0円教育物語⑩ 学習支援とは、停滞防止。
46支援を行う大人たち
「支援を行う大人」としては、僕はまだ「研修生」である。かなり年齢層は高めな、基本的には60~70歳の方々や、退職をされただろう方々を中心に、保護者の方々も少し加わって行われている。もしかしたら「仕事がなくなって、暇になったから」という理由で参加をされているのかもしれないが、空いた時間の使い方としては、見習うべきところが多いように、僕は感じる。そして僕は、学習支援に携わろうとするその「心意気」に「気持ちの良さ」を感じた。
僕たちがそのような「気持ちのいい心」を受け継いでいかなくてはならない。勝手な使命感を感じている。もっとも、「受け継ぐ」というよりは、現段階では「見習う」である。
これは「学習」に関する支援だが、そのような姿勢は、「学習」だけにおさまるものでは、きっとない。「その心」をもつことが、あらゆる問題を解決することにつながるのではないかとさえ、僕は思っている。「その心」とは「お金がもらえるから」などではない、「見返りを求めようとしない心」である。ただ「問題を解決しよう」という原動力と、問題が解決の方向に進むことに喜びを覚える、「気持ちのいい心」である。「お金を稼ぐこと」が生活の一部になる大人が、「そのような心」をもつことはおそらく難しい。だから「学力とお金」の問題は「深刻な問題」に様変わりする。果たして、「塾に行けないこと」が問題なのだろうか。そもそも「学力とお金」にどれほどの問題が、そしてそれは「問題なのか」の検証をするところから始められるべきだが、もしそこに「問題」があるとするならば、「見返りがないと動かない」なんていっていられないはずである。「問題」はどこにあるのか、そこから検証をしなくてはならない。もっとも、「検証」なんてしている場合ではない可能性だって、ある。
僕は、ここに「街」を感じる。「ボランティア」なので、実際にお金は動いていないものの、経済を感じ、街を感じる。子どもたちのエネルギーが私たちの「生きる糧」になるのであれば、それは「生きる」という貯金残高は増え、子どもたちが「エネルギーを爆発させる場所」によって「次のエネルギー」を生み出すのなら、それは子どもたちにとっても、「貯金」がされる。実際にお金が動いていないから、「貯金などできない」とも言えるが、僕には「貯金」を感じる。
そもそも「子どもたちの動き」は将来への投資である。「いま」見えていないだけで、お金は動いているのである。彼らが「元気」を保ちつつ、そして健全に育ち続けることは、それだけで「利益」である。自分なりにやりたいことを見つけたり、働くようになったり、自ら何か貢献できることを探そうとしたりと、「彼らが元気に育つこと」だけでも、あらゆる可能性を持っている。「元気」がなくなれば、やや大袈裟かもしれないが「生きる意欲」を失ってしまうかもしれない。「生きる意欲」が減退することほど、「経済」にとって不都合なことはない。「勉強ができないなら、苦労して頑張りなさい」と突き放すことほど、「不経済なこと」はない。「勉強を教えてあげるよ、お金ちょうだい」ということが、どれほどに経済を悪化させる、いや少なくとも停滞させるかは、言うまでもない。「協力」をしようとすることなしに、「豊かな経済」などできるのだろうか。「お金を稼げないなら動かない人間」の集合体になることが、一番残念な、誰も幸せにならない経済をつくり出しそうに、僕には思える。「気持ちの良くない心」は「不経済」である。
だから僕は、勝手な使命感を感じている。「気持ちのいい心」を見習わなくてはならない、受け継がなくてはならない、と考えている。「これは子どもたちへの投資だ」とさえ意識する必要など、ないのである、きっと、今活躍されているボランティアの方々は、そんなこと考えていない。純粋に「私にできることがあるなら、やりますよ」というだけである。少なくとも僕の目にはそのように見えている。僕はそのような方々と、ともに時間を過ごせたことが、幸せである。そしてその幸せは、何らかの形で、一つの伝統芸能のようにして、受け継いでいかなくてはならない。「問題があるなら、解決してみようか」の姿勢でいいのである。「お金が…」など言っている場合ではないのである。そして「その態度」が経済を良くする。経済学者でも経済評論家でもない、素人人間の勝手で適当な見解である。
