0円教育物語⑯ 「人」こそが資源。「人」こそが基盤。

76「0円教育圏」を具体的にしてみる①
 「0円教育圏」を具体的に考えてみたい。どのように「0円教育圏」をつくるのか。
 先にも述べたが、これをつくるためには、「もうすでにできあがっている」ということを認識しなくてはならない。もうすでにできあがっている「0円で勉強ができる空間」を自分なりの視点で発見していくことが、「つくる」ということである。そして、僕の目線からの「0円教育圏」と、誰かの目線からの「0円教育圏」はおそらく違うものになる。ここで具体的にできるのは、「僕の目線」からのものになる。「それが正解」というわけではなく、「たくさんの正解」を僕なりに探してみるのが、僕にできることである。何よりも大事なのは、0円で勉強ができる空間はもうすでに存在していて、「それを自分が探し、自分が生かすのだ」という意識である。それによって、おのおのの「0円教育圏」は出現しはじめる。僕なりに、「0円教育圏」に存在する「資本」を探してみる。
 まず、この中心となるのは、「学校」である。学校では一応、みんなが授業を受けられる。公立の学校であれば、無料である。この機会を無駄にしてはいけない。無駄にしないために、「無駄にしない!」という意気込みで授業に挑まなければならない。「無駄にしないこと」へのこだわりをもつのである。つまり、たとえ先生が覇気のない授業をしていたとしても、覇気のない先生のせいにしている場合ではない。「授業がわかりやすい先生」に越したことはないが、たとえ「覇気のない先生」だとしても、「勉強」を捉えにいくのである。分からないことがあれば、自ら「分かりません、教えてください」と聞きにいく。聞きにいけば、おそらく先生は教えてくれるはずである。それが「先生」である。もしかしたら、忙しくて教えてくれない場合もあるかもしれないが、学校に「先生」はたくさんいる。別の先生に聞きにいく。「勉強を教える」ことを想定せずして、「学校の先生」になっている人などいないだろうので、「教える」ことが嫌いな人はそうはいないはずである。「分からない」ということを自らしっかりと「伝える」ことが「学校の先生」をより輝かせるための必殺技である。「待ちの姿勢」ではなく、「自ら行く姿勢」である。「分からないこと」をそのままにしておいていいはずがないので、そして「そんなこと」は先生は言わずもがな察知してくれるだろうと思われるので、分からないことがあるときは、先生に聞きに行く。聞きに行ってダメなら別の先生に聞きに行く。「ただ授業を受けるだけ」ですべてを理解しようとしなくでも、いいのである。
 「聞きに行く」のは先生に限定する必要はない。「家族」のなかに「師」を探す。母親でも父親でも、姉でも兄でも弟でも妹でも、いとこでも祖父でも祖母でも、誰でもいい。困った時に備えて、「とりあえず探してみる」だけでもいい。ほとんどの人が「勉強」を通過してきているだろうと思われるので、聞けば一緒に考えてくれたり、教えてくれたりするかもしれない。そして、どこかに驚くべき熟練の技の持ち主が隠れているかもしれない。もしかしたら、皆が忘れてしまっているかもしれないが、それも含めて、探しに行っても面白い。「こんな勉強をしている」ということを共有するだけでも、なんらか発展するかもしれない。「そんなに勉強したいなら、塾でも行こうか」とお金を出してくれる人に出会えるかもしれない。「家族」であれば、そんなワクワクすることだって、十分に可能性がある。何事も「行動」である。
 近所に住むおっちゃん、おばちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんだって、勉強を教えてくれるかもしれない。「昔学校の先生をやっていた人」が隠れているかもしれない。僕たちなんかよりも長年の経験値があり、知っていることの幅もおそらく広い。高齢の方々になると、若い人や子どもたちと触れ合う機会などなく、新たな刺激を求めている方もおそらくいらっしゃるので、喜んで教えてくれるかもしれない。もしかしたら、「奇跡のおやつ」まで貰えてしまうかもしれない。「知らない人」にいきなり聞きに行くことは、なかなかのハードルなので、「知っている人」がいれば、その人に聞きに行くといい。「おじいちゃん同士のつながり」によって、誰か「学びの鉄人」を紹介してくれるかもしれない。「知っている人」を入り口に、「学校」、「家族」以外の、新しい「資本」を発見できるかもしれない。
