0円教育物語⑪ 一人の勉強、一人で勉強、楽しい勉強、楽しむ勉強。

51僕の順序
 「当たり前でないことを当たり前にする勉強」をもう少し具体的にしてみたい。
 先ほどの「社会」の続きでいうと、まず、学校で配られるようなワークや、インターネットから問題を引っ張ってきて、ひとまずやってみる。当然、全然できない。間違えたとこと、わからなかったところはチェックをしておいてもう一回やり直す。またやり直して、もう一回。全部しっかりと「その問題は」答えられるようになるまで、繰り返す。同じ単元の問題を何回か繰り返してやって、また同じ単元の別の問題もやってみることで「似た問題ばかり」なことに、気が付く。何の知識もなくとも、「また同じ」だということに気がつければ、さすがにできるようにはなってくる。ここでひとつの「当たり前」ができる。問題を繰り返しやってみたことで生まれた「当たり前」である。「当たり前
をつくる時間」である。
 問題をやってみたら、教科書を読んでみる。ノートを見てみる。教科書を音読したり、ノートをパラパラとめくってみると、ちょっとした流れを掴むことができる。完全にストーリーを理解できなくとも、意外にも「そういうことだったんだ」という発見があるものである。ただ教科書を読んだり、ノートを見たりではなかなか身が入らないかもしれないが、ひととおり、問題をやって、頭に入った「当たり前」があると、その見え方も、変わってくる。そして、「よりしっかりと覚えたいもの」をしっかりと覚える。何度も何度も声に出してみたり、書いてみたりして、覚える。手間のかかる作業にはなるが、それが「当たり前をつくる」という時間である。
 僕はこのような過程が、「できるようになるには」必要だったので、「これ」をやらなければ、当然できず、「これ」をやればそれなりにはできた記憶がある。「社会」のことを全然わかっていなくとも、「わかること」を増やすことで、わかるようになっていく。テストの点数が低かったときは、僕が「バカになったとき」ではなく、ただただ「これらをやらなかったとき」である。やることをやらなくてはならないのが、凡人である。
 数学も、同様である。公式を与えられるだけでは、何の問題も解くことはできず、「見たことのあるもの」しか解けない僕は、「見たことのあるもの」を増やす必要がある。教科書の最初の問題から、徐々にやっていって、理解できないところがあれば、次の日誰かに聞きにいく。そして、理解する。理解をしたら、次に行く。わからないところがあったら、またまた誰かに聞きに行く。「先生」がおそらく手っ取り早い。そして、これを繰り返す。まさに「できないまま」にしない戦略である。ここでも「できないままにしていないか」が僕にとっては大事なことで、「できない人間」が「できないまま」にしておけば、当然、できない。「それ」をやったかどうかが、つまり「その過程を通ったか」が「僕の数学」では問われていた、と今では思っている。「その過程を通ったか否か」が「テストの点数」に表れる。僕にとって「テストの点数」は「過程の結果」である。「できない人」はより強く「過程」が反映されるのではないか、と思われる。「できる人」はきっと、いつでもできる。
 英語のテストの準備も同様である。僕の場合、英語のテストにおける最大の準備は、「音読」であった。とにかく、テストの範囲になっている箇所の英文はすべて音読を繰り返しておかないと、まったくできない英語力である。そうであるならば、計画を立てて、繰り返し音読をする余裕をもっておかなくてはならない。「それ」なしにテストに臨むのは、裸で街に出るようなものである。ちなみに何度か、裸で街に出てみた。当然、できなかった。そんなもんである。もちろん、僕が言う「できた」は、大したものではない。80点後半がいいところである。でも、僕はそもそも50点くらいの英語力なので、練習の成果としては十分である。「その練習をすること」が僕には必要な過程であった。その過程を経ずして当日を迎えたときは、予想するまでもなく、結果はみえている。僕にとっての「テスト」は「頭がいいかどうか」を測定するものではなく、「準備をしたかどうか」を測るものであった。再び「テスト」が必要になって、それに「向かう気」が生まれたなら、また「準備」が始まる。「準備」をしなくては、何もできない人間である。
