0円教育物語⑧ 匿名化に向かうしんどい学び

36点数を取ったから勝者、点数を取れなかったから敗者ではない
 勉強を「テストの点数」だけで片付けてしまうことも、「テストの点数の高低」だけで片付けてしまうことも、「勉強」の筋からはやや逸れている。勉強を「他人と競争するもの」と捉えることが、「勉強」では、無くしている。「勉強」は誰のためにやるのかといえば、他ならぬ「自分」のためであり、「誰かのために勉強をする」という人が存在するとしたら、「その人」はいったい「どこから」勉強を始めているのだろう。考えられることとしては、「その知識を教えることで他人の役に立とうとしている」とか「自分の凄さをひけらかすため」ではないかと思われる。ただ、見方によっては「他人の役に立てる自分」になろうとしているとも、「すごいと言われる自分」を目指しているとも思われるので、そうであるならば、それは「自分のため」である。「勉強」をすれば、「自分」の知識や思考が発達するため、「他人のために勉強をする」というのは、容易には理解し難い。もしかしたら、本物の仙人かもしれない。「勉強」とは「自分のため」にされるのが、自然である。「なんらかのなりたい自分」に近づくために、「勉強」をすると思われる。
 「自分のため」の勉強が、「他人との競争道具」になるときは、おそらく「勝つこと」が目的であり、勝つことで「すごいだろ?」と言うことが目的であろう。だが「勝つこと」が目的である人は、「勉強」である必要はない。「何かで勝ちたい」とか「何かで凄さを示したい」ために、「ちょうど勉強があったから」という理由で行われる勉強ではないかと思われる。それ自体悪いことではないが、「勉強でなくてもいい」のなら「勉強である必要」はない。そんな方が求める「強さ」とは、腕相撲で強かろうが、ジャンケンで強かろうが、声が大きかろうが、足が速かろうが、他人よりもモテることだろうが、「何でもいい」のだろう。ぜひ「何らかの」特技を見つけて欲しいと、僕は願ってやまない。無理して「勉強」である必要はない。そして「やる必要のない勉強」ほど退屈なものはないので、あまり「勉強」はおすすめできない。そして「勉強をしたい人」が「勉強をしたいわけでもない人」に合わせる必要など、まったくない。
 そして「無意識のうちに」繰り広げられる、いや、そのように「演出」される「点数を取った者が勝者」の世界線は「天才の溜まり場」としておけばいい。少なくとも僕のような凡人には、「そのような勝負」に参戦する資格はなかった。そして今もない。「点数を取れない者」は点数は取れないのである。僕は「凡人は点数は取れないものだ」とさえ思っている。どちらにしてもたいして様になる点数は取れないので、「点数が取れた人が勝者」の世界など、足を踏み入れることさえできないと、僕は思っている。そんなことが幸いして、「点数が取れなくても」何もへこむ必要を感じない上に、ショックを受けることもない。「負け」を誰かに宣告されたところで、「それが自然」であるために、自分としては、「果たして負けなのかどうか」がわからないほどである。おそらく「その勝負」に「自分で負けた」と判断できる人は「勝てる可能性」を信じていた人であろうし、「勝ちたい」と思っている人であろうし、「自分にはできることばかりだ」と信じてやまない、つまり「自分はある種の天才である」という自覚のある人の症状であると思われる。「できないことに遭遇すること」に「ショックを受ける」のは、「できることばかり」の人間の為せる業である。「できることばかり」の人間は、きっと「天才」である。僕も「天才」になりたいものである。