 ここまでを踏まえて。「人」は資本である。資本以上に、「人」は資本である。「人の知恵」もまた「資本」である。これを逃すわけにはいかない。「分からないこと」は「聞きに行く」のである。

77「0円教育圏」を具体的にしてみる②
 「0円教育圏」における資本はまだまだある。
 前にも述べたが、「図書館」である。図書館には過去の偉人たちの言葉、現代を生きる知恵、人間の思考、感情が溢れている。0円で手にできる資本が転がりに転がっている。本屋さんで「買わないと」読めないものも、図書館であればある程度の期間を使って読むことができる。わたしたちの生活では、「0円で本を読むこと」が許されている。なんて素晴らしことだろうか。「わざわざ本にする」ということの面倒臭さといったら、おそらく計り知れないが、「それをしてまで」残そうとされているものが「本」である。これを読まないわけにはいかない。「そんなにも重みのあるもの」を放置しておいていいのだろうか。いいはずがない。「勉強にはお金がかかる」と嘆く前に、読まなくてはいけない、そして「無料で」読むことのできる本が、私たちには用意されている。自ら読まないことには、なんの情報も入ってこない「本」には、「自ら読む姿勢」が求められる。つまり、「積極的」にならないと、「なにも入ってくる可能性のない情報」である。「自ら読まないといけない」ということも、本の面白い点である。決して「受け身」の姿勢では入ってこない知識や思考を、「自ら求める」経験は、勉強には欠かせないものだろうと、思われる。そもそも「自分にできないことを少しでもできるように」という発想は「自ら求める」ことなくしては成立し得ない。もっとも、それなしに「0円教育圏」など、存在し得ない。「誰かが教えてくれること」を待っていては、「0円で学ぶ」ことは不可能である。基本的には、「誰かが教えてくれる環境」はお金がかかる。それが悪いことではなく、「そういうもの」だということである。
 「友だち」も一つの「資本」である。友だちも立派な資本である。少なくとも「自分」とは違う人間であり、「何かしらの違い」によって、好みも苦手も得意も不得意も大きく異なる。誰かにとっては「大の苦手」なことが、誰かにとっては「大の得意」であることなど、日常茶飯事である。自分が「できない」と思ったことを、平気な顔をして「できてしまう」友だちもいると思われる。「その子」はもしかしたら、秘伝の技を持っているのかもしれない。ほんの少しのポイントが大きなヒントになるかもしれない。「その子」が何も大事だとは思っていなかったポイントが、「自分」にとってはものすごく大きなヒントになるかもしれない。そんな「驚きの学び」を「友だち」はプレゼントしてくれるかもしれないのである。「テストで点数をもっと取りたい!」と思ったら、それに近い点数を取っている子に、聞きに行く。「どうやって勉強をしているのか」、「どれぐらい勉強をしているのか」、「どんな時間帯に勉強をしているのか」、など、聞けることはたくさんある。「勉強のやり方」は、聞いてみると意外と面白いものである。僕は小さい頃、勉強ができる周りの子に、「どうやって勉強しているのか」をよく聞いていた。それがものすごくヒントになることもあった。これも一つの「人がもつ資本」である。「人間の良さ」とも言える。
 公立の学校には、「地域ボランティア」として活動されている方々がいる。「学校環境づくり」のようなコミュニティをつくって、集会や会議を定期的に行なっている方々がいる。このような方々は「学校周りの環境をできるだけよくしよう」と考えている方々であり、子どもたちの学習をサポートする気満々な方々である。僕が参加をさせてもらった学習支援を行う会は、このような方々が主催しているもので、「その熱心さ」には驚かされた。もちろん「無償」である。無償であることを忘れさせるぐらいに、温かな空間が、そこにはある。そんな方々も、間違いなく「0円教育圏」の貴重な資本である。生かさない手はない。

