0円教育物語⑬ 目標とは自分ごと。楽しいことも、自分ごと。友だち0人、自分ごと。

61目標があると面白い
 少しだけ、僕の話をしてみたい。
 振り返ってみると、僕は「目標」に救われてきている。救われた、救われている、どちらも当てはまる。「目標」のおかげで毎日を楽しく過ごせてきた記憶があり、今も楽しめている感があり、おそらくこれからもそうだろうなと、感じている。
 というのも、僕は友だちなど、ほとんどいない。当時の付き合いで仲の良かった人は何人かいたものの、今も胸を張って「友だちだ」と言える人は皆無である。基本的には一人でずっといる。高校、大学と一人で過ごす時間がかなり増えとことをきっかけに、今となっては就職することなく一人で適当に仕事のようなことをして楽しんでいるので、一人の時間が非常に長い。小学校、中学校までは、長年の付き合いとか、小さすぎるころの無防備な人間関係に救われて、それなりにお友だちとのお遊びを経験した記憶はあるが、人間がある程度出来上がってからの友達づくりは苦手であり、多少の変なプライドも邪魔をして、「今」に至っている。今でも連絡をとるような、学生時代の友人は、ほとんどいない。もはや「プライド」なんていう概念はどこかに行ってしまっている。もっとも、一人でいることは何の苦痛でもなく、むしろ穏やかに落ち着いていられて、快適である。「一人」がおそらく好きなんだろうと、思われる。
 ただ、「これまでの時間」は非常に楽しかった、という記憶がある。思い出せる友だちはあまりいないが、楽しかった記憶はたしかにあり、できることなら、そのころに戻りたいとさえ思うこともある。そして非常に興味深いのは、もっとも友達のいなかった、大学時代が、もっとも戻りたい時間である。つまり「友だちがいなかった時間」が「一番楽しかった」のかもしれない。
 高校生になると、人間関係は一旦リセットされる。特に僕は、田舎の公立高校出身なので、高校受験が一般的で、そこが小中学校の友だちとのお別れのタイミングとなる。小中学校の計九年間は意外と長く、そこでできた人間関係はそれなりに濃厚だろうが、その人間関係がまったく「無」になって、新しい人間関係を築くことの難しさといったら、ある程度大人になりつつある点も含めて、相当なものである。もしかしたら共感していただける方もいらっしゃるかもしれない。
 そんな環境で、「一人でいること」が増えた高校時代であったが、当時僕は、柔道部に所属をしていて、とにかく柔道が好きだったので、柔道に焦点を当ててさえいれば、何も「楽しさ」が邪魔されることはなかった。僕が所属していた柔道部は部員は3~5人で構成されるような、言ってしまえば「弱小チーム」で、練習時間も短めであった。人数が人数なので、練習相手もそんなにいなく、同じ相手と繰り返し繰り返しやる、といった感じであった。
 ただ僕は基本的には頭が悪いので、身の丈のことなど一切考えず、その環境下でも「インターハイの全国大会に出ること」を目標にしていた。「実力」などまったく考えず、ただただ「行けたら面白そう」という理由だけで、「行ける未来にワクワクしてしまった」というだけで、それを目標にしていた。改めて「目標は自由」である。
 気分は全国大会に行くことが決まっているかのようなので、練習はもちろん「その気で」やることになる。授業中も「そのこと」を考え続けては、今日の練習ではあれをやろう、これをやろう、と、ずっと考えていた。さすがに「全国大会に出る」となると、それなりに毎日やることが増える。おかげさまで、勉強に関しては、どんどん置いていかれていった。頭の中は柔道ばかりである。記憶では世界史のテストではビリッケツの方にいた。「友だちのいない、ビリッケツなやつ」である。なんとも深刻である。
 だが、もちろん僕は、まったく気にならなかった。頭の中は、それどころではないのである。柔道であり、インターハイである。日常の深刻なことを深刻だと認識する間も無く、1日が終わっていく毎日である。おかげさまで、やることはたくさんあり、やれないこともたくさんあり、そのやれないことをやることから次の日が始まるので、「自分の深刻さ」など、気がつかなかったのだろうと、今となっては思われる。そして、「目標をもって生きること」の面白さを「そこ」で知ることができた。「やることがあること」の楽しさと言ったら、他にはないものである。「友だちがいない」という一見するとつまらなそうな状況でも、何も問題なく楽しく時間を過ごせた。もちろん、全国大会には行けなかった。一番良かった成績で県大会のベスト8である。そんなものである。でも、十分楽しかった。それでいいのである。
