0円教育物語⑰ 自分で決めて、自分で広げる。自分の視点を大切に。

81「できるライン」は自分で決めればいい
 「勉強ができる」とは曖昧な概念である。なんの基準もなく、なんの定義もない、実に「個人的なもの」である。「その人がどの程度やりたいか」によって定まるものである。つまり「私は勉強ができます!」と人に伝える必要など、まったくないのである。というのも、「個人的なもの」である以上、「自分で決めればいい」のである。「自分で決めて」いいのである。「このぐらい頑張りたい!」と自分で決めて、「それ」に向かってやればいい。誰かに「頭がいい」と認められる必要もなければ、誰かに「自分は頭がいいこと」を証明しようとする必要もない。勉強とは、「個人的なもの」である。
 「勉強ができる」は、自分で決めればいい。自分で決めて、それが「勉強ができる人なのかどうか」など、どうでもいい。「誰かよりも勉強ができる」必要はどこにもないのである。「0円教育圏」に生きようとしたら、どこにも「基準」などない。せめての基準は「やりたいようにやれているか」というぐらいである。自ら「解決したい!」と思うことなしに色味を帯びない空間においては、「やりたいようにやってみる」以外には何もない。「仕方なくやる」ことなど、誰にも求められない。「やりたくない」という感情に従うこともまた、「やりたいように」やる方法である。なんてったって「0円」である。
 自分で定める「勉強ができる」というラインは、つまりは「目標」である。目標を定めずに、自らの行動を具体的にしていくことは難しいので、それでは目標を定めましょう、ということである。そしてその「目標」は自由である。何よりも大切なのは「自ら定めて、自ら向かう」ことであり、「0円教育圏」は「そういう場」である。なんと自由なことか。自由に定めて、自由に向かう。「やらされる」など起こりえない。
 「目標」は、自ら「持とう!」と思わないことにはおそらく見つからず、自ら納得しないことには、それは「目標」にはなりえないだろうから、そしてその「目標」なしに「何かを解決しよう」とは思わないだろうので、「0円教育圏」の原動力は「その人が目標を持とうとするか」ということになる。「勉強」に関する目標がないならば、勉強などまったくする必要はない空間である。「勉強をしたい!」と思えば勉強をすればよく、「勉強はしたくない!」と思うのならやらなければ良い、親切なのか不親切なのか、まったくわからない、そんな空間である。ただもしそれを「不親切」だと感じるのであれば、おそらく、多少「勉強をしたい」という感情が見え隠れしている印だろうから、いつかのタイミングで「勉強がしたい!」感情が現れてくるだろうと、思われる。「そうしたら」やればいいのである。「やらされる勉強」は非常にお金がかかるだろうが、「無理をしてまで、お金をかけて勉強をする」必要はない。それなら何か、「欲しいもの」を買った方が良さそうである。おそらく「お金」は有限である。「お金は無限だ」と感じている方はいるだろうが、多くはないと思われる。
 自分で目標を立てて、自分でそれに向かっていくことは、いうまでもなく「0円」である。「向かう過程」でなんらかのお金が発生することは考えられ、「その環境」があるのかないのかは「0円教育圏を作ろうとする側」の課題であろう。「いかにして0円で勉強ができる空間を作るか」、そしていかにしてそれを「満足いくものにするか」は課題である。「自分の目でいかにして資本を見つけていくか」ということでもあろう。
 ただ、その「0円でできること」をせずして、お金をかけて勉強をしている人も多いのではないか、と僕は感じている。「勉強にはお金がかかる」と嘆きつつ「お金のかからないこと」の精度が良くない、ということである。つまり、「目標をもたずして、なあなあで仕方なく勉強をしている」のではないか。この場合、問題は「勉強にはお金がかかること」ではなく、「かけているお金が空回りをしている感があること」である。せっかくお金をかけているのに、それに見合った成果やそれ相応の対価がないことが、おそらく問題である。
