0円教育物語③ 楽しくないことを楽しいことと解釈してみる。

11受験に落ちても「やってきた時間」はなくならない
 もう少し「受験に落ちる」ということを想定してみたい。受験をすれば、受かる可能性も、落ちる可能性も、「つきもの」である。
 「受験に落ちる」とは、「全部が台無しになること」なのだろうか。「ダメなやつ」と認定されることなのだろうか。
 それは「それぞれの感じ方」だとしても、「受験に向かう過程がなくなることはない」と言える。無駄のように見えるものも、「無駄だったのかもしれない」と思えるということは、何かしらの痕跡を感じるからであり、何かしらの痕跡を感じることなく「これは無駄なのか」という発想は、生まれえない。何かしらの痕跡もないならば、「無駄」かどうかではなく、「何もない」わけで、「何かある」がそれが「何だったのか」いまひとつ「現段階では」見出せないものを「もっている」ときに、はじめて「無駄だったのかもしれない」という思考が生まれる。「もっていない鉛筆」を「うまく使えてないのではないか」と悩むことなど、ない。それは「うまく使えていない」のではなくて「もっていない」のである。
 つまり、仮に「無駄」に見えて仕方がないかもしれない「過程」であっても、それは存在していて、何かによって「なくなる」ということはないと言える。もし「それは無駄だった」と決定し得る出来事に遭遇したとしても、「無駄」が発生している時点で、「何か」が生まれ、「何か」が残っている。「過去の時間」を操作することができないのが、残念なことか、ありがたいことか、「無駄を生む」とも言える。
 もし同じ「不合格」という結果であったとしても、その「残った何か」によって、解釈は変わり得る。例えば、「これ以上ないほどに自分はやり切れた!」という思いが残ったのであればそれ特有の、「後悔」が残ったのであれば、それは「まだ余力があったのかもしれない」ことに気がつく機会になり、「あまり頑張れなかった」記憶が残ったのなら、「頑張り方」を見直す機会となるかもしれず、「後悔を生まない過程」の作り方を見つける出発点になるかもしれない。「何が残るか」は「自分のこれまで次第」とも言えるだろう。
 そのように考えると、もちろん「結果を得る」という体験、「結果を得られなかった」という体験の場として「受験」があるとも思えるが、それ以上に「自分で操作できる範囲にある、自分の意志と自分の行動」に焦点を当てる体験ができる場が「受験」ではないだろうか。受かるかもしれず、落ちるかもしれないが、そしてそれは「自分」では必ずしもコントロールできないが、ただ「合格に向かう」という「自分の意志」や、「合格に向かうため」の「自分の行動」はコントロールができる。それを学ぶ機会。それを練習する機会。「その試験」に自分が得意とする問題が出されるのか、自分が苦手とする問題が出されるのか、たまたまできる問題ばかりが出されるのか、運悪く、できない問題ばかりが出されるのか、といった「合否を必ずしも操作できない要素」が多いなかで、苦手な問題を克服しようとしたり、運悪くできなかったという可能性を極力減らそうとしたりする、「今日できなかった問題を、逃すことなく、それが出されたときに必ずできるようにしておく姿勢」を練習する機会。たとえ「合否」が思うような結果とならなくても、「それまでの過程」で培うべき「姿勢」は、永遠と「自分でコントロールをするもの」であり続けるのである。少なくとも「受験」は「学生の時間」の「ある地点」であることは間違いない。
 受験をすれば「結果」が残る。「やってきた時間」が残る。これらの「残ったもの」をもとに、また次の目的地に向かおうとすれば、「受験」が一つの「練習」となる。練習の成果を「次の過程」に反映させることさえできれば、受験は、ただの「練習」である。子どもの時間、学生の時間に与えられた「一つの練習の場」が受験ではないだろうか。だから、僕は受験で合格するために、「受験のために」無料塾をやるつもりは、まったくない。ただ、無料塾を通して「受験を頑張りたい子」を応援する気は、先にも述べたがマンマンである。
 簡単な言葉にしてしまえば、「受験なんて、合格しようが合格しまいが、何でもいい」のである。「その結果」なんて、風向きひとつで変わってしまうもので、私たちが生活をしているなかで、そこまで「風向き」が気にならないのと同様に、「受験なんてそんなもん」なのである。受験に成功したから人生が良くなるとか、受験に失敗したら人生が暗くなるなんてことが、もしあるとするなら、それはおそらく「幻想」だろう、と僕には思える。「うまくいったら」とか「失敗したら」なんていうことよりも、そんな「天気」のようなもので楽しむよりも、「何をして楽しむか」を考えて、「それ」をして、たしかに楽しんだほうが、より楽しそうではないだろうか。