 つまり「点数を取れなかったら敗者である」という認識など、まったく必要ないのである。そしてそれは「ショック」を受けるものでも何でもない。ただただ「できないことがわかった」というだけである。そして「そのできないところ」から、「勉強」を始めればいいだけである。「できないこと」がショックを生むのなら、きっとそんな方は「自分は天才である」と信じたい人だろう。たまに風に乗ったものとして、耳にすることがある「勉強で挫折をした」という言葉は「自分が天才である可能性」に賭けているからこそ起こりうるのだろう。そして「私は勉強ができない」という言葉は「自分は天才だ」という言葉の裏返しなのだろう。勉強は「あなたができないこと」を克服しようとすることである。「勉強ができないこと」は自己否定の種でも何でもなく、自己否定できるのは「天才」だけであり、そもそも「できないこと」を勉強するのが「勉強」である。ないとは思われるが、あなたは「勉強ができないこと」を恥ずかしいことだとは思っていないだろうか。「勉強ができないこと」が人生を左右するとでも思い込んではいないだろうか。凡人は「できないから勉強する」のであって、「勉強ができない」とは「天才と比べている」から成立するものだと、僕には思える。もしそこに「恥ずかしいこと」があるとすれば、「勉強ができないこと」ではなくて、「天才と比べていること」である。「自分は天才なのではないか、と期待して止まない自分」はたしかに多少、恥ずかしさを覚えそうである。
 ここまでを踏まえると、「誰かと比べる勉強」は「天才の業」であるということ。あなたは「天才」だろうか。僕は凡人である。できないことだらけの凡人である。できないことだらけの凡人は、やることがたくさんあって、それはそれで面白いと、僕は思っている。「誰かと比べあって勉強ができる」とは、実に、実に、羨ましい。

37「勉強競争」の皮肉
 僕は「勉強競争」の皮肉を感じている。この「皮肉」とは、「勝てば勝つほど、匿名化するのではないか」というものである。
 「勉強」は基本的には「皆」に用意される。「義務教育」が行われ、少なくともその期間は、国民として「勉強」が日常になる。なかには「その期間」だけで「与えられる勉強」を終える方々もいるのだろうが、多くの人が、それに続いて高校に進学し、大学や短大、専門学校に進学し、さらに勉強をすると思われる。誰もが、どこかのタイミングで、またはある程度長期間にわたって、「勉強と関わって生きる時間」をもつほどに、「勉強」は「皆に関わるもの」である。
 この「皆に関わる」ということが、競争の火種になりやすくなるひとつの要因だと、僕は感じている。例えば「走る」とは日常的な運動で、これといって技術や練習がなくとも、「走ってください」と言われれば、できることであろう。学校では当然のごとく「50m走」が行われ、「持久走」が行われる。そして特別な理由がない限り「皆が競える」ものである。一般人にはまったく関係のないはずの、ウサイン・ボルトの世界記録であっても、必ずしも「他人事」ではない。自分が試しにその場で走ってみて、その記録を超えれば、もちろんそれは「世界記録」である。
 ただ「体操」はどうであろう。同じ運動であっても、「非日常」の運動である。オリンピックまではいかなくとも、「逆立ち」や「側転」や「バク転」は明らかに「非日常的運動」である。誰にとっても日常な運動ではなく、むしろ「それ」が日常の運動になっている人は貴重である。このような「非日常の運動」は、それに興味をもった人や、それを熱心に練習した人ができるようになるもので、皆ができるものではない。「皆」ができなければ、それだけ競争は起こりにくい。ボルトと自分の差を実感することはできても、内村航平と自分の差を実感することは頻繁にはないだろう。
 ちなみに僕は、柔道を小さい頃から高校までやっていた。柔道はまさに「非日常の運動」であり、どんなに運動神経がいい人だろうが、「柔道の動き」を知らないのであれば、そして練習をしたことがないのであれば、まったくできないものである。「ちょっと柔道をやろうよ」とはいかないもので、「誰もが参加」できるものではない。そうすると、自ずと「競争率」は低い。「ふらっと参加してみて、この上なく強い人」は皆無に近い。「柔道をやっている人」限定の競争になる。「走ってください」の調子で「柔道をやってください」とは、残念ながら、いかない。
 このような「日常」と「非日常」の関係からもわかるように、「日常なこと」の競争率は高い。競争率が高いということは、それだけ「似た人」がたくさんいる、ということである。「似た特性を持っている人」がたくさんいる、ということである。