「気持ちのいい心」が「経済」をつくり、「街」をつくるのではないだろうか。
47僕が思う学習支援
僕が思う「学習支援」とは「停滞の手助け」である。
「停滞」にはいろいろな種類のものが考えられる。純粋に、勉強が分からないからやらなくなってしまう停滞、勉強が分からないことを言えない停滞、分からないけど助けてもらえる人を見つけられない停滞、逆に周りが「困っていること」に気がついてあげられない停滞、そして「解消する場」がない停滞。ありとあらゆるところに考えられる「停滞」、つまり「どのように動いて良いのか分からない」という状態が、勉強を妨げる。人間でいう「コリ」のようなものである。「コリ」があるのなら、誰かがマッサージをしてあげるなり、ツボを押しておげるなり、鍼治療をしてあげるなり、してあげたほうが良い。そのような役割、すなわち接骨院のような役割を担うのが「学習支援」ではないか、と僕は思う。「健康状態をつくろうとする」というよりは「コリをほぐして楽にする」意味合いのものである。「できる子」をよりできるように、というものでは、ない。
人間は肩が凝る。肩が凝れば、健康な人も、多少の疲労を感じる。「肩が凝っている人」は「健康かどうか」はさておいて、肩をマッサージしてもらいたいものである。ちなみに僕は、よく肩が凝る。
凝った肩をマッサージしてもらうのは、おそらく多くの人間にとって気持ちのいいものである。「健康になる」わけではなくとも、「凝った肩への刺激」として気持ちがいい。「肩のマッサージ」は健康効果があるものではおそらくないが、「凝ったまま」では不健康につながりそうである。「凝ったまま」の身体によって寝違いやヘルニアや、ぎっくり腰といった、身体の不調につながりかねない。「健康をつくる」ことではなくとも「不健康を改善する」ことによって、それは「健康」に向かうことになる。
「学習支援」とはきっとそのようなものである。身体の凝りをほぐすように、勉強における滞りをほぐす。「どこかにある停滞」を解消するために鍼を刺す。そうやって、停滞が蓄積して、どう動いていいのか分からない状態を、そうなる前に防ごうとすることで、「勉強」を進展させる。「頭が良くなるため」というよりは、勉強が止まらないようにすることで、頭を良くしていく。必ずしも前進しようとさせるのではなく、停滞を解消することで、結果的に前進する手伝いを行う。それが、僕が考える、学習支援である。
これはもしかしたら、まったくの見当違いで、僕の完全な「思い込み」かもしれない。「学習支援」とは、まったくそうあるべきではないもの、かもしれない。そして、僕のこのスタンスではなに一つ解決できないかもしれない。ただ、それはそれである。僕は僕自身の人生は何らかの実験だと考えているので、「こうではないか」の仮説を立てて、実験をしてみて、出た結果からまた新しい仮説をたてるだけである。そしてこれは「僕の思考」を停滞させることなく、社会に流してみる、ということである。僕は「子どもたちの停滞」を解消しようとしながら、「僕の仮説」も解消しようとしている。「こうではないか」と考えて、その通りにやってみて、確認をする。これすなわち「勉強」である。数学の問題ができない、どうやったらできるようになるか、こうやったらいいのではないか、毎日朝5問やることにしてみよう、それを1週間続けてみよう、どうなるかな、ということと何ら変わりはない。そして「それ」が僕の仕事である。「仕事」といっても、お金は取っていない。ただ僕は、それを「仕事」と認識している。「お金がもらえるなら仕事をする」とは、誰が決めたのだろうか。僕には「そんな態度」でいては何の問題も解決することなどできないと思えてならない。「何の問題も解決されないこと」が一番の不経済である。「不経済」とは何だろうか、僕が適当に言っている。
「学習支援」とは「肩こりを解消しようとするもの」なので、「受験!受験!」など、どうでもいいことである。「健康になりたい」という要望に応えることはできないのが、学習支援である。テストの点数を上げると「コリ」が解消されそうなときに役割を担うのが、学習支援。学習空間を求めている人に、その空間をさっと用意して待つのが学習支援。僕はそのように考えている。
おそらく、学校がすべてのコリを解消することは、至難の業である。「学校だけ」に頼るのは、無理がある。
48「勉強が分からない人」の気持ち