12勉強は「自分が」やるもの
 勉強は誰がやるものだろうか。もちろん、「自分」である。勉強は「自分が」やるものである。当たり前といえば、当たり前である。
 残念ながら、「自分以外の誰か」が自分の勉強をすることはできない。「宿題」を誰か他の人にやってもらうことはできても、「勉強」をやってもらうことはできない。もし、「自分以外」の誰かが勉強をするなら、それは「その人」の勉強であり、「あなた」の勉強ではない。勉強とは中身も行為も、「あなた」のものである。
 つまり、「勉強」とは「経験」とも言えるだろう。「経験」は「あなたがやったこと」から生まれる。あなたがやっていないことのなかに、あなたの経験は生まれない。これまた、当たり前といえば、当たり前である。
 「自分がやる」というのは、極めてシンプルなことである。自分でノートを開いたり、教科書を読んだり、鉛筆をもったり、手を動かしたり、声に出したり、といった行為によってシンプルに成立する。今の時代、タブレットを使うこともあるだろうが、それも同様である。「誰かに何かをやってもらう」というのは、少なくとも「自分が勉強をする」ということに関しては成立し得ない。「自分がやらない」ことには、何も始まらないのが、勉強である。
 もちろんこれは、「勉強は全部一人でやるもの」だということではない。学校で先生に教えてもらうことも、友だちに教えてもらうことも、また友だちに教えてあげることも、誰かにアドバイスをもらうことも、それはそれで「勉強」ではある。その前提として、「自分が」勉強をしようとする気概のことを、「勉強は自分がやるもの」と表現をしている。
 見方を変えると、「勉強をしよう」とした時点で、勉強ははじまる、とも言える。たとえ1時間集中してやらずとも、3時間もやらずとも、難しい問題をやらずとも、人に自慢したくなるような解法を見出さなくとも、「勉強」ははじまる。自分でペンをもってみよう、自分でノートを開いてみよう、自分で教科書を読んでみようとするだけでも、「自分でやる意志をもっている」時点で、勉強はスタートする。この「自分が勉強をしようと思って動こうとする」ことがはじまりで、はじめてしまえば「経験」ができる。ものすごい簡単なことのようにも思われる。
 僕は、「勉強にやり方はない」と感じている。「勉強はこうやってやるもの」というノウハウは「ないもの」だと思っている。「その人のその人にあった勉強法」はあっても、「それが正しい勉強の仕方」ということでもなければ、「頭がいい人のやり方」が正解ということでもない。というのも、「そのやり方を模索する」ということもまた一つの勉強ではないか、思われるからである。いきなりどうやって勉強をしたらいいのかわからず、そして「その正解」があるわけではないが、「自分がやる」という意志に基づいて、あれやこれやと経験してみて、「どうやって勉強をしていくか」を自分で見つけていくことが「勉強」である、と。
 だが、最初のうちは「それがわからない」が自然であるにもかかわらず、「それがわからないから」という理由で、「わからないまま」にする習慣がつき、そして机よりもベットに向かいたくなってしまうのが、よくあるオチではないか、と想像する。勉強に向かうための、「勉強の仕方」がわからないまま、「わからないから」勉強に向かう経験値、勉強をする経験値がどんどん貧しくなって、いつの間にか「勉強は楽しくないもの」に変化する。そんなことも考えられそうである。
 ただそれは果たして「勉強は楽しくないもの」なのかというと、楽しくないというよりは、「勉強を楽しめるところにまでいけていない」ことが問題である。つまり、勉強をスタートさせなければ、勉強の楽しさなんて味わえるはずはないのである。少なくとも、「勉強は楽しくない」という状態が成立するためには、ペンを持ち、ノートを開いて、教科書を開いて、自ら問題を解いてみて、はじめて、生まれるだろうものである。