 「勉強」は「日常」である。いつからか、「始めよう」と思わずとも「始まる」ものである。それが日常である以上、無条件に「勉強」は用意され、簡単に「誰かと比べること」ができるようになる。なぜ、簡単に誰かと比べられるようになるのかというと、「誰もがやるもの」だからである。そしてその「誰か」とは「通っている学校」や「クラス」といった狭いものではなく、顔も名前も知らない、どこかの誰かとも、比べることができてしまう。「東大に入った人」と「東大に入れなかった人」は、その両者が知り合いであろうがなかろうが、「比べること」ができる。「東大に入れたのか、入れなかったのか」という比較である。「だれだれくんは、あのテストで何点を取ったらしい」という噂と、「自分のそのテストの点数」を比べることは、簡単にできる。「皆にとっての日常」によって「簡単に」比較ができる。あなたは「名前も顔も知らない、遠く離れたどこかで柔道をやっている人」と「あなた」を比べたことがあるだろうか。そのように考えていただけると、おそらくわかりやすい。「あなた」が柔道に関わりのない方であるなら、「そんな人」のことなど考えたことはないはずである。それが「日常は比べやすい」ということの裏返しである。
 きっと「就職」も同様である。皆が就職活動をし、就職先を探すからこそ、「どこに就職できたか」が競争になる。「自分が入った会社」と「誰かが入った会社」を、それが自分限定のものさしであっても、「比べる」ことはさほど難しくない。「自分が入りたかった会社」なら、なおさら容易だろうと思われる。もっとも僕にはわからない。
 この「日常を競う」ことは悪いことでは決してない。むしろ些細なことを刺激にできることのポジティブな側面もあるように思われる。
 ただ、僕はそこには「皮肉」を感じる。その認識では、「走る」ことにおいては「足の速い人」が勝者になるだろう。「足が速ければ」勝者である。「勉強」においては「勉強ができるだけできる人」が勝者である。「お金」に関しては「稼げれば稼げるほど」勝者であろう。
 ここでは「その人が誰であるか」ではなくて、「足が速い人」が探され、「勉強ができる人」が探され、もしかしたら「東大に入った人」が探され、「お金持ちの人」が探される。「誰か」など、誰も興味がないのである。そんなことよりも「自分と誰かを比較すること」が重要で、それに「勝つこと」が気持ちよく「負けること」が気分が悪いもので、「その気持ちよさ」を探し求めているだけだろうと、思われる。とりあえず「頭がいいね」と言われたい、とりあえず「頭がいいこと」を示したい、とりあえず「勝ちたい」、ただそれだけだろうと、思われる。「自分と誰か」を比較する行為は、「自分」も「誰か」に比較される対象であり、「その比較」で「他者自身に負けたと思ってもらう」準備を自らしている、と言える。自分が「不特定の他者」に対して「証明できる手形」をもとうとすることは、自分が「誰かにとっての不特定の他者」になることを受け入れることであり、「その手形をもってしての自分」に留まろうとする行為である。つまり「自分」であること以上に「頭がいい人」であろうとし、「自分」である以上に「良い会社に入った人」であろうとし、「自分」である以上に「足の速い人」であろうとする行為である。僕の場合でいうと、「平井慎一郎」であること以上に「頭がいい人」であろうとするということである。それすなわち、「匿名化」である。
 例えば「せっかく頑張って就活して、会社に入れたのに、全然やりがいを感じられない」といった感情は、「匿名化」の終着点のようなものである。「せっかく小さい頃から勉強をしてきたのに、結局無駄だった」という感情も、同様である。「自分がやってきたこと」なのに、「自分がやってきた意味」を問いたくなることが「匿名化」の着地点であろうと、僕は感じる。「良いとされる会社に入ること」が、「頭がいいと言われること」が目標になると、それを達成すればするほど、「匿名化」していく。それが「みんながやること」であり、「誰かと比べること」であり、「自分から離れていくこと」である。「頭がいいとされる人」を目指す上で、それが「ある点数」や「ある偏差値」を指すのであれば、「その点数をとった他の人」と「その偏差値をもつ他の人」との違いは何になるだろうか。残念ながら「〇〇大学に行った人」は他にもたくさんいるのである。「あなた」ではなく「〇〇大学に行った人」が求められているのではないか。それは「〇〇大学に行った人」であれば、誰でも良いような世界線ではないだろうか。