78「0円教育圏」を具体的にしてみる③
 「無料塾」も一つの選択肢になるだろう。「0円で勉強ができる場」である。「無料塾」は全国各地にある。「たくさん」とまではいかないものの、「無料塾」として活動されている方々は少なくない。お住まいの近隣の地域で、「無料塾」を探してみるのも、ひとつの手である。なかには、参加条件をつくっている団体さんもあるので、「必ず参加ができる」とまではいかないまでも、「0円で勉強ができる空間」を作ろうとしている方々の存在を忘れてはならない。「勉強にはお金がかかる」という既成の概念を、はるか前から打ち壊そうとしている方々の存在自体が、「資本」そのものである。僕はそれに便乗している。
 「無料塾」とはどのような存在なのか。
 僕が考える「無料塾」は、「空間の資本」である。「勉強を教えてもらえる」や「勉強を教わる」といった「機能」というよりも、「そこに居場所がある」という感覚や「そこにいけば勉強を教われる」という感覚、困っていることを「困っている」と言っていい安心感、利害関係による空間ではない温かみが、無料塾にはあると、僕は感じている。僕は自ら無料塾を始めるにあたって、いくつかの無料塾を見学させていただき、話を聞かせていただいた。そこには「空間の資本」があるように感じられた。「勉強を無料で教えてもらえる」ことが本質ではまったくないように感じられた。言葉にすると「無料で勉強を教えてもらえる」というものになるが、「それだけ」ではないのである。「お金を稼がなくていいのか」と問う必要のない、独特な空間、独特な人と人との出会いが、そこには感じられた。「なぜお金を取っていないのですか」と聞く必要など、まったくないように感じた。「無料塾」の空間のなかで「どうしてお金を取らないのか」と問うことは、非常に野暮ったいことに思えてならなかった。「お金をとって勉強をすること」が当たり前になっていることの方が、「なぜそれが当たり前なのか」と思えてしまうほどである。なぜ私たちは、「教育にはお金がかかる」という前提を疑うことなく、どんどん「冷たい空間」を作ろうとしているのか。実に不思議である。「教育」をただドライに、感情を込めず、「自分の利益の場」にしようとしているだけではないか。「自分が生活をするため」に「教育に携わってやっている」人たちが「教育界」に存在しているのではないか。別に「存在していても」いいのだが、それでいては、「勉強」の価値は「色」をどんどん失っていくだろうと、僕は思っている。「勉強にはお金がかかる」という前提のもと、「お金を稼ぐため」に「仕方なく」「教えてやっている人」が、「勉強の良さ」や「学びの本質」を伝承していけるとは、残念ながら思えない。ただ他人と競う勉強、誰が頭が良くて、誰が頭が悪いかを、確認し合うだけの勉強は、そのようにして作られているのではないか。それはそれで、さぞ楽しい勉強なのだろうが、それは「根本」から格差を作ろうとしている教育ではないだろうか。「人の違い」と「格差」を勘違いしている教育ではないだろうか。僕の目には、無料塾では「そのようなことにはなりえない」ように思われた。
 「きょうえい塾」も、そのような空間を目指したい。「なぜ0円なのか」が不思議ではない空間を作りたい。「なぜお金を取らないのか」が説明不要な空間を作りたい。ある種の「人間の認識」への挑戦である。自分で「挑戦」というのはいかがなものだろうか。ただこれは「挑戦」である。

79「0円教育」とは、「人に聞いて、人を頼ること」である
 「0円教育」の基本は「人に聞くこと」であり、「人を頼ること」である。「0円教育圏」は「人」が基盤である。
 「人」とは、私たちがもつこの上ない資本である。この「資本」を見逃さない姿勢によって、「0円教育」は成立する。だからこそ、「0円教育圏はもうすでにできあがっている」という認識が必要なのである。その認識が「自ら人に聞く」可能性を広げてくれる。人に聞く、人を頼るとは、人間が生きていく上で、本来「基本」であるはずなのだ。人間は「分業社会」に生きる動物である。
