0円教育物語⑫ 学力格差が招く元気の喪失、元気の復活。

56「学力格差」を考える
 「学力格差」について考えてみたい。
 「学力格差」はいろいろな理由で生まれると考えられる。まず挙げられるのは、「能力の差」である。50m走を走ってみると、皆タイムが違って、速い子もいれば遅い子もいるといったような「格差」である。身長が高い子がいれば、身長が低い子もいる、という「格差」である。それが「格差」なのかはわからないが、ひとつの「差」であることは間違いない。それと似た「差」が「勉強」において生じでも、おかしなことではない。一般的に、このような差は「仕方のないもの」とされるだろう。
 「得意・不得意の差」も考えられる。これは「能力」とリンクする部分もあるが、その人の「何らかの経験」によって、「自分は勉強が得意だ」と思える機会があればあるほど、より積極的に取り組みやすいだろうし、「自分は不得意だ」と感じる経験をすればするほど、取り組みは消極的になるだろう。自分で「歌が得意だ」という意識があれば、カラオケによく行くだろうし、「歌が不得意だ」という意識があれば、そうはカラオケにはいかないだろう。その「意識の違い」が取り組み方に変化を生み、積極的にやればやるほど、「練習の機会が増える」という意味でも、おそらく上達していく。どこかのタイミングで、「もしかしたら自分は勉強が他人よりも得意なのかもしれない」と思える経験をするかしないかは、勉強の取り組みの積極性につながり、「積極的に取り組む」ことが、そうでない人との「差」をつくることは、十分に考えられる。よく練習する人と、そうでない人の差は、勉強に限らず、スポーツにおいても、同様だと思われる。「好きこそものの上手なれ」と言われるぐらいであるから、「得意な意識」はきっと何らかの作用を及ぼす。ここで生まれる「差」も、それほどまでに深刻なものとは、認識されないだろう。「得意な子」が拍手をされる、という「差」である。
 「環境の差」も考えられる。例えば親御さんが「勉強しなさい」と絶えず言い続けるタイプの方々であれば、きっと「勉強をすること」は身近になる。「勉強をしないこと」が怒られることであれば、怒られないために、勉強をすることが日常になるかもしれない。かえって、「遠ざける環境」にもなりえるかもしれない。または親御さんが日頃から勉強をする、何かを学ぶ習慣のある方々であれば、その子どもも、自然と「勉強」が身近になるだろうと、思われる。勉強が日常のすぐそばにあるのか、ないのかによって、その環境」に違いが生まれるだろう。「勉強は楽しいよ」と言われて育てられれば、「勉強の楽しさ」を探しやすくなるだろうし、まったく勉強の匂いが漂わない家庭で育てば、それだけ勉強は他人事になるだろう。どちらが良い悪い、ということではなく、「環境に違いがある」ということである。
 「子ども」は基本的には「誰か」に育てられる立場にあるので、「どのような人に育てられるか」は多少なりとも、何らかの差を生み出すとみて、不自然ではない。それは「差」というよりも「違い」と表現されるのだろうが、もしそれが「学力」として「測定」されるのであれば、それはおそらく「差」になる。本を読む環境にあった子どもと、本など見ることもない環境にある子どもでは、学習能力に「差」があるだろう。読解力、読むスピード、感情表現には、多少なりとも「差」があり、それを「点数」に置き換えると、おそらく「学力の格差」になる。もちろん「上」がよくて「下」がダメというものではない。