 勉強は自分がやるものとはわかっていながら、「そのやり方」が分からないのであれば、「ひとまずノートを開いてみる」といった程度のことから始めてみてはいかがだろうか。それが「勉強」の始まりである。それが「あなたの勉強」の始まりである。自分の意志をもって、行動をしてみることが、その始まりである。そして、その「分からないこと」のなかに身を置く行為は、それこそ、「勉強」である。わかっていることを、改めて確認するのは、勉強というよりも、単純作業である。もう少し「あなたの頭を動かす行為」が「勉強」である。
 まず机に座ってみようとする。まずペンをもってみようとする。まず教科書を開いてみようとする。そうやって、徐々に「格好をつけていく」のである。「勉強」だけでなく、「勉強のやり方」もひとつの「経験」であるため、そしてそれは「自分の意志」がなければ成り立たないことであるために、とりあえずやってみる。そして、やっていくなかで、自分は書くと覚えやすい、とか、音読をすると覚えやすい、とか、音読は楽な気持ちでできてしまう、とかとかの「発見」が生まれる。そうやって、「経験」を積み重ねていくから「過程」が生まれる。このプロセスはまさに「勉強」である。
 つまり、勉強は「自分が思ったこと、考えたこと」を目の前ですぐに体現し、確認して、それを検証する過程を経験する場であり、「自分の思考」と「自分の行動」をぐるぐるとさせ続ける場である。生きていて、それほどまでに、自分の思考と自分の行動を「ダイレクトに」作用させられる場も、案外珍しいのではないか、とさえ、僕は思う。そして「それこそ」が「自分を高める」行為となるのではないだろうか。

13プロセスを楽しくする
 勉強とは、お世辞にも「楽しいもの」ではない。もしかしたら勉強を「楽しい」と感じる人もいないこともないのかもしれないが、それは何人かに一人いる「持久走が楽しい」という人と似ていて、それが本当なのか、天邪鬼なのかは、僕のような凡人には、少々理解しがたい。「もしかしたらいるかもしれない」という可能性は残しつつ、多くの人にとっては「勉強は楽しくないもの」だろうと思われる。
 ただ、先ほど述べたとおり、「勉強」の特殊な点は、「自分の意志と行動を、ダイレクトに作用させられる場」である点である。というのも、「これをやりたい」、「あれをやりたい」という意志を「試してみる」ことがこれほどまでにやりやすい場はなかなかない。
 例えば、数学の「確率」の問題が苦手だとする。そこで、「確率の問題の苦手意識を克服したい」と思ったとする。では、「どうやったら克服できるか」を考えたとする。その一つの方法として「毎日必ず5問、確率の問題をとく」という課題を自分に課すことにしたとする。それを1週間なり、一ヶ月なり、続けてみたとする。そうすると、「その時間」は「確率の問題を克服したい」という自分の気持ちをもとに、「確率の問題ができるようになった」未来の自分に近づいていく経験ができる。「今」と「理想」をつなげていく時間の経験である。結果的に1週間後なり、1ヶ月後なり、克服できるのかできないのかは「分からない」としても「克服しようとした時間」は少なくとも手にすることができ、そして、「克服しようとした時間」があるならば、「克服しようと思い立ったとき」と比べて、それよりも進んで、それよりも理想に近づくだろうことは、想像に難くない。うまくいく、いかないは別にしても、「うまくいく未来に近づいている時間」を、たしかに経験できるのである。そして、「勉強」は案外、「やってみる」と慣れてきてできるようになるものである。
 その「うまくいく未来に近づいている時間」のなかには多少の苦痛が伴い、「その苦痛」だけを切り取ると、「勉強は楽しくない」ということになる。そのとき、勉強は「つまらないもの」に降格をする。
 ただ、「切り取り方」を変えると、「つまらないなと感じる勉強」は「うまくいく未来に近づこうとしている」、ある種の「成長痛」のようなものとも考えられる。筋肉を鍛えると筋肉痛が伴う、ということと似ている。「筋肉痛が嫌いだから、筋トレをしない」のであれば、筋肉が発達することはない。
 いったい何が言いたいのかというと、「勉強が楽しくない」というのは極めて「自然な現象」であるために、「勉強が楽しくなる」ことへの期待をもとうとすることなく、ただ「自分の理想」に近づく練習として、勉強を楽しんではどうだろうか、ということである。勉強は楽しくなくても、「自分の理想」に近づくことは、おそらく楽しい。素直に「こうなったら嬉しいな」ということ、例えば「数学のテストで80点をとってみたいな」という理想があるならば、少しの時間を「その理想に近づこうとしてみる」ことに使ってみてはどうだろうか。「ただ勉強をする」よりも、「自分の理想に近づくために勉強をする」方が、なんだか面白そうに思えるのは、僕だけだろうか。そうではないと、願いたい。