僕は、ある程度、「勉強ができない人」の気持ちを理解できるつもりでいる。自分で「理解できる」ということほど、実はまったく理解できていないのではないか、という可能性も感じつつ、自分では「分かるつもり」でいる。
僕は、これまで、本当にたまにではあるが、ときに「奇跡のひらめき」をしてしまう秀才な面もあったように記憶しているが、それは「本当にたまに」であり、ほとんどの時間はゆっくりとでしか物事を理解できない子どもであった。そして、「今も」そうである。
というのも、僕は「知識の幅」が狭い。もともと「知っていること」が少ない。他の方々がどれほどの物知りかは分からないが、おそらく僕は「物を知らないほう」だと思われる。「知っていること」が少ないと、「勉強をしよう」として身につけたものしか「知識」としてないために、「どこかで聞いたことがある」とか「なんとなくこうではないか」という経験がほとんどない。知的好奇心や、興味関心の幅が狭いことが原因であるが、それにしても「みなが当たり前に知っていること」を「知らない」経験は数多い。僕の「何となくこうではないか」はたいてい外れる。これまでも、今も、である。「勉強する時間」をしっかりとらずして、「なんとなく」でやって、100点のテストで65点をとる、といったような要領の良さが、僕にはまったくない。僕が「なんとなく」やったら、20点にも届かない。
僕は、テストに備えなければ、まったく何もできない子どもであった。「テストに備える時間」さえ確保できれば、それなりに落ち着いた点数をとることはできたと記憶しているが、「備え」なしには0点である。0点から何点の加点ができるか、の勝負になる。つまり、まったく「頭が良くない」のである。
何回かのテストを経て、「自分は準備をしないと何もできないのだ」ということを知った。それを明確に認識したのは、高校に入ってからだったが、それ以降は、自分に期待することをやめることにした。できないものは、できないのである。それならば、「準備」をしさえすればいいだけではないか、と理解するようになった。僕は「もしかしたら天才かもしれない」可能性を諦めた。
そんな僕は、たとえば「社会」のテストに備えようとすると、「とにかく頭に入れる時間」が必要になる。それなしに、テストに向かうことはできない。それなしに向かったら、見事に0点である。「その時間」は「暗記」に走って、「理解」という概念はもはや度外視で、ただただ暗記である。暗記のための暗記。方法を問うことなく暗記。なんらかの「情報」を暗記して、それを使って解答する準備をするわけだが、どちらかというと、これは「コンピューター的」な勉強である。自分が機械になりきって、なんらかの方法で頭に入れる。そういう勉強である。
そのような方法でやると、時代時代の知識は点々バラバラで、まったく繋がりがみえてこない。「そのテスト」の時には「その範囲」であるから、勉強した順番を少し遡ればつなげることもできないこともないが、「そのテスト」が終わってしまえば、完全に忘れてしまう。それが積み重なると、すべての時代がぐちゃぐちゃになり、下手をすると「鎌倉幕府」と「室町幕府」のどちらが先で、どちらが後かが、当たり前のこととして、分からなくなる。僕には「どう考えても鎌倉でしょ!」という発想は皆無である。むしろ「室町の方が先でしょ!」と大きな声で言ってしまう可能性の方が高いぐらいである。これは「ちんぷんかんぷん」なのではなくて、いやもしかしたらそうなのかもしれないが、「そのようにしてしか」できないのである。自分が勉強したことを踏まえて、自分なりに考えて、「室町かも」という結論に行きついてしまっていることが、非常に悲しく、さみしい現実ではある。
別に「鎌倉幕府」と「室町幕府」に限ったことではない。他人が考えなくても「こうでしょ」と通過できるものに、僕は何度もつまずいてきた記憶がある。そして、授業の時間で「何か」を覚えることも、身につけることもまったくできなかったにも関わらず、家に帰って毎日コツコツ復習をしてから明日を迎えるタイプでもなかったので、気がつくと「今何を勉強しているのか」も分からなくなる子どもであった。おそらく、今でも変わっていない。「さあ、テストが近づいてきたな」と思ったところから、それに備えるための勉強が始まり、それでなんとか、やりくりをしてきた。そんなこともあって、僕は「勉強がわからない人」の気持ちも多少わかるつもりでいる。わかっているのかどうかは、わからない。