 「子ども」の側は、やりたくもないことにお金をかけられて、「お金をかけているんだから頑張りなさい」と言われ、「頑張らされていること」で成果を求められ、成果が出せないことに不満をもたれる、という悪循環。「大人」の側は「あなたのためを思ってお金を出してやっているのに、なぜ頑張らないのだ」という悪循環。それならお金をかけて勉強する必要などないのではないか、と僕は無責任にも思ってしまうが、きっと「そうはいかない」理由が何かあるのだろうと想像される。「勉強に遅れること」の恐怖感、「勉強についていけなくなること」の残酷さを、大人、つまり親御さんの側は感じているのではないか。僕には想像しかできないが、おそらくそのようなことだと思われる。僕は、勉強に遅れること、ついていけなくなることはそこまで問題だとは思わない。それも含めて「やりたくなったら、そこから始めればいいのではないか」と思ってしまう。たまたま背が低かった、と同様に、たまたま勉強が苦手だった、ということに過ぎないのではないか、と思ってしまう。もしかしたら違うのかもしれない。
 ひとまず、お金をかけて勉強をするにしても、お金をかけずに勉強をしようとしても、「勉強をしよう!」と思うに至ったのなら、「目標」を決めてみてはいかがだろうか。どちらの場合も、まずはそこから、である。「目標」は自由に自分で、好きなように自分で決められるものである。それを「勉強ができるようになる」と呼んで、なんら問題はない。どんな目標であれ、目標を突破すること自体を「頭がいい」として、純粋にそれに向かっていけば、十分楽しいのではないか。「頭が良くなりたい」は曖昧な概念だが、「目標を達成する」ことが、その人にとって「頭が良くなること」との認識で、何一つ差支えない。改めて、勉強は「個人的なもの」である。

82体育も一つの学習機会とするならば
 0円教育番外編。0円教育は机の上だけのものではない。学校でも「体育」があるように、体を鍛えること、強くすること、運動することもまた、立派な学習の機会である。人間である以上、体を動かし、汗を流し、疲労感を感じることも時には必要である。それによって、気持ちが良くなることは、机の上での「勉強」においてもいい効果があるのではないかと思われる。「0円で体を鍛える」を考えてみたい。
 運動は「0円」でできる。「勉強をする」よりも、運動の方が、楽に0円でできてしまう。
 まず、最も簡単なところでいくと、「歩くこと」である。私たちの生活には、当たり前のように「道」がある。道路がある。歩道がある。田舎であればほとんど車が通らないような道路もあるだろう。そこを歩くのである。1時間も歩けば、かなりの運動になる。まさに「0円運動」である。
 「0円運動」も原動力は「意志」である。「歩こう」と思えば、歩ける環境が、私たちの生活には「当たり前に」用意されている。運動不足によって不健康になってしまえば、病院に行くようになるだろうが、「病院に行って健康になる」のにはお金がかかる。「お金がかからないうち」から、「0円運動」をしておけば、その予防になると考えると、「0円運動」は高価である。「病院にかかる前に意志を持って行動をする」とは「高価」なのである。「それ」によって健康になるなら、病院にかかる分と同じか、それ以上の価値が「0円運動」にはあるとみても、問題はなさそうである。運動は「0円」でできる。
 もちろん、走ってもいい。長距離走だろうが、短距離走だろうが、「走れる環境」はたくさんある。そしてそれは「無料」である。かかる費用は「自ら動かなくてはならない」というものだけである。そしてそれを「面倒に感じる」というぐらいである。もちろん、面倒に感じて、やりたくないのなら、やる必要などない。「その手間」に比べれば、「体調を壊したときに医療費を出した方がいい」と考えるのもまた一つの考え方である。そしておそらく、「やりたくない時」は「やる時」ではない。勉強も運動も、お金をかけずにやろうと思ったら、「自ら動く」という手間は省略できない。それは仕方のないことだろう。「お金」を動かすか、「意志」を動かすか、どちらを選ぶのかという問題である。もっとも、「意志で運動をしたから」といって、必ずしも「健康になる」とは限らない。ただそれは「お金を出したから」といって、すべての病気が治るわけではないのと、同様である。「どちらを選ぶか」という選択の問題と言えるだろう。