 「勉強のやり方」は自由である。自分で決めていい。自分が納得するような方法で、納得するだけやればいいのである。納得する準備をすれば、それなりに満足のいく点数が取れるのではないか、と僕は想像する。そして「満足いく点数」が取れなかったのなら、きっと「納得する準備ができていないのではないか」と思われる。もちろん「あなた」が納得すればいいだけであって、「誰か」に納得してもらう必要も、「誰か」に認めてもらおうとする必要もない。自分で目標を立てて、それに近づくために、「準備」をする。ただ「その過程」を味わえばいいのである。僕は自分で「勉強ができた」とは思っていないし、そのような記憶もまったくないが、「自分なりに」準備した時間があるのは覚えている。ここでは、その紹介をさせてもらった。僕の方法を参考にする必要などまったくなく、参考になることもきっとない。ただ、「できないことも悪くない」ということを少しでも感じていただけていたら、幸いである。「できない人なりに勉強をする」のも、それなりに面白いものである。

52僕は一人で勉強するのが好きだった
 僕は、一人で勉強するのが好きであった。もちろん、今もである。
 「勉強」は「自分のできないこと」を解決するための時間なので、「誰かと一緒に」やる必要性を、僕はまったく感じない。友だちと仲良くすることよりも、話をして盛り上がることよりも、「自分のできないことを解決する」ことのほうが、優先である。あくまでも「勉強をする時間は」である。
 もしかしたら、勉強をするよりも、誰かと一緒にいたり、誰かと一緒に遊んだり、話をしたりしたほうが「楽しい」と感じる方もいるのかもしれないが、「一人で勉強をする」ということが、僕にとってはこの上なく「楽しいこと」である。わいわいがやがや、飛び跳ねたくなるような「楽しさ」ではおそらくなく、「たしかに進んでいる」ことをかみしめる楽しさ、である。僕は決して「勉強好き」という感はないが、「勉強をする」のなら、一人で集中して、勝手に静かにやるのが好きである。勉強の時間を楽しむ方法が「一人でやる」ことなのだろうと思われる。どんなに楽しい遊びができたとしても、「やるべきこと」をやらずして「それ」を心の底から楽しむことは、できない性分である。「勉強をする」とは決して楽しい行為ではないけれど、「勉強を適当にやる」ということは、「勉強をやらない」ということは、「できないことをそのままにしておく」ということは、もっと楽しくないことだと、僕は感じている。「楽しくないけど、楽しいこと」と言えるかもしれない。つまり「現実逃避の楽しさ」はまったくいらないのである。
 これがきっと、「個人的な楽しみ」と言えるのだろう。誰かに伝わるものとしての「楽しみ」ではなく、「自分の世界」で「自分だけ」で楽しむ。「できないことだらけの自分」を「自分の時間」を使うことで、少し前に進めてみようとする作業を楽しむ。自分が楽しさを「もらおう」とするのではなく、自ら「楽しい」のなかに入っていく。それは美しく見えるような楽しさとか、輝いて見えるような楽しさとか、楽しそうな楽しさではまったくなく、むしろ土の中にいる楽しさであり、楽しくなさそうな楽しさである。多少のストレスを感じながらも、それを感じることを楽しむ時間。「面倒だな」と思っても「面倒なこと」から目を逸らすことほど面倒なことはないという姿勢。面倒なことと向き合う楽しさ。言葉にするのは非常に難しいが、純粋に「自分の問題を、自分で解決する過程」を「楽しい」と感じている、ということである。もちろんこれは「苦しみに興奮しよう!」というものではない。
 勉強のやり方は人それぞれだろうと思われ、それで何ら問題はないのだが、「勉強」はみんなでがやがややる必要は、おそらくない。ときに「教え合うこと」の効果を聞くことがあるが、それは「各自それぞれ学んでから」のことであろう。「こうかな?ああかな?」と言い合いながら、「考えている風」な勉強では、おそらくきっと、身につかない。「身につける」とはもう少し「静かな作業」である。「一緒に勉強をしよう」という時点で、「自分のこと」に集中する姿勢が、足りていないように、僕には思える。自分がつまずいているところを、自分で解決しようとして、「もしかしたらこうかな?」と仮説を立てながら、「コツ」を発見したときの喜びや、「コツ」に気がついたときの興奮は、「誰かとおしゃべり」するよりも、数倍楽しいはずである。そしてそのとき、「自分ごと」の勉強が始まる。「自分の問題」を解決しようとする姿勢を持った「勉強」が始まる。
 勉強に関しては、とことん、「個人的」になってはいかがであろうか。「個人的な勉強」は非常に面白いものである。

53一人で勉強することのいいところ