ちなみに恥ずかしながら、鎌倉幕府も室町幕府も「その中身」についての知識は完全に抜け落ちている。室町幕府の話をしているときに、「大政奉還」がでてきても、僕の中では決して意外なことではない。そんなものである。
49当たり前が当たり前ではない
「勉強ができない人」がどれほどいるのかは分からないが、僕は「当たり前が当たり前に理解できない」ことの経験ばかりが豊富にあって、おそらくその「みんなにとっての当たり前」や「だってそうでしょ」という人の感性や感覚で処理されていく問題に、つまずきやすい人、転んでしまう人が「勉強ができない」と呼ばれる人なのではないか、と感じている。これは「勉強が苦手な人」とも言えるだろう。僕はそんな人の気持ちが、よくよくわかる、つもりでいる。僕も何度もそんな経験をしてきた記憶がある。
先ほど「社会」を例としたが、英語でも、数学でも、国語でも、理科でも、同様である。「なんとなく」でもできてしまう幅の広い人ほど、勉強がすいすいと進んでいきやすく、「なんとなく」でできる幅がせまい人ほど、勉強につまずく可能性は高いだろう。そして、つまずく回数が多ければ多いほど、それから離脱しようとする回数も多くなるのではないかと、想像できる。「できてしまう人」はおそらく「天才」と呼ばれ、「できてしまえない人」はおそらく「頭がよくない」と言われることになる。
その分類において、僕は「頭がよくない人」である。僕が「何もわかっていない」時というのは「本当に何もわかっていない」時である。
ただ、そういう特性を持つ人と持たない人がいる、ということを踏まえた上で、「頭が良くない人」が「勉強ができない人」であり続けなくてはならないかというと、必ずしもそうではない。「なんとなく」でできてしまえる部分が少ないのであれば、「なんとなく」でやらなければいいだけである。「知識が少ない」のなら、「知識を入れれば」いいだけである。「知識」を意識して入れて、「なんとなく」を使わずにやりくりをすればいい。僕はそのように考えてしまうので、「理解」できなくとも「暗記」をすることもあった。ただ「徳川慶喜-大政奉還」と覚えておくだけでも、それなりに点数になる。それならば、「そうやって」覚えておけばいいのである。「どういう道筋を経て、大政奉還にいたったのか」を人に説明できる必要はない。もちろん「そこまで」できるのなら、それに越したことはないが、「頭が良くない人」はそんなこと言っていられないのである。そんなこと言っている間に、ひとつ「持ち札」を増やした方が、なんだか愉快ではないだろうか。
僕の言う「暗記」が決してほめられた勉強法でないことは、重々承知である。しかし、「それでも」いいのではないだろうか。何も、「勉強法」が誰かによって定められているわけでもなければ、「こうしなければならない」というのもない。「やり方」は自分で好きなようにすればいいのである。僕はあまりゲームはやらないが、「この敵をどうやって倒すのか」を「あなた」が考えることと似ている。「好きなように」、「好きな方法で」、「好きな戦術で」戦えばいいのである。そして「それ」が「あなた」の勉強法である。「できないからやらなくなる」よりも、「できないなりに工夫してみる」方が、僕は面白く感じる。「できないこと」を受け入れてしまった方が、「次」がみえてくる。「好きなようにやる」という「次」が広がってくるのである。もっとも、「やめてしまった」ら、「次」はない。
もし「勉強ができないこと」に悩む状況があるとするなら、知識がない状態で、知識を入れようともせず、「何も持たないもの」が「何も持たずして」戦おうとしているときではないか、と僕は想像をする。「苦手だからやらない」選択をした人は「勉強ができないこと」ができない理由ではなく、「苦手なままだから」できないのではないだろうか。この「苦手だからできない」のか「やっていないからできない」のかは、「とりあえず何かをやってみないと」分からない。僕があげられる仮説としては、そのようなものになる。つまり、「勉強ができない人」というのは、「勉強をやってみて」ようやく成立する。勉強をやらずして、「勉強ができない」とは言いがたい。「言いがたい」というよりは「そうなのかどうか分からない」と言える。