 ちなみに僕は、できる限り、歩くようにしている。走るのはあまり得意ではなく、なんだか継続できる感がないので、もう少し楽に運動をしようと、考えている。僕にとって、運動は「続けること」を何よりもの優先事項としているので、「続かなさそうなこと」はやらないようにしている。「歩く」といっても「散歩をする」というよりは、移動手段として「歩き」を取り入れている程度である。車を使わずに歩く、バスを使わずに歩く、電車を使わずに歩く、たまに散歩をする。それだけでも結構歩くことができる。一日1万歩も、そう難しいことではない。それによって果たして健康になっているのかはさておいて、「今日も一万歩歩いた」という事実を確認するだけでも、少しの気分転換になり、少々の達成感を感じることができる。「その喜びを得られる」というだけでも、僕にとっては「0円運動」は価値のあるものである。実際、多少の疲労感も得られ、よく眠ることができる。達成感を感じられて、疲労感を感じられて、ぐっすり眠ることができれば、それだけで御の字である。僕はそのように思っている。
 筋力トレーニングだって、「0円」でできる。よっぽどのアスリートでなければ、器具など必要ないのではないか、というのが0円運動を楽しむ、僕の考えである。家の中で腹筋、背筋、腕立て、スクワットなどをやれば、それなりに筋トレはできる。負荷が足りないと思えば、回数を増やせばいいだけである。少なくともどれも100回を超えてくれば、それなりに疲れる。「負荷が足りない」なんてことはおそらくない。筋トレは素人がやる分には、自分の体重を使って定期的にやれば、それなりな筋肉はつく。それで十分である。そしてそれは「0円」である。「そのスペースを確保する」程度の費用である。
 「運動をしよう!」と思い立ったら、すぐにジムに入ろうとする人がいる。ジムに通っておられる方も多いだろうと思われる。たしかにジムに通えばいい施設があったり、いい指導者がいたり、ともに鍛え合う仲間たちにも出会えるだろうと、思われる。僕はジムに通ってはいないのであまり詳しくは知らないが、「ジムにはジムの良さがある」のだろう。ただ、ジムにはお金がかかる。「ジムのいいところ」を味わうためにはお金がかかってしまう。月額なのか、年会費なのか、毎回の支払いなのか、僕は詳しくはない。
 そのお金は「何に」対して払われているのかというと、「ジムで運動をする」ということである。「運動をする」を解決してくれるのではなく、「ジムで運動をする」を解決してくれるのである。「運動をしたい!」気持ちではなく、「ジムで運動をしたい!」気持ちを満たしてくれるものである。別に「運動すること」にお金がかかっているわけではない。「ジムで運動をすること」にお金がかかっているのである。そこは勘違いしないよう、注意が必要な人もいらっしゃるかもしれない。
 「運動は一人ではできないもの」という前提での広告を、頻繁に目にする。耳にもする。辛い、きつい、しんどい、面倒、頑張れない、などなどである。ただ僕は「それは運動をしたくないだけなのではないか」と思えてならない。「運動をしたい!」という感情を「一番に」満たしたい人は、おそらく「喜んで」それらの感情を受け入れる。「運動をしたい」のであれば、「運動をする」ことに焦点が当たるはずである。それにもかかわらず、運動による辛さ、しんどさ、面倒さを感じるようであれば、それはおそらく「運動がしたくない」のだ。「運動をしたくない人」向けにそのような広告はうたれる。つまり、「お金がかかる」のは「やりたくないことをやろうとするから」と言える。「やりたい人」は「そんなこと」は言われなくとも受け入れる。それを楽しむ人が「運動をやりたい人」なのである。「やらされること」にはお金がかかるのが世の常なのかもしれない。
 「運動をしたい!」のであれば、運動をすればいいのである。今この場、この瞬間から街を歩き始めればいいのである。そしてそれは「0円」である。「運動をしたい」とはそういうことである。負荷が足りないのであれば、走ればいいのである。ただそれだけである。「運動は0円でできる」とは、ある意味で「当たり前のこと」である。僕は非常につまらないことを述べている。
 もっとも、「ジムに通うこと」は何も問題のあることではない。実際、家で一人で腕立てをするよりも、ベンチプレスを持ち上げた方が、より「かっこいい筋肉」をつけられそうである。より力持ちになれそうである。「それ」を目当てにトレーニングすることは自由である。「どういう選択をするか」に尽きるだろう。
 僕は運動は「0円でもできるもの」だと感じている。

83「自ら生きる」姿勢