 一人で勉強することのいいところは、まず「自分がやらなければ進まない」点である。学校の授業に代表される、「みんなで勉強」をすると、たとえ「自分」が理解しなくても、先に進んでいく。学校だと「時間」で区切られているため、「自分が理解したかどうか」よりも「その時間が経過したかどうか」で勉強が区切られる。たしかに、「みんな」がいる環境で、一人一人に気を配りすぎていたら、運営に苦しむだろうと、思われる。運営の観点だけではないのだろうが、「みんな」で一緒にやっている以上、「ここからここまでの時間」で勉強を区切らざるを得ない。「どれだけ理解できたか」よりも、「どれだけ頑張ったか」よりも、「どれだけ身についたか」よりも、「時間が経過すること」が、その勉強の終わりを意味する。「たとえ理解していなくても、時間さえ経過してしまえば、終わるもの」という「他人事の勉強」では、残念ながら、「勉強」ではない。「勉強っぽいこと」ではあるが、そして、なかにはそれを「勉強」と錯覚してしまう方々もいらっしゃるかもしれないが、椅子に座って、話を聞いているだけでは「勉強」ではない。「みんなでの勉強」では、簡単に「勉強っぽいこと」が成立してしまうが、「一人の勉強」ではそうはいかない。自分が「やろう」と思い立って、実際にやってみて、考えてみて、理解しようとしてみて、繰り返しやってみて、理解し、できるようになったときに、「その勉強」が一区切りとなる。「一人で勉強をする」となると、「そこまで」やらなくては完結しない。「一人で椅子に座っているだけ」では、どれほどの時間が経過しても、何も始まらず、何も終わらない。そのような「ごまかし」がきかないのが、「一人で勉強すること」のいいところである。そして「その時間」は、つまり、「自ら何かをできるようにしようとする時間」というのは、この上なく意義深い。たとえ進度が早かろうが遅かろうが、「勉強」と言える。
 それと共通することではあるが、「自分の問題を認識できる」ということも、ひとつの良さである。勉強をしていると、「苦手なこと」と遭遇する。ただその「苦手なこと」を解決するためには、「その一歩前」に一度戻って、「そこをできるようにしてから」である場合が多い。このような「どこに自分がつまずいているポイントがあるのか」を自ら見つけるには、自ら探さなくてはならない。そして「それ」を見つけない限り、「進んでも進んでも進まない」といった状況になるだろうと、思われる。これを「みんなで」やっていると、「うやむやなまま」にできてしまうことであるが、「一人」だと、見つけないことには、何も始まらない。「それを解決すること」も勉強であるが、「それを見つけること」もまた、勉強である。一人になったときに、どうやって勉強したらいいかわからない、という状況になるのなら、それはおそらく、「自分の解決すべきことが把握できていないとき」だろう。「自分の問題」を明確にするのに「一人で勉強すること」は役に立つ。「適当に、なんとなく勉強をしない」ための、処方箋とも言うことができる。
 では「みんなで勉強すること」が必ずしも良くないのかというと、まったくそんなことはない。「はじめて教わること」に関しては、みんなで学んだ方が、効率の面からも、いい。みんなが知らないこと、みんなが分からないことならば、「みんなが知識や考え方を享受する時間」が必要である。どうせ「説明を受ける」のであれば、一人で受けようが、みんなで受けようが、それほどの違いはない。それならば、みんなで受けてしまった方が、人手の面からも少なくて済む。そして、「みんなで考える」ことで誰かのひらめきが他の誰かに良い影響をもたらすことだって、考えられる。「学び始め」を皆が揃えることで、平等な学習空間をつくることができ、平等に教わる時間を手にできる、という点が、「みんなで勉強をする」メリットである。「その時間」を経ることで、それぞれの勉強を進めていくことが可能になる。「自分ごとの勉強」に到達するための「みんなで勉強」の時間である。

54「やらないこと」が最もつまらないことである
 勉強が「自分ごと」になると、勉強は「やらないこと」が最もつまらないことになる。勉強よりも楽しいと感じやすいものはもちろんあっても、「勉強をやらなくなること」ほどつまらないことはない、と感じるようになる。「やらない」選択をするとは、今日も、明日も、明後日も、勉強に関して「変化しない」ことを選ぶ、ということである。この「変化しないだろう時間を過ごして、変化のなさを受け入れる」ことの苦痛といったら、他にはないものである。「時間の経過」とともに「その経過」を実感できない「自身の変化のなさ」は、この上なく苦痛である。その「今日なにも進まないこと」にストレスを感じるようになったら、それは、勉強が自分ごとになりつつあるサインではないか、と僕は感じる。