 つまり、勉強は「切り取るもの」ではなくて、「プロセスで考えるもの」である。そして「プロセスを楽しむもの」なのである。「あれをやったらどうなるのだろう」とか「これをやったらどうなるのだろう」とか、「これをできるようにするためにはあんなことをやるといいのではないか」というたくさんの仮説を自分でたてながら、一つ一つ体現をして実証してみる、長い長い実験の場なのである。プロ野球ファンが、自らが応援するチームの打順をあれやこれやと考えて、「俺ならこうする!」と主張したり、サッカーファンが日本代表メンバーを勝手に構想して、自分なりのチームを作ってみたくなる性、「こうしたら勝てるだろ!」と声高らかに主張したいその気持ちを、勉強の場は素直に受け入れてくれるのである。「自分はこうしたい!」と思ったとおりに、「試しにやってみる」そして、「結果を検証してみる」そして、「次は試しにこうやってみる」と繰り返す作業、繰り返すプロセスは、ある種の「人間の性」を刺激するものだろうと、思われる。「その出来」なんて、どうでもいいのである。僕の経験では、「それ」はこの上なく楽しいことである。
 残念ながら「勉強」は人間にとって、あまり楽しいものではない。ただ、勉強を楽しくしようとせずとも、「自分が理想に近づいていく」ということは、おそらくきっと、誰にとっても楽しいものである。「自分の理想」に近づく練習として、「成長痛」を経験する練習として、多少なりとも「勉強」は「効率のいいもの」ではないか、と僕は感じる。少なくとも、プロ野球の監督でない人間が「そのチームの打順」を決めようとして声を上げるよりは、遥かに「効率的」に、理想に近づく行為であるだろう。

14きょうえい塾は「プロセス」を感じる場
 その意味で、僕はきょうえい塾を「プロセス」を感じる場にしたい、と考えている。
 僕は勉強は「自分ごと」であり、「自ら」やるものであり、そして「自分の理想」に近づいていこうとするものだと先に述べたが、そうはいっても、まだ経験も少なければ、どうしたらいいのかもよく分からない「子どもたち」を相手に、「勉強はあなたがやるものだから」と言いたいわけでも、「あなたが勝手にやってください」と突き放したいわけでも、当然ない。たしかに勉強は「自らやる姿勢」が少なからず求められるものの、その支援は十分に、つまり「自らやる姿勢に任せて取り組めるまで」の支援は、必要だと考えている。
 そして、僕の見解は、すべて、「あとはあなたが勉強をするだけ」という状況が「揃っている」前提のものである。「その子がどのような環境にあるのか」や、その子が「十分に学習をすることができない、その子の意志以外の可能性」については、全く考慮していない。あたかも「誰もが、勉強をしないのは、怠惰によるものである」とでも言えそうな前提での見解となってしまっている。これでは「すべての子どもたち」に当てはまらない可能性がある。そして「それを考慮し始めるとき」に、「無料塾」の存在が求められるのではないか、と考えている。
 社会のなかには、どうやら、「自らの意志」の範囲を超えたところで、「勉強が満足にできない」という状況に留まってしまっている子どもが、一定数いるようである。僕は特に調査をしたわけでも、分析をしたわけでもないので、明確な数字を出すことはできないが、さまざまな理由をもって、「十分な学習環境」がない子どもたちがいるらしい。僕はどこか、自分や、自分の周りの人たちをみて、「それが普通」と思い込んで生活をしてきたため、「そうでない」環境を想像することの難しさはあるものの、「そうでない」子どもたちがいるようである。僕が無責任に、「あなたはあなたのために勉強をしてください」というわけにはいかない、そんな学習環境におかれている子どもたちである。
 「勉強ができる環境にあること」が必ずしも「幸せ」と定義されるかどうかは別にしても、「勉強ができる環境にはない子どもたち」のことを放っておくことほど、無責任なことはない。それでなくとも「学歴」が一定の幅を利かせている社会で、「無条件に」そこからの脱落を意味するかのような社会環境は、決して見過ごされていいはずはないと、僕は思う。たしかに「学歴」が幸か不幸かを決定することはないにしても、「学習の機会」によって生まれ得る、自尊心の低下であったり、劣等感であったり、周りからの遅れであったりは、「学歴」という枠には収まらないほどに、生きていく上で影響を及ぼしかねないと、容易に想像できる。そして、厄介なことに、「学習面での遅れ」が明確に「周りとの差」として解釈され得る空間が、「社会」のなかには存在しているように思われる。直接的にとはいかなくとも、あらゆるところに「学習面の遅れ」が影響を及ぼすことは、十分に考えられるだろう。