 「0円教育圏」では、個々人がそれぞれに「自ら生きる」ことが求められる。「自ら生きる」とは、自ら思考をするということであり、自ら感情の変化に気がつくことであり、自ら学びを求めることであり、自ら実践し、自ら行動することである。そこに「待ちの姿勢」などない。「ない」というよりも、待っていては「0円資本」を受け取ることなどできない。「0円資本」とは「ない」から0円ではなく、「待ちの姿勢では受け取れない」から0円である。「0円だから」誰もが見逃すのであって、多くの人が「待ちの姿勢」でいるから見逃すのであって、「0円のものがある」と期待しないから取りこぼすのであって、「0円には価値がない」と思い込むから「見えてこない」のである。「自ら生きる姿勢」なくして、「0円資本」は受け取れない。もちろん「受け取らなくてはいけないもの」でもなんでもない。
 「探そう!」と思う人でなければ、例えば「無料塾」の存在も「見つけられること」はない。「勉強をしたい!」と考える方が、「でもお金はかけられない」と思ったとして、「でも勉強ができるところを探したい」と思ってこそようやく「無料塾」は色味を帯びてくる。決して「しなければならないもの」ではない勉強だからこそ、「自由」に基づいていて、「やらされる」必要など、微塵もない。ただそれは「自ら生きる姿勢」によって動き出すものなのである。
 僕が例にしておげてみた、具体的な「0円資本」も、実は、資本でもなんでもないのである。「資本にする」のは「その人次第」でしかない。学校の先生だって、親御さんだって、家族だって、友だちだって、近所のおじちゃんおばちゃんだって、図書館だって、無料塾だって、きょうえい塾だって、実際は、なんの資本でもないのである。「ただそこにそういうものがあるだけ」に過ぎないのである。それを資本とみるのか、その通り「何もないもの」と見るのかは、いうまでもなく「自由」である。本来、僕が「これは資本だ」というもののなかに「僕が用意したもの」を挙げていること自体、おかしな話である。「僕の目線」から客観的にみてみようとするとそれらは「0円資本」であり、「無料塾」は「0円資本」であり、そして「きょうえい塾」はそんなものを目指している、という紹介である。僕が提供しているもの、提供できるもの自体、それは「資本」ではまったくない。少なくとも「僕が」それを「資本」と呼ぶことはできない。「0円資本」とはそういうものであり、「0円教育圏」とはそういう空間である。
 「0円教育圏」はジャングルである。「そこで生きる」とは冒険である。その冒険には「自ら生きること」が求められる。子どもの勉強に悩む親御さんであれば、「親御さんの目線」からの冒険が求められ、子どもたち自身であれば「その目線」からの冒険が求められる。僕はその冒険をともにできる空間を作りたい。そんな環境を整えたい。「頑張ってください」というだけに終わらない支援の方法を探したい。「見えるはずのものをしっかりと見る」ということが、おそらく「見えないものを見つけること」だろうと、僕は感じている。見えないものを見ようとするなら、そしてそこに希少性があると思うのなら、まずは「見えるものをしっかりと見ること」である。それは「自ら生きる姿勢」であり、「0円教育圏」である。「お金がないと勉強ができない」とは「見えているはずのもの」を見ようとしている行為ではない。「見えているものを見ずにいる」、そんな態度ではないだろうか。僕はそのように感じている。
 僕はこれまで、そのような視点を持ててはいなかった。「何か与えられること」が当たり前だと思っていた上に、何事も「そういうもの」で片付ける態度であった。つまり「勉強にはお金がかかって仕方がない」と思い込んでいた。「お金がないから勉強ができない」というのは当然のことであり、解決できることではなく、「自分はそうではなかったこと」を密かに喜んでいた。本当にダメな人間である。「自分はそうでなくてよかった」という発想がどれほど社会を貧しくさせるか、考えただけでも情けない。「自分はそうでなかったこと」は「幸運なこと」でもなんでもないのである。むしろ「視点の欠如」を招く不幸ではないかとさえ、思える。「そう生まれた人」と「そうでなく生まれた人」がどちらが幸せで、どちらが不幸せか、という天秤は、「何かを解決する行為」ではない。「何も変化を起こさない行為」である。「何も変化を起こさない行為」に「よかった、よくなかった」と一喜一憂していては、人間は退化していくのではないか。「変わらないことが一番の退化」と誰かが言っているのを聞いたことがあるが、「退化を楽しむ人間たち」では「そのつまらなさ」にいつか飽きてしまうだろう。僕自身も反省が必要である。

84「意味のないこと」は意味がなくなる