 「育つ環境」の違いとして、他には「どのような習い事をしているのか」ということでも「差」は生まれるだろう。算盤を習っている子と、習っていない子では、計算のスピードはまるで違うだろうし、野球をやっている子とやっていない子では、その技術は圧倒的に違う。「それをやる時間」を集中的に持つものとしての「習い事」の威力は、子どもの「差」を考えるときに、意外と作用するのではないか、と僕は思う。本来、皆が同じことを同じだけやったときに生まれるものが「差」なのだろうが、「まったく違う環境で育っている」という「不公平さ」が「差」を、そして「格差」を生みかねない。非常に「ルールのないもの」であるが、その分、例えば「お金をかけられるかどうか」と言ったことが、子どもたちの格差に直接に影響するだろうし、「塾に行っている子」は勉強ができて、「塾に行っていない子」は勉強に遅れをとる、といったことが「格差」として解釈されても、何ら不思議ではない。「それは格差なのかどうか」が議論されずして、それを「格差」と呼ぶ空間が、「格差をつくっている」とも言えるかもしれない。「何を習っているのか」、「何を習える余裕があるのか」が、なんらかの格差、ときに「学力格差」を生むだろう。大前提として、僕は、仮に「格差」があったとしても、その「上」と捉えられることも「下」と捉えらえれることも、「それ自体」が良いことでも良くないことでもないと、考えている。ただ「格差がある」、つまりテストをやってみると、点数が高い子も低い子もいる、という事実をみている、というだけである。

57学力改善が万能薬ではない
 なんらかの理由で生じると思われる「学力の差」は、ときに問題視される。足の速さや背の高さのように、「ただの違い」というわけにはいかないのが「学力」である。
 もしそれが「能力」だけの差であるならば、ある程度は仕方がない。それを「埋めようとすること」はやや無理がある。「人と人の違い」を否定するようなもの、と言える。
 もし「好き嫌い」の問題ならば、それも仕方がない。それを好きで生まれてくるか、それを好まず生まれてくるかは、「運」である。ちなみに僕は野球には興味をもって生まれたが、サッカーには興味をもっていない。たまたまであるが、それを「サッカー好きにならないといけないから」という理由で、サッカー好きになることはできそうにない。「好み」とはたまたまであり、何を好むかは、何が作用してのものかも含めて、「運」であろう。これも、たいした問題ではない。
 ただ、もしそれが「環境」によるものならば、多少の改善の策はありそうである。「環境」もある側面からみれば「運」の要素があるだろうが、一方で、今からでもつくれるもの、でもある。「学習空間の有無」という「差」であれば、なんらかの方法で、対処ができそうなものであり、「満足に勉強ができない環境」を少しでも改善しようとすることは、十分できることである。少なくとも「人の能力」よりは「動かせそうなもの」である。
 「学力格差」を考える上で、そして「学習環境」に焦点を当てたときに、一番に挙げられるのは「塾」ではないかと思われる。「人間の能力の差」を「ものすごくあるもの」とするのか、「ほとんどないもの」とするのかでだいぶ異なるが、「ほとんどないもの」とするのなら、学力において「塾」は大きな要因になり得る。純粋に考えて、「塾にいく子」と「塾に行かない子」であれば、勉強を「教えてもらえる時間」に違いがあり、「その違い」だけをひとまず見ると、その分、学校で測定されるような「学力」においては「差」が生まれやすくなると考えられる。なかには「塾に行かずに勉強ができる子」がいても不思議ではないが、「塾」が「勉強がよりできるようになるための場」であるなら、塾にいくと、「多少なりともできるようになる」とみて問題はないだろう。少なくとも「教えてもらえる環境」が塾に行くことで、ひとつ増える。塾側も、預かっている以上は、それなりに力を入れて教えてくれるのではないか、と思われる。
 では「学力格差」がなぜ問題になるのか。それはおそらく「それ」によって進路を決めたり、人生の方向性までもが定まったり、または強く自分に自信が持てなくなってしまったり、学校に行くこと自体が嫌になってしまったりしかねないからだろうと、考えられる。学校の先生の立場からすると「進路」を決めるにあたっての不安感が強いのかもしれないが、僕のような無責任な立場からすると「進路に困る」ということは、それほどの問題には思えない。もっとも、東大に行けたとしても、性犯罪で逮捕される人もいるぐらいである。別に性犯罪でなくとも、法に触れることをしてしまう人だっている。「良く見える進路」が必ずしも「良い人生」を保障するものではないことを踏まえると、「進路が充実する」ことはそれ自体にそこまでの価値はない。それぞれが好きなように、思った通りに実現できれば、いいかもね、という程度である。