 ただ「学習面に遅れがある」こと自体は、それほど深刻なことではないと、僕は思う。というのも、たまたま身長が大きく生まれる人もいれば、たまたま小さく生まれる人もいて、たまたま足が速く生まれる人もいれば、そうでない人もいて、たまたま「鳥」として生まれたから空を飛べて、たまたま「人」に生まれたから空を飛べない、といったことと似て、「たまたま勉強が得意ではない」ということもそれほど驚くべきことではない。そして所詮、「勉強が得意」であっても、日常的に「古文」を読まされることも、「歴史」の知識が求められることも、「sinθ」の値を求める場面など、ほとんどない。あるとすれば、買い物のお金の計算程度である。今では、漢字を書く機会だって、ほとんどない。
 つまり、「その能力」が直接的に求めらることなどないのであれば、「その能力」が劣っていたとしても、大した問題はないのである。僕は「泳ぐこと」や「長距離走」が大の苦手で、できないことだが、少なくとも最近「それ」を必要とする場面はほとんどない、いや、そんな場面に自ら行くことはないので、自分が苦手だったことさえ、忘れているぐらいである。そんな調子でいればいい。
 ただ、これまでにも述べてきた通り、「子どもの時間の勉強」には「その能力以外の訓練の場」でもある。「できないからやらなくていいよ」と片付けてしまうにはもったいないほどの貴重な経験ができる場である。そして、何より「勉強」は「できないことをできるようにするため」であるために、「できないことをできるようにできる」環境が必要である。能力に問わず、その環境は用意されるべきである。「べきである」というよりは、僕が「あったほうがきっと面白い」と思っているだけかもしれない。あたかも「みんなに用意されている」かのような前提でここまできたが、より注意して考えなくてはならないのは「意志以外のところに制限を抱えている子どもたち」のことである。その子どもたちへのケアが十分にされてはじめて、「能力なんて気にすんな」の「勉強」は成立し得るのではないか。そして、そのための場として「無料塾」に役割がありそうである。

15自分のことに集中する
 生きていると、「他人」のことに気を取られる。学校、会社、町内、近所、基本的には「生きる」ということのなかに、「他人」の存在は欠かせない。テレビをつければ、たくさんの「他人」がトークをしていて、「他人」が犯した犯罪が報道されていて、「他人」が成し遂げた偉業にこの上なく盛り上がっているのが「日常」である。「それを知りたいかどうか」は別にして、人は「他人に詳しくなれる環境」に生きていると、言えなくもない。
 自分のことは、一挙手一投足、常に把握している、つまり自分の行動は「自分」がするものなので、「自分の情報」にはあまり鮮度がない。自分が朝何時に起きて、何を食べて、日中は何をしていたかなど、記憶はしていても、それが自分にとって「情報」となる機会はほとんどない。たいがい、「自分」にとって刺激的な、好奇心をそそるような情報というのは、「他人のこと」ではないだろうか、と思われる。「知らないこと」を知ろうとすればするほど、それは「他人のこと」の可能性が高まる。「自分」のことは、すでに「自分」がよく知っている。
 この「他人のこと」への興味は、必ずしも「悪いもの」と断定することは、もちろんできない。小学校では「いいこと見つけ」とでも題して、周りの子たちの良いところを探すことが求められるぐらいである。「自分以外の子」を見る習慣が求められる、「自分以外の子を見る練習」が積極的に課されることもあるぐらいである。「周りの子」に気を配る練習でもあるかもしれない。
 だが、意外にも、「自分のこと」に気を配る機会がつくられることは少ない。「自分のことに気を配る」というのは多少違和感のある表現ではあるが、そして、たしかに「僕にはこんなところがある」や「私の良いところはこんなところ」と盛大にその人に主張されても、決して気持ちの良いものではないかもしれないが、ある種の「人間の美学」、「日本人の美学」的発想から、「自分のことはあまり言わないほうがいい」という空気が、流れているようにも思われる。