 それをすることなしに、「お金と学力」を結びつけようとするのは、早とちりである。もしかしたら「そう」なのかもしれないが、まだやれることは残されている。「お金をかけなければ学力は伸びない」という思考で止まってしまうことが、人間の可能性を縮めることになるのではないか。僕はそう感じている。それは「もったいのないこと」なのである。
 0円、0円と言っているが、これは「0円」ではない。というのも「人間同士のつながり」は「お金では換えられない」だけであり、お金に換算できないから「0円」というだけであり、その価値はいうまでもなく「お金以上」である。それは「お金以上の価値」だから、お金が入ってくる隙間がないのである。もしかしたら、人間はお金との共同生活が長くなりすぎたことで、見逃しやすくなっているのかもしれないが、「お金が作用しない、お金以上の価値」を見逃してしまっているのではないか。「経済格差」があるところには「経済格差」にしか原因を見出さなくなっているのではないか。「経済」の力が及ぶはずのない領域への焦点を、失ってしまっているのではないか。「経済」や「お金」の言いなりになってしまっているように、僕は思える。当然のことであるが、「お金」は「一言も」発していない。「お金」に「声」はない。「お金の声」を勝手に聞き取っているのは、私たち人間の「頭の中」である。私たちは「思考」をやめて、その「思考を止める」ということによって「お金の問題」をつくりだしている可能性だって、考えられるのである。「思考」とは「お金に換算できるもの」では、ない。
 たしかに、取引は「お金」によってされている。「モノ」を買うときには「お金」が必要である。ただそれは「お金に換算すること」でしか、価値を表現できないだけかもしれないのである。「値段をつける」ことでしか、「価値」を「見える化」できないだけなのではないか。それを私たちは「買っている」だけである。つまり「お金と交換しているだけ」である。「お金で交換できないもの」は「見つければ」いいのではないか。それを「見つけようと」すればいいだけではないか。人間の思考を「お金」からいったん離してみてはいかがだろうか。「お金」と決別するとかではなくて、「いったん離れて考えてみる」でいいのである。少なくとも、お金と睨めっこをしていて、お金は増えているだろうか。「教育にはお金がかかる」という前提を疑わずして、「その教育」によって、「お金」は増えただろうか。「あなたのお金」は増えただろうか。「いったん離れて考えてみる」ことは、そんなにむずかしいことではないはずである。私たちの「意識ひとつ」である。
 私たちは「お金には換算できないもの」をどれほど持っているのだろうか。僕は「お金を稼ぐこと」よりも、そちらの方に興味がある。「目に見えないものを見ようとする」ことは非常に、面白いことであり、そこには「発見」がある。「無料塾」は、僕にとって、そんな「発見」の場である。「きょうえい塾」で「それ」をさらに発見したい。
 これは「お金を持っていない人」の遠吠えである。ただただ「負け惜しみ」である。ただ僕は、そんなことを「面白い」と思えている。

80「自分で自分の学習支援を考えられるようになること」が完成形
 僕は「学習支援」の完成形は「その子が自分で自分の学習支援を考えられるようになること」だと考えている。
 例えば、たしかに、僕が子どもたちの勉強のなんらかのお手伝いをすることは「学習支援」である。僕に限らず、「子どもたちの学習のお手伝いをすること」は学習支援と言える。ただ、それを受けて、子どもたちが「支援をしてもらうのを待っているだけ」では、「学習支援」の機能としては弱い。「学習支援」によって、「その経験」を受けて、子どもたちが「自ら」学習を形作っていけるようになるまでにならなくてはならない。「ただその場で勉強を一緒にやる」が最初のステップでなんら問題はないが、「いつまでもそのまま」では、「支援」とは言えず、「一緒に勉強をしてあげるだけ」になってしまう。それはそれで、意義あることだとは思われるが、僕は「それだけ」が「学習支援」ではない、と感じる。「学習支援」とは「もう一歩先」までいかなくてはならない。「学習の手助けをしてもらう過程」を通して、そこから「自身の変化」を感じとり、その「変化の味」を知り、「自分でその過程を作り出せるようになること」が学習支援の目指すべき地点である。