 ただ学力の遅れが、自己否定につながってしまう場合は、考えなくてはならない。それは「放置」していて良いものではない。まして「お金がかかる塾には行けないから」という理由、つまり「改善の余地が残されている理由」であればあるほど、放置していて、良いはずがない。もっとも、あれほどまでに「勉強」と密接した環境下にいる子どもたちにとって、「勉強の遅れ」が「生きることの嫌気」につながることは十分に考えられ、それを「改善する方法」が分からないとなれば、気持ちの面で塞ぎがちになっても、仕方のないことである。
 では、「学力格差を埋めること=子どもたちを助けること」なのかというと、そうではないように、僕は感じる。あたかも、「万人共通のどこかの水準」にまで学力を向上させることが、解決の手段と考えられてしまいそうなことではあるが、そうではない。ただ単純に「点数を上げること」に焦点が当たるのは、「テストの点数が高い子たち」に追いつこうとする行為であり、「塾に行けている子」に近づこうとする行為であり、「塾に行けること」をより羨ましくさせる行為であり、「点数が取れること」を肯定するものになる。たしかに「その面」がないこともないのだろうが、「改善しようとする者」が「そのような目線」でいては、改善した先にも、「みんなのように塾に行けないこと」がかわいそうなことであり続けてしまうし、「勉強ができないこと」が良くないことであり続けてしまう。「それ」では「何も解決していない」も同然である。「学力格差」の問題点を「元気の喪失」に見出すのなら、なおさら不適切な目線である。そこで必要なのは、「塾に行けないこと」をかわいそうだとは思わない目線であり、「勉強ができないこと」を悪いことだとは思わない目線である。「みんなと同じだけの学力」をつけることで解決しようとするのではなく、「塾に行けること」を肯定しながら解決しようとするのではなく、「やや学力が劣っていること」を悪いものではないという考えのもと、「塾に行けないこと」をかわいそうだと思わない考えのもとに、学力を少しづつでも上げようとすることが求められるのではないか、と僕は思う。「無料塾」が「有料塾に行けること」を強く肯定するものであってはなんの問題の解決にもつながらず、「有料塾に行けないこと」をより強く認識させるものであっては、なんの意味もないのである。ただそこに「そうではない」選択肢があり、それによって「生きる元気」をもてるための「学習空間」が「その解決」の役割を果たせるのではないか、というのが、希望も含めた、僕の仮説である。
 「能力」や「好き嫌い」などの違いをもつ人間である以上、「勉強に遅れをとる子」がいることは、極めて自然なことである。そのような子どもたちを「引き上げよう」とするのではなく、「改善しよう」とすることが、求められるのではないか。それは「元気の喪失」を防ぐためのものである。
 単純に「学力格差をなくせばいい」という問題ではないと、僕は思う。
 
58 最も深刻なのは「目標がもてない」こと
 「学力格差」による「元気の喪失」。
 「学力に格差が出ること」はある程度仕方のないことではあっても、それによって各々の「元気」が喪失されるようなことは、「仕方のないこと」ではない。
 この「元気の喪失」に共通することとして、僕がもっとも深刻な状態だと考えるのは、「目標がもてないこと」である。「学力格差」から始まって、それに遅れをとった子どもたちが「目標がもてないこと」によって「元気」がなくなってしまうことである。この場合の「元気の喪失」は「学力格差」それ自体が問題だというよりは、学力格差によって「目標がもてなくなってしまったこと」によるものである。ここに、「学力格差」という現象に対して、向き合うべき問題が隠れていると、僕には思える。「学力格差」に対して「学力格差」としか解釈しないようでは、「学力格差」をより鮮明にする行為ではないだろうか。