 僕は勝手ながらに「0円教育」を拡大させていくつもりでいる。この「拡大」とは「たくさんの人が知って、たくさんの人が0円教育を受ける」というものではない。「そうあること」によって多くの人が今以上に幸せになるならそれはそれで嬉しいことだが、一番は、僕が思考を拡大させていくことである。「僕にできること」はその程度である。「それをどう受け取ってくれるか」は「受け取ってくれる人」にかかっている。当然それは「僕の手柄」であるはずがない。
 「自ら生きる」とは、自分の思考を拡大させていくことなのかもしれない。常に探し続け、常に可能性を信じ続ける。そのためには「思考」で止まっていては本末転倒で、それに伴う「行動」が必要である。「思考を続ける」ためには自然と行動も伴うだろう。それが「思考の拡大」である。僕が僕の意志によってできることは、そのぐらいである。
 「きょうえい塾」をはじめてまだ間もないが、この短期間にも、奇跡の出会いがあった。きょうえい塾に参加してくれている子が早速2名いてくれた。今では5名である。なんとも奇跡である。「思考の拡大」の先には、こんな奇跡が待っている。この喜びは何にも変え難い。「拡大」は「奇跡」を呼ぶのかもしれない。そんな期待をしている。
 僕は「意味を問うこと」が嫌いである。「それに意味があるのかどうか」を考えることが好きではない。この「意味」を考えていては「思考の拡大」などできない。「その行動には意味があるのか」をいちいち問いていては、何事も始まらない。意味があろうがなかろうが、そのとき意味を感じようが感じまいが、「思考のままに」動くからこそ、何かが開けてくるのである。「開けるだろう方向」に「開こうとすること」は、おそらくもうすでに、「誰か」がやっていることである。別に「特別な存在になりたい」ということではなくて、「誰かがやっていること」に近づいていこうとする行為は「目に見えるもの」を見ているだけの行為である。それが悪いわけではないが、「目に見えるもの」だけを追いかけるのは「勉強にはお金がかかるから仕方がないね」と嘆く行為と同じである。「嘆いている」場合ではないと、僕は感じている。
 人間は非常に優秀な生き物であり、人間が「意味がない」と断定してしまうと、「そのもの」に意味を持たなくなる。「勉強」においても、そうである。「勉強なんか意味がない」と言ってしまえば、少なくとも「そう思う人」にとっては、そうなってしまう。二次関数なんて意味がない、三角関数なんて意味がない、古文なんて意味がない、読書なんて意味がない、と言ってしまえば、「そのとおり」なのである。もちろん、0円教育なんて意味がない、と言ってしまば、「そのとおり」である。
 つまり、「意味がないこと」をつくるのは「人間」なのである。人間が「意味をなくす」のである。一方で、人間が「意味をつくる」こともできるのである。「意味を探す」こともできるのである。「意味を見出す」こともできるのである。僕の「勉強」に対するスタンスはそのようなものに基づいている。
 だから「やらされる必要」などまったくないのである。「仕方なくやる必要」などないのである。やりたくなければ、やらなければいい、ただそれだけなのである。これはどこからか見ると「冷たく」解釈されるかもしれないが、そこには「自由」が残されている、ということである。「何に意味を見出すか」は実に自由に開かれている。なんと素晴らしいことだろうか。
 僕のやることには、まったく何の意味もない。僕は「意味がないこと」を探している。ただ、「意味がないことを探す意味」を感じている。「意味の見出し方」は自由である。僕が「勉強」に対して見出す意味は、正解でもなんでもない。いや、おそらく間違っている。大間違いの意味を「勉強」に感じている。だが「それでいい」のではないか、と考えている。「できないことをできるようにする過程を楽しむ」必要は、はなからないだろう。ただ「そこ」に何かを見出そうとすると、何かが動き出すのである。それだけ「自由」である。意味のないことの意味を探せるほどに、「自由」である。
 勉強したって意味がない?ごもっともであり、大正解である。

85視野を広げる
 「0円教育圏」で生きるには「視野を広げる」必要がある。視野を広げようとしないことには、何も見えず、何も見つからず、何も進展していかない。止まってしまったら「そこまで」である。値段をつけて、誰かが「待ってくれている」ことはない。