そしてそれを「勉強」にとどめることなく、やや大げさなことになるが「生きること」にまで発展させて、「自ら問題を解決しようとする能力」を養う機会なのである。それが「勉強」でなくなったときに、「何をしたらいいのかわからない」ようでは、勉強の機会が「生きていない」のである。教科書とノートと問題集のなかだけに収まってしまう勉強を「課されなければ」できないようでは、「学校の勉強」の範囲を超えたところで「自らを高める」ことはできないままである。それでは「勉強を通して、できないことを解決すること」という大枠部分が「他のこと」において生きていないのである。「勉強ができるようになる」という「具体的な部分」ではなく、勉強を通して身につけるべき能力は、もう少し「抽象的なもの」なのである。数学の苦手な問題を「できるようにすること」も、50m走のタイムを「今よりも少しだけ上げようとすること」も、その「抽象的な部分」においては、まったくの「同じこと」なのである。「学習支援は勉強ができるようになるためのもの」であることはたしかであるが、その具体的な部分だけにとどまるものではないと、僕は思っている。「その問題が解けるようになること」以上に「できないことを克服した過程」を学ぶ場なのである。「テストの点数をあげること」以上に「自分の能力をどのようにして高めるか」を学ぶ場である。「もう一歩先」に発展させられるもの、なのである。
 例えば「三平方の定理」は日常生活から「分離したもの」のようである。たしかに、日常生活で「三平方の定理」を使う場面は、そう多くはない。ただ、それを「知らないところ」からスタートして、三平方の定理を知り、使ってみて、できるようになって、新しい問題に挑戦してみて、「身につけていく」という過程は、「三平方の定理」に限ったことでも、「数学」に限ったことでもない。それがたまたま「数学だった」というだけで、それがたまたま「三平方の定理であった」というだけで、それが野球だろうが、ピアノであろうが、趣味だろうが、仕事だろうが、アルバイトだろうが「同じ」なのである。知らないことを知る過程、できないことをできるようにする過程、それを練習する過程、そもそも「身につけよう」と思うに至る過程を「勉強を通して」学ぶというだけである。「知らないことを知ろうとする姿勢」なしに、「何かが身につく」ということはない、ということを学ぶのである。それを、勉強を通して「発見」するのである。「勉強なんて意味がない」という議論は、「この経験」を一回分失うことを意味するのである。それをもったいないと感じるか、一回分であれば問題ないと感じるか、それは「人それぞれ」でいい。
 「学習支援」の注目すべきは、子どもたちが「勉強を教えてもらえて嬉しかった」や「それのおかげでテストの点数が上がった」という経験に加えて、「できないことができるようになる」と「知る機会」なのである。それを知って、自ら取り組めるようになるスタート地点なのである。その面白さ、その楽しさを感じることができてこそ、「学習支援」は成立するのではないか、と僕は思う。
 「0円で勉強をする」となると「自ら取り組む」ことが必要になる。「0円教育圏」とは、極めて「個人的に勉強をする空間」である。「教えてもらえるから仕方なくやる」という姿勢でいては、すぐにお金がかかってしまう。そういうものである。「やらされる勉強」は非常に高価であり、「自らやる勉強」は0円でも成立し得る。ありがたいことに、日本には「自ら学ぼうとする人」に対しては、非常に優しい空間がたくさんある。そして「それを手助けしてくれる人」がたくさん存在していると、僕は信じている。簡単な言葉にすると「協力できる人たち」であると信じている。「協力」をすればいいのである。なぜ「お金を介さないと協力できない」生き物に近づこうとするのか。人間はいつからそんなに「味気ないもの」になってしまったのだろうか。「そういう態度」の結果が、ニッポンの元気のなさではないだろうか。「協力をする」、ただそれだけである。


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