 勉強界における「頭がいい」とされる子どもは、その範囲における「次の目標」を立てやすいのではないか、と思われる。「やればできる」や「自分にはできる」という経験が、「目標に向かうこと」を容易にさせ、目標が明確になる分、行動がより具体的になり、「元気を喪失している暇がない」だろう。人間が生きる上で、「目標」がなんらかの活力や活気をもたらしてくれることは、言うまでもない。さらに、「頭がいい」とされる子は、基本的に褒められる機会が多いだろうし、褒める側の周りの大人も、そのような子に対しては「希望の光」を見るかの眼差しであろうと、想像できる。「勉強ができる」ということが「将来の明るさ」を約束するかのように、きっと「おだてられる」。もしくは、強烈なスパルタで「そのような作品を作り上げる」か、であろう。
 一方で、「勉強が苦手」とされる子は、勉強における「目標」をもちにくいと思われる。本来、「目標をもつ」ことで、「自分のやるべきこと」が具体的になり、その「向かっていく時間」が自分を高めてくれるものになるが、そのスタート時点において「目標をもちづらい」となると、「苦手」はより強まってしまう。「苦手」がより強まると、より勉強を遠ざけようとしやすくなるだろう。「苦手」という感情が「苦手」をより強めてしまう、という悪循環である。「自分は苦手」や「やってもできない」という思考が「より苦手」をつくり、「よりできない」をつくる。自分のなかでの「目標」を自由に決めていい状況で、それが、周りに褒められるような優れたものである必要などないはずの状況で、「自分は誰かより苦手だ」という考えが「自らの自由な思考」の邪魔をして、目標を限定的に、いや目標を「もてない」ようにしてしまうことは、非常にもったいないことだと、僕には思える。例えば「次のテストで40点を取りたい!」という目標が、「その人」から生まれたものであるならば、それは「目標」である。何も、誰もが「80点」が目標である必要など、まったくない。そして「80点を目標にできること」が特に「優れている」わけでもない。「40点」を目標にした子が「40点」に向かって頑張ることも、言うまでもなく「立派なこと」である。それが「平均点よりも上か下か」なども、「どうでもいいこと」である。
 ここにあるのは「能力の差」というよりも、「目標の差」である。「能力の差」が「目標の差」を生み、その「目標の差」がさらに「能力の差」をつくり出していると言える。その「二段階目の能力の差」を解決するための「目標の差」である。僕はどんなに頑張ってもウサインボルトよりも速くなることはできないが、ウサインボルトよりも速くある必要は、僕にはない。「僕が速くなればいい」とするならば、「僕の能力」を出発点として、目標を立てて、「速くなろう」とすればいいのである。「最初の能力」は「個性」を伴うものである。
 「目標がもてない」となると、「やること」に具体性が出てこない。「やることに具体性がない」となると、何から手をつけたらいいか分かりにくく、その状態が続けば続くほど、おそらく勉強は進まない。勉強を「進められる子」がいる一方で、「進められない子」がいるのなら、当然のことながら、「差」が開くだろう。もしそれが「先天的な能力」が出発点なら、よりその「先天的な能力次第」になる。「それがあるのかないのか」によって、学力は決定し、進路が決められ、人生が決められる、といっても不自然ではない。「人にはそれぞれ個性がある」と謳いながら、個性を「差」とする社会、と言えるだろう。そうであるなら、「背の高さで人生を決める」に似た、非常に冷酷なもの、である。
 人が先天的にもつ能力は、「その人」が抗うことのできないものである。誰もが、自身のもつ「生まれ持ったもの」をもたずして、生きていくことは不可能である。その点で、人間は「平等」である。「どのような能力をもっているか」が平等なのではなく、「それぞれが生まれもった能力には抗えない」という点で、平等である。それは仕方のないことなので、受け入れる以外に方法はない。それを受け入れずして、突破しようとすることには、無理があり、それはおそらく「解決しないもの」であろう。つまり「学力を皆で足並みを揃えること」はそもそも不可能なことであり、仮に「そうなった」としても何かを解決するものにはならないのである。もしそうなったのなら、「人間が違いをもたなくなった」ことの裏返しであり、果たしてそれは「人間」なのか、「機械」なのか、極めて微妙なところである。「違う」ということを受け入れるところから、「人間」は始まる、と僕は思っている。