 これは繰り返し述べていることではあるが、「三角関数」それ自体、数学をやらなくなってから、目にする機会はさほどない。「数学」に関わる職業、例えば学校の先生だとか、研究者であれば、おそらくずっと関わっていくのだろうと思われるが、ほとんどの人にとっては「目にしないもの」となる。少なくとも僕は、数学をやらなくなってから目にすることはない。ではなぜ、「三角関数」を学ぶのかというと、これはあくまでも僕の見解ではあるが、『「三角関数」という概念を知らないから』ではないだろうか。「それは知らない概念だから」学ぶのである。もしかしたら、三角関数を知っていると、こんないいことがある、という何かがあるのかもしれず、それを「知っている人」もいるのかもしれないが、残念ながら、僕はまだそれを知らない。「三角関数」それ自体による恩恵はまだ受けていない。せいぜい、「当時のテストの問題に対応できた」ぐらいの喜びである。ただ、「その喜び」に留まるものかというと、まったくそんなことはない。日常生活ではほとんど目にしないような「概念」を、知らなくても済んだであろう「概念」を「知る機会」を得られたのである。知らないことを知る、「その過程」を学んだのである。「三角関数が役に立つのかどうか」ではなく、「知らなかった三角関数という概念を知ろうとした」ことが「学び」なのである。そして「その過程」は「三角関数」に限定されるものではない。たとえば、柔道で何らかの新しい技術を「身につける」ときも同様のプロセスを、新しいアルバイトを始めたときには、「新しい仕事を覚える」ときも同様のプロセスを、きょうえい塾を「はじめる」ときも同様のプロセスを経ている。「何においてか」という違いなだけであって、わからないところから、自分なりに手探り状態で進みながら、身につけようとする過程は、まさに「知らないことを知ろうとする過程」である。そして「その最初の段階」においては多少のストレスがかかることが共通点である。「何か新しいことを身につけようとするとき」というのはそれなりのハードルがある、と知ることも「その経験」による。「何においてそれを経験するか」が違うだけであって、やっていることはすべて「同じ」なように、僕は感じた。そうなると、それが「三角関数」である必要などないともとれるが、過去の偉人が発見して、当時は周りの人たちを驚かせただろう「新概念」を学ばない理由も特にない。「それを知らなかった人たち」ばかりのなかで「それを誰かが発見したから」、私たちのもとに「数学」として登場しているのである。「三角関数」という概念が発見される以前と以後で、「それが見えなかった人」と「それが見えた人」で分けられるなら、まさに「見えないものを見ている行為」である。どうだろうか、「0円で学ぼうとする」こととの共通点にお気づきだろうか。誰かにとっては見えていないものを、自分は見ようとすること、自分は見つけ出そうとすること、それが「0円で学ぶ」ということである。今、見えないものを見ようとするのなら、これまでに「見えなかった」過去をもつものを「見てみる」ことは、有意義だろうと、思われる。人類がこれまでに、どのような過ちを犯してきたかを学んで、同じことを繰り返さないようにすることと、同じである。「失敗例」を見て失敗を防ぐように、過去の見えていなかったものを見ようとする。おそらく「それを学び始める段階」においては、誰もが「過去にそれが見えなかった人」と同じ地点にいるはずである。だから「三角関数」を学ぶのである。sinθ、cosθが何の役に立たなくとも、「学ぶ」のである。
 その点で、「勉強」はおそらく「視野を広げる」機会になりえる。「視野を広げる」必要は特にない。「勉強」によって「視野を広げようとする人」はそうなるのではないか、と僕は思う。「視野を広げるため」に勉強をする必要も、特にない。「できるようになりたい」や「解決したい」と思ったら、その感情を満たすために、勉強をすればいい。「それ」によって結果的に「視野が広がるのではないか」という、僕の見解である。できるようになりたいわけでも、解決したいわけでもないことを、無理して「視野を広げるため」に学ぶのは、本末転倒である。「視野を広げる」とはそういうことではない。ただ「そういう目的」で勉強をしてはいけないわけでは、当然ない。いつなんどきも「自由」である。「自由であること」が「勉強」のいいところであろう。

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