 ただ、いったん立ち止まって考えてみると、「自分のこと」と「他人のこと」は、どちらがより「私」に関わりをもつのかというと、当然のことながら「自分のこと」である。「他人のこと」に刺激を受けて、自分の行動に良い影響が生まれることもないこともないと思われるが、「今日自分が食べる夜ご飯」と「今日あの人が食べる夜ご飯」とでは、自分との関わりは大きく違う。「あの人が食べる夜ご飯」は「別に知る必要のないこと」である。
 ただ人にとってはより刺激的で、即効性のある「他人の情報に振り回される習慣」は、「自分に気を配る習慣」を持ちづらくするのではないだろうか。なんせ自分のことは、毎日大した変化がないことを知っていて、基本的には「同じことの繰り返し」であることを把握してしまっているため、「また同じ」に過ぎず、「刺激的な同じ」を見出すことは難しい。そこで登場するのが「誰々があんなことをした」とか「あの人はこういう人らしい」とか「あの人にこんなおめでたいことがあったらしい」とか「あの人すげー!」とか、「あの人ダセー!」といった情報が、面白く、刺激的な情報として、「変化のない自分」を彩る道具として見出される。
 では「自分のこと」はどうでもいいのかというと、そんなことはないだろう。誰しも、「自分のこと」が自分に最も関わりがある。「自分が着る服」以上に「あの人が着る服」が自分にとってより重要になることはない。「あるライン」までは、どうしたって、「自分のこと」が中心であって不自然ではない。「僕は裸でいいけれど、あの人はかっこいい服を着てほしい」なんてことは、おそらくない。
 僕が想像するに、「自分」を超えて「他人」の情報が登場するとき、それは嫉妬や不満に変わり得る。恥ずかしさや不安にも変わり得る。それが、本当に刺激的で、有意義なものになるときは、あくまでも「自分がそれを受け入れられる状態」があってこそであり、それを受け入れられる状態になければ、これほど「他人の情報」が、目に、耳に入ってきやすい現代は、まさに地獄のようなものではないかと、思われる。知りたいとも思わない「誰それがしたこと」であったり、「あの人がしていること」であったり、「あの人の近況」であったりが、簡単に「自分を超えて」自分の元に届く環境が、ありがたいことに揃いに揃っている。良いことなのか、良くないことなのか、僕には分からない。
 ひとまず、「人」に求められることは、「自分のことに焦点を当ててみよう」ということではないだろうか。自分のいいところを「自分で」持てずして、落ち着いて「他人の良いところ」など見つけられるはずがない、と僕は感じる。自分が着るもの無くして、「あなたはオシャレだね」なんて心から言うことなど、できるはずがない。そんなことよりも、まずは「自分が着るもの」を用意することが先である。「他人の情報」は「その後」である。
 そこで、「勉強」は格好の「その練習場所」になる。「勉強」は「自分ごと」である。自分ができるようになるために、自分がやることである。「まずは自分のことに気を配る練習」として「勉強」をしてみてはどうだろうか。これだけ「自分以外の情報」が溢れる現代を生きる術として、それなりに学べることがあるように、僕は思う。
 まずは「自分ができないこと」から出発して、時間をかけて「できるようにする」過程。自分の時間を「自分が変化する」ことに使う練習。「変わり映えのない毎日が、自分を変える」と知るための練習。この練習の経験があるのかないのかでは、溢れる「他人の情報」に対する抗体に大きな違いがあるのではないかと、僕は想像する。別に「その抗体」を持っていることが優れているわけでも、持っていなくてはならないものだということではないが、「それなしに」他人の情報にこれだけ多く晒されるというのは、なかなか生きづらいのではないかと、思えてならない。
 勉強は、あなたが、あなたのために、あなたのできないことを、できるようにする機会である。一つの「現代を生き抜く術」として、その過程を経験してみることは、案外役に立つのではないだろうか。もっとも、偏差値のため、誰かに勝つため、頭の良さを誰かに証明するための勉強は、本末転倒である。もしかしたら、それは、より大変な勉強ではないかと、僕は思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?