 そしてこの世界観は、勝ったとされればされるほど、「匿名化」が加速していくものである。「勉強ができる人」になろうとすればするほど、「勉強ができる人」に着地する。「私」ではなく「勉強ができる人」に着地する。「勉強をする人」と「勉強で勝ちたい人」との違いは『「私」に近づくのか、「私」から離れていくのか』という点で、大きく違うと、僕には思える。

38みんなが参加する「勉強」の場
 「勉強」はみんなが参加する場である。勉強ができようができまいが、「勉強」を身近なものとしないで生きていくのは、非常に難しいことだろうと、思われる。ここでいう「勉強」は、必ずしもテストによって測られるものばかりではないが、「テストによって測るもの」に限定していけばしていくほど、「みんなが参加するもの」になる。もしかしたら、「そうではない勉強」の経験をする人は、意外にも少ないのかもしれない。学校のなかで完結するものも、しないものも「勉強」でいい。
 「テストにつながるもの」としての「勉強」のほうが、人間が「歩くこと」や「話すこと」とかと同じような「日常運動」だと思われる。「自身の何らかの思いを形にするための勉強」よりも、テストに備える勉強の方が、きっと誰もが共通なものとして、理解がしやすいのではないか、と僕は想像する。反対に「テストのために勉強をするのではない」という主張に違和感を覚える方もいるのではないか、と想像している。「勉強とはテストのためにやって、テストがないならやらなくてもいいもの」というものが一般的な認識であっても、驚くことではない。そして、「テスト」に始まり、「テスト」に終わるものとしての「勉強」が、ある人間の能力を決定するかのような、「そこでの勝敗」はその人の人生を左右するものになるとの錯覚をお持ちになっている方々も、きっといらっしゃることだろうと、僕は想像をしている。「テストがない勉強とは?」という発想である。
 学校が用意する「勉強」は常に「テスト」とともにある、と言える。授業は「テスト」のためにあり、「テスト」は「受験」のためにあり、「受験」は「テスト」を突破しないことには始まらない。その環境が、「勉強をする」ことよりも「テストを突破する」ことを目的とし得るのかもしれない。そして「そういう勉強」であればあるほど、実は「誰もが参加するもの」となる。「テストを突破しさえすればいい勉強」は「誰でも」参加ができる。「誰でも参加できる」ということは、「みんなが参加しやすい」ということであり、「みんなが参加する」ということはそれだけ競争がある、ということである。そこに「競争」があるのなら、「勝つ人」がいて「負ける人」がいるのが、自然な原理である。「競争」を繰り広げながら、「みんな違ってみんないい」という結論を見出そうとすることには、多少なりとも、無理がある。「勝つ人」と「負ける人」が生まれるのが「競争」であろう。
 それに参加するのかしないのかは、あくまでも「自由」である。その競争が面白そうであれば、参加すればいいし、参加したくないのであれば、無理をして参加をする必要はない。そのようなものである。
 テストによって測られる勉強が、果たしてそこまで崇高なもの、「みんなで競い合うもの」なのかどうかというのも、実に微妙である。というのも、「いかに暗記をしてきたか」が問われる問題も「テスト」になると、突然「崇高なもの」に様変わりする感はあるが、所詮「暗記」である。頭を使うというよりは、どちらかというと「機械的な能力」であるし、「コンピューター的能力」である。機械でもなく、コンピューターでもない人間が、「その能力を鍛えること」が果たしてどのような価値を持つのかは、いささか疑問である。機械でもコンピューターでもない人間が、機械的な能力、コンピューター的能力を競って盛り上がるとは、人間は「機械」や「コンピューター」になりたいのだろうか。それに進化するための準備として、私たちは「何かを覚えること」が求められているのだろうか。僕には、わからない。