 「勉強をやらないこと」にそれほどの苦痛を覚えないということは、勉強が「自分ごと」にはなっていないことの裏返しではないかと、思われる。または勉強に関して「できないこと」がまったくなく、「なぜ練習をする必要があるのか」と疑問を持つほどの方だろうと、思われる。勉強は「誰かがやるもの」であり、「自分はやる必要がない」と感じているときに、おそらく「やらないこと」をなんとも思わなくなるのだろう。そもそも「自分の時間を勉強に使う」という概念すらおもちでない方もいらっしゃるかもしれない。
 僕は「勉強」は「やりたい」のなら、誰もがやれるようにするべきであるという考えであり、「やりたくてもできない」という状況はあってはならないと考えているので、それが役に立てるのかどうかは分からないが、「無料塾」を始めてみた。もし、「やりたいのにできない」という方がいらっしゃるのなら、それはきっと「やらないこと」に苦痛を感じているだろうと、想像する。当たり前にできる環境にある人たちがいる一方で「そうではない自分」に感じる不平等さや、「やらされている人」に対する怒りのような感情は、「やらないこと」を苦痛に思う僕も、なんとなくではあるが、理解ができる。そしてそこには的確に、適切に、支援がなされるべきである。
 なぜ「やらないこと」がつまらなく感じるのか。それは「変化」をイメージできないからである。時間が積み重なっていった先に、「こうなっているかもしれない」というワクワク感を感じることができない。それは「確かに変化するのかどうか」が明確ではないからこそ、自らへの「もしかしたら」の期待感と、「その期待感を抱き続けたい」という思いが原動力となって、時間を重ねていこうとするものであるが、「それ」を体感することができない。もちろん「変化」を実感することもできない。「自分の変化」がそこまで面白く、楽しいものなのか、と問われてしまえば、それはそれまでなのだが、「変化したい」と思う者にとっては「変化できるかもしれない」という時間はこの上なく楽しいものである。それは「これこれが食べたい!」や「どこそこへ行きたい!」や「あれそれが欲しい!」といった感情に似た、「こうなりたい!」を原動力にしたものである。「食べたい」のなら、食べること、「行きたい」のなら、行くこと。「欲しい」のなら買うことが、感情を満たすものならば、「こうなりたい」に対しては「それに向かう」ことが、感情を満たすのである。「こうなりたい」つまり「自分の理想」に近づこうとするときには、「こうなる」ために多少ストレスを抱えるようなこともしないといけないことはたしかだが、「こうなる」ためには「そのストレス」さえ、楽しく感じてしまうのである。
 「勉強」はこれっぽっちも「楽しい」ものではない。ただ「あなた」が勉強を「楽しいものにする」ことはきっとできる。勉強をすることで「自分はどうなりたいか」をイメージしてみることが、そのヒントである。
 誰であっても、「自分はこうなりたい!」と何かを発見したときに、おそらくなんらかの「勉強」が必要になる。「こうなりたい!」と思えることに出会えるまで、勉強を「やらないでみる」ことも、もしかしたら有益かもしれない。そしてそのとき、「何もしないでいること」は、きっと「苦痛なもの」になるだろうと、思われる。

55「楽しい」イメージと「楽しくない」イメージ
 勉強は「イメージ」によって楽しくなるのである。「こうなったらいい」というイメージ、そして「そのなか」に身をおいている実感が、勉強を楽しいものにする。「勉強」それ自体は楽しいものである必要など、まったくなく、「勉強をすること」に「楽しいイメージ」をもてさえすれば、それでいいのである。
 ただ、そうはいっても、勉強に対して「楽しくないイメージ」しかもてない方もいるだろう。それが悪いことかというと、そうではなく、「勉強」を「それ自体」として捉えているだけではないかと、思われる。「勉強」を「勉強という作業」として捉えている方である。
 勉強をすることによってひらかれる、なんらかのイメージが持てないと、「勉強」は文字通り、つまらないものになるだろう。「勉強」とは決して楽しいものではなく、どちらかというと、椅子に座り続けたり、鉛筆を持ち続けたり、興味のないことを無理矢理やらなくてはならなかったりと、苦痛を伴うものである。人間にとって、決して「楽しいようにはできていない」のが「勉強」である。それをダイレクトに受け止めようとすると、「楽しくないイメージ」しか湧かないだろう。「楽しくないイメージ」が備わった「勉強」ほど、苦痛で、楽しくないものはない。
 では、勉強に対して、「楽しいイメージ」を持つために必要なことは何であろうか。それはおそらく、言葉にすると「目標」である。何を目標として勉強をするのか、によって、勉強は「楽しいもの」になり得る。「目標」は何でもいい。