僕は「勉強ができない人」の気持ちはよくわかるつもりである。「勉強が苦手な人」に特別な問題があるようにも感じない。ただ「できないまま」や「苦手なまま」にしておくことは、いささかもったいなく思えてしまう。当たり前のことが当たり前にはいかないなりに、「できること」をやってみてはどうだろうか、というのが僕からの提案である。
50当たり前をつくる勉強
僕にとっての勉強は「当たり前でないことを当たり前にする」ものである。「勉強」とは「できないことをできるようにすること」だと僕は考えているが、それに当てはめるとするなら、「当たり前にできないことを、当たり前にできるようにする」というものである。つまり、勉強をしたところで、僕は「頭が良くなる」わけでは、まったくない。「よくない頭」とどのようにして付き合っていくのか、を考えた結果が「勉強」である。「頭が良くないこと」は何一つ悪いことだとは思っていないし、これといって不自由もない。あるとすれば、他人よりもできることが少なく、できるようになるまでに時間がかかる、ということぐらいである。「少ない」と思うのなら増やそうとすればよく、「時間がかかる」のなら、時間をかければいいだけである。それをおそらく「個性」というのではないかと、思われる。皆が同じように、同じ熱量で、同じ時間をかけてできるようになるようならば、きっとそこに「個性」などない。
もしかしたら、「頭がいこと」と「勉強ができること」は必ずしも「同じもの」ではないのかもしれない。勉強は練習をすればできるようになるかもしれず、「頭の良さ」はそうは簡単に変えられるものではないだろう。それを「同じもの」として扱うのには、多少の無理がある。「練習したらできるようになった」のであれば、それは「練習」によるもので、それが「頭が良くなった」と解釈するのは、少々、強引である。別に「それ」を「頭が良くなった」と表現しても、何も問題はないが。「自分は頭が良くない」と認識できることも意義あることで、「頭が良くないなり」になんかしらの対応をして補っていけば、きっとそれほどの「障壁」はないように思われる。「自分は頭が良くない」というのは「悩み」ではなく、行動の方向を決定づけるものである。先にも述べたが、「勉強ができない」のではなく、「できないことを扱う」のが「勉強」である。もし、「勉強ができない」ならば、「勉強をする理由が見つかった」だけである。「やることがある」というのは、幸せなことである。もっとも、やりたくなければ、やる必要はない。「勉強なんか必要ない」という気持ちのいい心意気も、それはそれで悪くはないように思えなくもない。
僕が想像する「勉強がわからない人の気持ち」をさらに広げてみると、おそらく「勉強がわからない人」ほど、勉強から離れていく。離れたくなる。自分が「頭が良くないこと」を認識すると、頭を使わない方向に向かっていくのではないかと、思われる。「練習しましょう!」の合図を「天才のたたずまい」でかわして、「練習すること」を受け入れない。「天才」とは当然のように何事もできて、悩みが生まれ得ない生き物であると、僕は思っているが、「そのスタンス」で生きていくのなら、「悩む」はずはないだろう。悩む必要もないだろう。悩む権利もないだろう。「悩まない」のが「天才」である。「悩める」のは「練習をしてから」である。できることをやってから、ようやく「悩める」のである。できることをやらずして悩むとは、天才なのか、そうでないのか、非常に中途半端な立ち位置にいる、と言えないだろうか。僕にはそのように思える。「悩む」のであれば、まずは「自分は天才なのかそうでないのか」をはっきりさせてからのが、きっとよろしい。
残念ながら、僕は天才ではなかった。でも、それなりにごまかすことはできているように、自分では感じている。そしてこの「ごまかす」とは「受け入れる」ということである。「天才でないこと」を受け入れられれば、「天才ではない」なりに、生きていけばいいだけである。僕が思うに「その練習」として「勉強」は非常に役に立つ。「勉強」は「生きる」練習には適している。「できないことが多い」ことを「大変だ」と捉えるか、「面白い」と捉えるかは、それぞれの自由である。「勉強の楽しみ方」は決められているわけではない。
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