 私たちの生活のどこかのタイミングで組み込まれている「勉強」が「テストなしには」語れないものであるから、勉強は「テストで測定するもの」となり、そこで皆が競争をする。「みんな参加」の競争をする。みんなが参加するということは、それだけ魅力的な何かがあるのであろう。
 この勉強社会に見られる「みんなが参加をする」ことを考えてみたい。参加する人が多ければ多いほど、競争は大変になるだろう。そして、参加する人が多ければ多いほど、先ほど述べた「匿名化」は加速するだろう。「その世界で勝つこと」は一見「自分」を確立しようとする行為に思えるが、実は「自分と他人」との違いを分かりにくくする行為でもある。「頑張る」とか「一生懸命になる」とかいったことはたしかに「あなた」の素晴らしさかもしれないが、それを「数値」にすべてを集約してしまうと、「同じ数値」を手にした人との違いは「ない」ことになる。「どんな能力か」よりも「どんな数値を出したか」を競えば競うほど、「同じ数値の人」との違いは見出しづらい。そして「勉強界」で処理される能力は、どちらかというと機械的な、コンピューター的な能力も多く含まれる。勉強が「思考する必要なしに当たり前に用意されている」という入り口をもっていることも、「その人のランクを学歴を見て判断しようとする」という出口に向かっていくことも、どちらも「コンピュータ的」であることは否めない。「人間を処理しやすくするための学歴」と見て取れないこともない。やや残酷である。
 もしかしたら、たくさんの人をわかりやすく分類するために「その方法」を用いているのかもしれない。
 そのように考えると、僕は必ずしも「勉強界を生き残ること」自体にそこまでの価値があるようには思えない。「勉強をすること」には価値があり、「勉強に向かうこと」も価値があり、「勉強をしよう」と思うことにも価値があり、「そのプロセスに身を置くこと」にも価値があるのかもしれないが、果たしてそのゴールが「勉強界の勝者になること」でいいのかどうかは、いささか疑問である。「ただ勉強の数値を高めた人」という「匿名化」を感じずにはいられない。そしてそのジレンマを抱えているだろう人は容易に想像できる。「いったい何のために勉強をしてきたのか」というジレンマである。
 いずれにしても「自己判断」の「勝敗」であるなら、「勝敗を決める」ということを自己判断でやめてしまえばいいのではないか、と僕は思ってしまう。「勝った」としても「私は勝った」という自己判断、「負けた」としても「私は負けた」という自己判断。それは楽しいのだろうか。

39「自己表現の場」となった勉強
 「数値」が伴う勉強界には、簡単に順位がつく。順位が上のほうにくれば、それは一見「勝者」のように見えるだろうし、順位が下の方にくれば、それは一見「敗者」のように見えるだろう。そのような「勝敗」はある種の「自己表現の場」をつくる。「私はこのぐらい頭がいい」や「僕はこんなにもできる」といった表現である。「勉強」がその表現のためのツールとなる。「私の凄さ」を表す「ツール」である。
 人間は「見えやすいもの」に非常に弱い。そして「見えやすいもの」に強く影響を受ける。「自分が勉強をしてどうなったか」を目に見えやすくしようとすると、「何らかの数値を高めること」で確認したくなる。たしかに、「勉強をした」のなら、何らかの成果を確認したくなるものである。純粋に「知らないことを調べてみる」という積み重ねをモチベーションにするよりも、「テストで何点取れるようになったか」の方が、おそらく刺激的である。「数値を追いかけたくなること」は人間の性だと、思われる。