 学力の格差を埋めることが、必ずしも問題の解決につながらない、というのは、そのようなことである。「それ」に焦点を当てるだけでは、「人間の違い」を無視しかねない。人間が人間のことを「善意で無視する」ことほど、本末転倒なことはない。それでは、自分たちの首を自分たちで絞めているようなものである。
 その点で「目標がもてないこと」は大きな「格差」である。「目標がもてなくなってしまっている」ということがあるとするなら、大きな問題である。「目標がもてない」とは「先天的な能力に頼るしかない」という点で、格差をより強調するものとなる。反対に、「目標」さえみつかれば、向かう方向が明確になり、「向かうこと」ができるであろう。テストの点数が高かろうが、低かろうが、頭がいいと言われようが言われまいが、それは「今日の天気が晴れか雨か」という程度の問題で、そんなことよりも、そんなことの「差」よりも、それぞれがそれぞれに「好きなところ」に向かっていけばいいのである。子どもたちは「好きにできる」ことを忘れず、それに携わる大人たちは「好きにできる」スペースを与えてあげてはどうだろうか。もちろん、ここにおける「好きにする」とは「好き勝手やりたいことをやらせる」ということではなく、「自由に目標を決めていいこと」を子どもたちは忘れず、大人たちは教えてあげる、ということである。「学力格差」に隠れる問題は、「学力格差」それ自体ではなく、それによる「元気の喪失」である。「元気の喪失」を防ぐためには「目標をもつ」ということではないだろうか。

59「目標をもつこと」に格差は生じえない
 個々人がもつ「目標」は違って当然である。その「違い」がときに「差」のように見えてしまうことはあるだろう。たとえば、勉強に関していうと「東大に行くこと」を目標に頑張る人と、「大学に進学すること」を目標に頑張る人では、前者が優れているように見えないこともないと、思われる。そして前者を「優れている人」と表現する大人も、おそらくいる。それが本当に優れているのかどうかは、僕には分からない。僕には「たまたまそういう能力をもって生まれた」だけではないかと、思える。
 ただ、「目標をもつ」ことに関しては、格差はない。「目標をもっているのか、いないのか」という違いがあるだけであり、「もっている」という点で「同じ」と言える。もしかしたら、「目標」に違いがあり、それが「格差」と表現されることもあるのかもしれないが、「目標をもっているのか、いないのか」ということだけで考えるのなら、「目標をもっている」ことに格差は生まれないだろう。「それ」をもってさえいれば、そこに「差」はない。「私は目標がある、あなたも目標がある」という並列である。
 「目標」とは、個々人のものである。「目標」とは各自のものである。自分が目指すもの、自分にとっての標となるものが「目標」であり、誰かが目指すもの、誰かにとっての標となるものが、自分の目標となることはない。「あなたの目標が私の目標だ」という文の違和感は、おそらく誰もが感じてくれるはずである。「目標」とはそういうものである。誰かのアドバイスによって定まることはあっても、それを受けて「自分」が定めるものであり、それが「目標」となるときは「自分」がそうだと認識したときだろうと、思われる。目標は「誰かによって決めてもらうもの」ではない。
 つまり、目標は、自分で好きなように、自由に決めていいものである。「目標をもつこと」に権利も要らなければ、制限もない。それをどれほどの確率で実現できそうなのかによって、「本気の目標」なのか、「自由に決めすぎた目標」なのかの違いはあれど、そこも含めて「自由」である。どう考えても達成しえないようにしか思えない「目標」を「自分の目標」と認識することの難しさは、多少あるだろうが、それが何かによって禁止されているわけではない。「個人の裁量」で「自由に」決められるのが「目標」である。僕が「オリンピックで金メダルを取ること」を目標にしても、何も問題がないほどに、「自由」である。
