楽しいイメージ」を持って勉強してみることも、そんなに悪いことではないのでは、と僕は思っている。
 受かりそうだから勉強するのでも、受からなさそうならやめてしまうのでもなく、「自分がこうなったらいいな」という「理想」に近づく練習が、「面白い勉強」ではないだろうか。

20自分が納得するためだけの勉強
 勉強なんて、「自分が納得をするためだけにやればいい」のである。もし、「勉強の価値」が何かしらあるとするなら、それは「やってみること」で感じられるものだと思われ、そして、「あなた自身」が「やってみたこと」で「感じた価値」こそが、「あなたにとっての勉強の価値」である。残念ながら「やってみること」なしに、「勉強の価値」は見つかりえない。「あなたにとっての勉強の価値」を「自ら探しにいく姿勢」こそが「勉強」であり、それ以外の価値や意味を「やる前から」問うことは、少しだけ早とちりが過ぎるように、僕には思える。「みんなが無理をしてまでやらなければいけないもの」ほどの意義深さは、おそらくない。
 僕は「勉強をやりなさい」と指示することも、「勉強はやらなくていいよ」と甘い言葉をかけることもできない。僕が、僕の時間を勉強にあてて見えてきたものや感じたものが正解でもなければ、誰もが「同じもの」を得るとも限らない。勉強は、極めて個人的なもので、勝手にやるもので、勝手に楽しさを見出すもので、いつの間にか「意味のあるもの」になり得るものである。つまり、アドバイスできることがあるとするなら、「やりたいのならやって、やりたくないのならやらなくてもいい」ということでしか、なくなってしまう。「強制をする」ほどの「価値」を僕は見出すことは、できていない。そして「強制される」ほど、「窮屈なもの」ではなく、もう少し「自由なもの」だと感じている。
 仮に僕が、どの目線からかはさておいて、「勉強はやりなさい!勉強をやらずして、どうやって生きていくんだ!」と叫んだとして、窮屈な勉強を課したとして、それは「仕方なくやるもの」にしかならないだろうし、「勉強はやらなくていいよ」とささやいたところで、何年か先に「あ、やっておけばよかった」と思うかもしれない責任を背負うわけにはいかない。「勉強をしたから」正解で、「勉強をしなかったから」不正解、またはその逆、「やらなかったら」勝者であり、「やったから」敗者でもないのである。やってもやらなくても、正解にも、不正解にもなりえる「正体不明」のものが「勉強」であり、それを一般的には、「課されるもの」に対して「応える姿」の美しさから、勉強は「美化されやすいもの」といえるだろう。ただ「美化されている」からといって、やったから、やらなかったら、「その行為」が世界を変えるわけでも、人を覚醒させるわけでも、「人間」を著しく進化に導くわけでもない。そしてそれが、勉強の外枠、つまり「どの高校に行ったのか」、「どこの大学に行ったのか」、「どんな資格を取ったのか」が「重要なものさし」になるものであればあるほど、「学び」ではなく「ツール」と化した勉強として、「ただの道具」として停滞するものだろうと思われる。ただ誰に向けられているのか、よくわからない自尊心やプライド、価値の証明のための「道具」である。「道具」であるなら「道具」としてしか機能はしえない。
 もちろん「それ」をも含めて、「勉強」である。つまり、心の底から、「好きなように」やればいいのである。僕は「テストの点数が低いことの問題」も、「誰もが高得点を取ろうとする必要性」も、全く理解がしがたい、というだけである。点数を上げたい子が「満足にそれに向かえる環境」や、もう少しできるようになりたい気持ちを表現できる場の必要性を感じてて、そしてそれが「自らの意志」以外の部分で滞ってしまうものにならないためには、あの手この手を使ってみようというのが、「きょうえい塾」である。
その「競争的な」勉強や、「ツール化した」勉強に「価値がある」と感じる方は、その実験を踏まえて挑戦をしてみればよく、「その価値を探す旅」もそれはそれで、面白そうである。その体験談、その良さを僕は知りえないために、教えていただきたい気さえする。ぜひ、心の底から、「好きなように」やっていただきたい。
 ひとまず、「誰もが納得し得る学習環境」を作ってみようと、僕は思う。というのは、勉強をしたいけどできないことを防ぐための環境である。それが勉強における「平等」ではないだろうか。もし「やりたい」のに、何かしらの理由でその気持ちが滞るようでは、「誰もが納得し得る学習環境」が成立しているとは、言いがたい。すでに「学校」はあるものの、その「おかわり」的存在の学習環境の用意が、僕にはどうやら必要そうに思えてならない。そのための場が、「無料塾」であり、「きょうえい塾」ではないか。きょうえい塾は、そうありたい。
 素直に「分からないこと」を解決する勉強。それこそが「面白い学び」ではないだろうか。面白い学びとは、自由であり、自在である。分からないことをわかるようにするために、「紙の上」の勉強がある。「紙の上」であっても、「紙の上でする」のか、「紙の上でだけしてればいい」のか、それは「あなたの裁量」によるものである。

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