 「勉強競争」は際限がない。公立の学校であれば、最初は様々な学力をもった子どもたちが「小学校」に集まる。だいたい似たようなメンバーで「中学校」に進学する。中学校のなかでの学力をもとに、それぞれのレベルに応じて「高校」に進学する。高校には、似たようなレベルの学力をもった子どもたちが集まる。「中学校時点」で似た学力を持つ人たちの集まりである。その似た者同士のなかでの学力をもとに、「大学」や「専門学校」に進学をする。ここで不思議なことに、「似たもの同士」であったはずの子どもたちが、さらに「それぞれのレベル」に応じて、進路を決めていく。「この過程」のなかに、何らかの「勉強競争」が隠れている、と言える。最初は無作為に集められたところから、だんだん似たもの同士になっていくが、その先ではまた「それが無作為であったかのように」仕分けがされていく。よく考えると、非常に不思議な流れである。「似たもの同士」が集まって、何らかの「競い合い」をしているのである。そして競い合った先には、また「競い合い」が始まるのである。おそらく「その先」でもまた「競い合い」は始まる。絞れば絞るほど、水が垂れてくる雑巾のようである。「勉強競争」が「絞り切った雑巾」に到達することは、想像するに、ない。つまり、際限がないのである。
 「際限のない競争」への参加はもちろん自由である。ただ、「参加しないこと」も自由である。やりたい人がやればいいもの、である。やってもやっても終わらない競争を、やりたくない人が、無理をしてやらなくてはいけない理由など、考えてみても、ない。そして、たとえ「どこかの地点」での競争に勝ったからといって、その人が「優れている」という証明がされるわけではなく、どこかで勝ったら、また競争が始まる、というだけである。もしかしたら、「すぐに負けること」が一番競争をしなくて済む方法かもしれない。「競争を続けたい人」は積極的に、いつなんどきも勝ちに行く必要があるだろうが、「競争なんかしたくない人」はむしろ、すぐに負けに行ったほうがいいだろう。「勝った人」にもそれなりの代償があり、「負けた人」にもそれなりの恩恵があると思われるので、「どちらがいいか」ということでは、まったくない。「好きに、自由に」捉えればいい。「そこで自己表現をするんだ」という意気込みで「私はすごいでしょ!」の証明を手にしようとすることは、それなりに疲れそうなことではあるが、それはそれで、楽しそうである。反対に「それに負けた」と思ったところで、「負けたこと」の良さを見失っては、もったいない。つまり「他人より勉強ができないこと」の何が問題なのか、ということである。
 ちなみに僕は「競争」にはまったく興味をもっていない。いや、「もたなくなった」というほうが、おそらく適切である。「競争に勝つこと」を志していた頃もたしかにあったが、勝ったところで、また競争が始まる、という「永遠の競争」が待っていることに、あるときに気がついてしまったので、非常に幸運なことに「競争をしないこと」に興味をもつようになった。そして、それのほうが、僕の性には合っているように感じている。
 勉強で自己表現をしようと思ったら、おそらく「他人に勝つこと」が条件になる。「自分は大したことのない人間である」ということを「証明」するために、わざわざ「勉強ができないこと」を「示そう!」と考える人は、いないと思われる。「凄さ」を示そうとするものになるだろう。「どんな学歴を持っているか」を自己と結びつけて、「それ」によって「私はこのような人間である」と表現するための準備を、「勉強を頑張る」ことで、する。「個性」を「勉強」のなかに見出す、と言えるかもしれない。その人間の「頭の良さ」を、「優しさ」や「強さ」や「穏やかさ」などと同じように「抽象的なもの」にしておかず、「より具体的に」しようとする行為である。もっとも、「それが正確かどうか」は誰にもわかりえない。「頭がいい」といっても、「どのような頭がいいのか」はここでは具体的にすることは、できていない。
 「自己を表現する」のであれば、必ずしも「勉強」である必要はない。「ピアノが弾ける」ことも「歌を歌える」ことも、「読書が好き」なことでも、「運動が好き」ということでも「何であっても」自己を表現することは、可能である。それでも「勉強で」表現したいとするのなら、どんな理由が考えられるだろうか。勉強で表現しようとすると、同じように表現できた人たちが集められて、また「そこで表現すること」が求められる。いささか「自己表現をする」には効率が悪いように思えなくもない。「今いる環境」で「頭がいいでしょ!」と証明したところで、証明できたところで、次は「より似た人たち」のなかで証明することが求められる。マトリョーシカのようなこの構造を受け入れられる人が、「勉強で自己表現ができる人」なのだろうと、僕は思っている。