 「目標を達成すること」は誰にとっても、気持ちのいいものだろうと、思われる。もしかしたら、「目標なんか達成したくない」という天邪鬼のような方もいるかもしれないが、それはきっと、天邪鬼である。または、これまでに、自分で目標を立てて、それを達成した経験がないために、「自分は目標なんか達成できない」とやる前から諦めモードに入ってしまっている方も、いるかもしれない。ただここでは、「目標を達成すること」は基本的には愉快なものだ、という仮説のもとに、話を進めたい。
 「目標を達成すること」が愉快なことならば、「目標に向かう時間」は愉快なものになるだろう。必ずしも「ずっと愉快」とはいかないまでも、「達成すること」を愉快に思うのなら、「達成するまで」の時間は、ある程度受け入れなくてはならない。その「受け入れる」とは、「仕方なく」ではなく、「喜んで」受け入れるものである。例えば、「プロ野球選手になりたい!」という目標があるのなら、「野球の練習」をそれなりに厳しくハードにやることを、受け入れなくてはならない。それを「仕方なく受け入れている」ようでは相当なガソリン不足である。それでは「本当にそれは目標なのか」が疑わしいものである。「自分が自分の目標を達成すること」が最終的なゴールであり、そのゴールが愉快なものならば、「それに向かっていく時間」は愉快なものであろう。「愉快でない時間」も「愉快な未来」に向かっていくことを実感できるはずである。「毎日1000回素振りをする」という日課も、「野球選手になりたい!」や「今度の試合で絶対ホームランを打ちたい!」といった「目標」があるのかないのかで、解釈のされ方は変わるだろう。「目標」が「1000回の素振り」に色付けをするのである。もっとも、自然に考えて、「理由のない1000回の素振り」はもはや修行である。
 おそらく「1000回の素振り」は「苦痛」であるだろう。ただ、愉快さを伴う苦痛と、愉快さのかけらもない苦痛、という違いがある。そして、その違いを生み出しているのは「目標」だということである。
 「勉強」も同様に考えられる。何らかの目標、つまり「勉強をして、こうなりたい!」という目標が明確であればあるほど、「楽しい」という色付けがされる。「同じもの」であるのに、「違う色」のものになる。そのとき、勉強をすることに対して「楽しいイメージ」が持てていると、言える。
 それを踏まえると、勉強に対して「楽しくないイメージ」しか持てない、ということは、「勉強を通しての目標がない状態」だと、思われる。勉強をしたところで、「何も達成されない状態」である。
 もし、そうであるならば、「勉強をする意義」はたしかにない。それは僕が、野球に携わって生きていくつもりなどまったくないから「1000回の素振り」を日課にしないこと同様である。僕が「1000回の素振り」をすることのメリットとしては、多少の運動不足の解消と、ストレスの発散、そして精神修行ができることだろう。それなら、「1000回の素振り」である必要は、必ずしもない。つまり「別にやらなくてもいいこと」である。
 そのような観点から、「楽しいイメージ」がもてない、つまり「目標がない」のなら、無理をして勉強をする必要などない、とも言える。そして、おそらく「そのような状態」で勉強をやっても、あまりいいことはないようにも思われる。「やった」ところで、「満たされるもの」がないのなら、やらない方が、賢明かもしれない。どこか「勉強」というと「やること」自体が美化されるが、目標のないことを無理してやることの苦痛を考えても、「結果何も達成されない」ことを考えても、決して健康的なものではない。目標をイメージできないにもかかわらず、「目標をもて!」というのも、無理がある。もしかしたら、「目標がない」ということは「やる必要がない」ということかもしれない。無責任に「勉強はやらなくていい」とも言えないが、無理矢理「勉強をしろ!」ということも、また違うように、僕には思える。
 「勉強をしたら、どうなるか」を一度考えてみることは、良いきっかけとなるかもしれない。それを考えてみて、「やってみたい」と思うのならやってみて、「必要ない」と思うのなら、やらないでみる。どちらが正解でどちらが間違いで、ということではない。いずれにせよ、何らかの「目標」が見つかって、その「目標」を「達成したい」と思うに至ったときには、「達成できていない状態」で「達成する未来」に向かっていかなくてはならず、つまりそれは「できていないことをできるようにする」ものであり、「できないものをできるようにする」という点で、勉強と似たプロセスを通過していかなくてはならない、のである。「どんな目標を持つのか」が唯一の違いである。

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