 「自由」にもてるものであるならば、自由にもつべきである。もしそれでも「もてない」としたら、「目標を定められない」原因が何かあると思われ、それは「目標などもつに足らない」と考えているか、「目標なんかどうせ達成できない」と考えているか、言い換えると、「悟り」や「諦め」のどちらかが感情の大半を占めているのだろう。投げやりの感情も、考えられる。「目標をもたない」という目標を立てて、何の変化を望まない、という姿勢もあるかもしれない。
 「目標」がもてないとなると、具体的な行動が伴いづらく、「勉強」においては「停滞」がはじまる、と思われる。そして、この「停滞」がいき過ぎることによる「元気の喪失」が、僕が思う、「学力格差の問題」である。「学力格差」それ自体というよりは、「学力格差による自己否定」ともいえる精神状態につながってしまうことである。「子どもたち」の精神力は、そこまで強いものではない。
 「勉強」は自分ごとであり、自分のできないことを解決する時間であるため、「目標をもつ」ということと非常に似た過程をもつ。「自分のできないことを解決すること」と「自由に定めることができる目標」の相性は抜群である。それが「他人に勝ちたい」とか「偉さを示したい」とかいう動機の「勉強」ではそうもいかないだろうが、「自分のため」に勉強をするのなら、おそらく「目標」はもちやすい。「これをできるようにする」でもいいし、「毎日2時間勉強をする」でもいいし、「テストで何点をとる」でもいいし、「明日までにこれを終わらせる」でもいい。自分ができないことをできるようにするために、短期的でも、長期的でも、何らかの目標が立てられれば、それがないよりは勉強は進んでいくだろう。
 「学力」が生む「格差」の問題は、「目標がもてる子と、もてない子」の格差であり、「もてない子」に想定される「元気の喪失」である。「学力」による自己否定、たまたま、やや苦手に生まれてきたことによる生きづらさの解消が必要ではないか、と僕は考える。そもそも「勉強」が自分ごとであり、自分のできないことをできるようにする時間であることを考えると、「もちたい」という意志さえあれば、勉強における目標を立てることは、不可能ではないはずだと、僕は思う。「目標をもつ」とは、「誰かに制限されること」ではない、「自分次第」ではないだろうか。

60目標は「自分の居場所」をつくってくれる
 目標は「自分の居場所」をつくる。「自分の居場所」といっても、もちろん物理的な「場所」を確保できるということではなく、「自分の心のなか」に、居場所を感じることができる、ということである。「自分はこれに向かっている」という明確さが、ある種の精神安定剤のような役割を果たしてくれる。「目標」というと何だか格式高い、周りの人から称賛されるようなもののようであるが、そのように目標を拡大させてしまうと、「なかなか見つからないもの」となってしまい、誰もがもてるはずのものも、「誰ももてないもの」に変わってしまう。そうではなく、自分のなかで「こうなったらいいな」や「こうなりたいな」程度のものでいいのである。それを見つけて、それに向かう。ただそれだけである。毎日のなかに「それ」に向かう時間をつくり、行動をし、向かっていく。簡単な言葉にすると、「目標に向かって一生懸命になる」ということになるだろう。
 これは「勉強」に限ったことではない。勉強でなくても、同様である。「この試合で勝ちたい」や「あの発表会を乗り切りたい」といった目標が、頑張る理由になり、生きる原動力になり、目的地を明確にしてくれるだろう。それが「自分の居場所」となる。