40「勉強」は匿名化の入口かもしれない
 「勉強」は人間を「数値化」してくれる。テストの点数は何点か、成績表はいくつか、偏差値はどのぐらいか。そのときの出来、ある期間の総合的な出来、その人の勉強の立ち位置、これらをわかりやすく、「数値化」してくれる。「人間の学力」という、一言ではどうにもこうにも表すことができない「複雑さ」を「数字」にすることで、非常にわかりやすいものにしてくれる。その人がどれほどその分野が得意かは、「その分野のテスト」をやってみれば「数字」として表れ、「そのテストに向けてどれほど準備してきたのか」なども、おそらくは「その数字」に表れる。「誰かと誰か」の学力、それが「まったくの赤の他人」であっても、「数字」によって比較ができる。便利なのか便利でないのかはさておいて、ある面においては「数値化される」ことは非常に都合がいいことであろう。
 見方を変えると、「勉強の数値化」は、ある種の「人の数値化」とも言っていい。「どれほどその人が優秀なのか」を見極める手段として「学力の数値」が何らかの形で使われるのなら、勉強は人間を「数値化」する。本来「その人が優秀なのかどうか」はある程度の時間、何らかの作業や活動を共にすることで、求めている能力を持っているか持っていないのかを見極めなくてはならないが、そう複雑な過程を経て「その人が優秀かどうか」を分析している時間はとっていられないので、おそらく履歴書には学歴を書くようになっている。「この人はどんな人か」を見極めるための道具として、学歴をみるだろうし、その「学歴を見る目」は「どれほどの偏差値か」というものに限定されると思われる。たくさんの人が就職活動をするにおいて、「本当にその人が優秀なのか」を見極めることができなくとも、「学歴の数値」で「大まかな優秀さ」を推測することは可能である。「その人」のことは分からずとも、その人を「学歴の数値」で想像してみることはできる。「その人」を「学歴の数値」に置き換えることで、採用する側の「就職活動」を円滑にしていると、思われる。「受験」においても、合格、不合格は「番号」でおそらく呼ばれる。「あなた」のことはどうでもよく、「どれほどの点数をとった、何番の人」という動かし方である。「わかりやすい」反面、どこか味気なさを感じてしまうのは、僕だけだろうか。あるテストで「僕とまったく同じ点数を取った人間」と「僕」とでは、「違う人間」である。決して「同じ人間」ではない。
 このように考えると、それがいいのか悪いのかは別にして、「勉強界」は「違う人間」を当たり前に「同じ人間」扱いをする空間である。「その人」に目を向けず、「その人の点数」に目を向ける空間である。「競争」が加速すればするほど、より「その人の点数」に焦点が当たる。「競争が加速する」、つまり「熱心に勉強をする人たちが競争し合う」ということであるが、それによって、より「点数」が勝敗を決するのなら、「激しければ激しいほど」に、人間の番号化、人間の数値化は強まるだろうと、思われる。「そうする」ことで面倒なものを単純にし、わかりにくいものを明確にするのである。「そうしないとやっていられない」とも言えるかもしれない。
 「数値化」とは匿名化である。「その人の名前」をあまり必要とはしないという点で、「匿名化」である。この「匿名化」は競争が加速すればするほどに、強くなる。そして、「勉強界」は「匿名化」を求める。「あなたの個性」だとか「あなたの人間性」だとかには、さほど興味がなく、「あなたは何点をとった人なのか」にものすごい興味があるのが、勉強界である。これは一概に「良くないこと」ではおそらくない。これによる「良い面」も必ずある。ただ、「勉強は匿名化の入り口かもしれない」という仮説が考えられないこともなさそうであるように、僕は感じる。

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