 「自分の居場所」というと何だか綺麗事のようであるが、「自分が何に向かっているのか分からない」ほどに「自分の居場所」を感じられないことはない。ただ、「勉強」においては「何に向かっているのか分からない」という状況が生じやすいだろうと、思われる。特に向かう方向もなく、言われたからただやっているだけでは、テストの点数を他人と比較したり、誰が頭が良くて、誰が頭が良くないかを比べあったり、勝ち負けを競う勉強に終始したりと、「浮遊したもの」になるだろう。「浮遊した勉強」を楽しめれば楽しんでいただいていいのだが、それはきっと、楽しくない。それが楽しいときは、「勉強を楽しんでいる」というよりも、「勝つことの快感」を味わっているとき、つまりそれはジャンケンで勝ち続けることでも十分代わりのきく、「楽しさ」であろう。そしておそらく「負けたとき」にはつまらなくなる。そんなものである。
 「自分の居場所」は「自分に関係のないところ」ではおそらく見つからない。僕はマラソンが大の苦手であったため、マラソン大会で一つでも上の順位を取りたいと思っている方々の集団のなかに「居場所」はまったくなかった。僕は「走り切れればそれでいい」と考えるタイプであり、それがマラソン大会における、僕の居場所であった。「とりあえず終える」という居場所である。なぜ「上位を目指す集団」のなかには僕の居場所がなかったのかというと、「僕は関係がないから」である。「上位に入る」という点でまったく関係がない。自分に関係がなくなると、「そこ」にいる必要はなく、いる必要がないということはもちろん居場所などあるはずがない。もし、入れてもらえたとしても、申し訳なさでいっぱいであり、気まずくて仕方がない。「いい順位を取りたい」とまったく思っていないところで、「いい順位を取りたい方々」と肩を並べて話をすることなど、僕にはできそうもない。「自分には関係のないところ」に「自分の居場所」などないのである。
 そのように考えると、「勉強」に関して、居場所を見つけられないという方がいるとしたら、おそらく勉強が「自分に関係のないこと」になっていると想像できる。赤の他人しかいない集団の中で自分の居場所を確保することが難しいのと、同じである。その「勉強が自分に関係なくなるとき」というのは、本来「ない」はずではあるが、何らかの理由で、「関係のないこと」になる人がいても、不自然ではない。
 ただ、「勉強」は「自分の居場所」を見つけるのが非常に容易なものであると、僕は思う。「自分ができないこと、分からないこと」に焦点を当てた途端に、「それを解決する」という目標が定まり、それが「居場所」となる。「それを解決すること」という非常に短い単位の時間にそれを見出すことが難しいのなら、「次のテストで個人的に何点をとったら嬉しくなりそうか」という少し期間を設けた目標を設定することも、可能である。それが定まれば、少なくとも「そこまで」の間は「自分の居場所」を確保できる。目標は何でもいいのである。それによって「自分」に焦点が当たることが大切であり、それによって「自分にはやることがある」と認識することが大切であり、それによって「今日」を感じることが大切であり、それによって一生懸命になって疲れ果ててぐっすり眠ることが大切なのである。「どうしていいのか分からない」や「何をしたらいいのか分からない」苦痛といったら、この上ない。
 「勉強」は「目標」を定めやすい一方で、「学力格差」によって「目標をもちづらくする」側面もあるだろう。学力格差、つまり「自分は学力で劣っている」という認識を生むきっかけとなる「格差」は、目標をもつことを必要以上に難しくしてしまうことがあるように、思える。たしかに「自分はだめだ」と思う領域において「居場所」をつくろうとすることは、非常に難しいことである。まして、学力が競われる今のシステムの中で、「競わずに勉強をする」ことの難しさは、たしかにあるだろう。「競うものではない」といいながら、競うことを前提としているのが「勉強」である。
 そんなジレンマをかかえた学習環境で、どのようにして各自が目標をもてるようにするか。これは学力格差を考える上では避けて通れないものである。

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