 そんな経験から、僕は「目標」は必ずしも達成されなくてはならない、とも思っていない。「達成しなくてはならない」というような「限定的な楽しみ方」ではなく、もう少し「自由」でいいことを知った。「果たされるから楽しく、果たされなければつまらないもの」が「目標」ではないのではないか、と僕は考えている。「目標に向かう過程」さえ楽しければ、少なくとも「生きる元気」が失われることは、おそらくないように、思われる。僕のこれまでの時間は、「目標」がなかったら、恐ろしいほどにつまらないものだっただろう条件が揃ったものだったが、そのおかげで「目標をもつことの面白さ」を知ることができ、「一人でも、目標によって楽しくなる」と知ることができたのは、そしてそれを学ぶことができたのは、「それなりの奇跡」だったと、僕は感じている。

62大学の時間
 大学生活も同様であった。僕は静岡県から東京の大学に進学したので、高校時代よりも、さらに「知らない人」ばかりの環境に変わった。僕にとって、「知らない人」と友だちになることは、非常に難しいことで、特に部活動にもサークルにも入る気はなかったので、人間関係が広がることはなく、あるとしたら、授業でたまにあるグループ活動での交流ぐらいで、4年間を見事に「友だち0人」で終えた。もはや、笑えるレベルである。自分が自分に対して「かわいそうだな」と思うときは基本的に「笑う」ことにしているが、こんなにも、自分でも「笑いたくなること」はなかなかない。僕の大学生活は、本当に「笑えるもの」であった。
 だが、大学生活がつまらなかったかというと、まったくそんなことはない。先にも述べたが、もう一度やり直したいぐらいである。もっともやり直したい時間である。そのぐらいに楽しかった、と言える。
 というのも、僕は大学に進学することが決まった時点で、「自分は将来何をやりたいのか」を発見する時間にするつもりであった。具体的に「これ」というものはそう簡単には見つからないと分かっていたので、「見つける」ということに時間をかけようと思っていた。「何らかを見つける」というテーマで毎日を過ごしていた。「それ」がそれなりに、楽しかった。「それ」が「目標」である。
 そんな時間を経て、「今」に至るのだが、「そんな時間」によって「どれほど一人でいることが好きか」を知れた。そもそも「誰か」といることが少ないので、「自分」と会話をし続けるしかなく、「自分」のことを考えるしかなく、それによって「僕は一人が好きなんだ」ということに気づかされた。高校生の頃から、何となくは気がついていたものの、多少の寂しさや不安感のようなものがあったが、「一人でいることが好き」である以上、「友だちがいないこと」などまったく考える必要もなければ、気にする必要もないことだ、とようやく理解した。「チャーハンが好きだから、チャーハンを食べる」と同じことである。たとえ、みんながラーメンを食べていても、自分はチャーハンを食べたいならチャーハンを食べればいいのである。そこで「なぜ自分はラーメンを食べないのか」と悩む必要など、まったくない。そして、「自分のやりたいことを探す」という、僕なりの目標をクリアするためには「一人の方が」適していたのである。自分に問いかけ続けない限り、「自分のやりたいこと」など見つかるはずはなく、「一人になる」とは「そのため」には不可欠な時間であったのだろうと、今では理解している。と、このように僕は「一人でいること」を必死に全肯定をしているのである。笑っていただければ幸いである。
 たびたび「友だちがいないこと」は「かわいそうなこと」だとか、「いじめの原因になる」だとか、「楽しくない原因」だと耳にすることがある。そして、「いかに友だちをつくるか」が議論されたり、「ひとりぼっちの子」を問題視したりしているようである。ただ、僕は自分の経験しかもちえないので、それをもとに考えてみると、必ずしも「ひとりぼっち」は悪いことではない、と感じている。「一人になりたくて」なっている子どもがいても、不思議ではなく、「なりたくてなっている子」に対して、それを「かわいそうな子」扱いするのは、おそらく余計なお世話と言える。再びラーメンとチャーハンを例にすると、それは「チャーハンを食べたい」と言っている子どもに「一般的に、ラーメンの方が美味しいから」と、ラーメンを押し付ける行為である。「一般的」に「一人でいることは寂しいでしょ?」という強引な押し付けは、むしろ「寂しさ」の押し売りであり、当事者ではなく、部外者が「寂しそうな空間」をつくり出しているだけ、とも考えられる。「友だちがいないことはかわいそうなことだ」という前提が、「それ」を問題化していて、「友だちがいないことは不登校につながる」という勝手な前提が、「それ」を「不登校につなげている」とも言えないこともない。もし「それ」を解決しようとする大人の方々がいらっしゃるのなら、「友だちがいないことはかわいそうだ」という前提、「友だちがいないと不登校になりやすい」という前提を「無」にしてから努めていただきたいと、僕は思う。少なくとも僕は友だちがいなくとも、自分では何もかわいそうではなく、不登校にもなっていない。「かわいそう」や「不登校」を「良くないこと」とする前提さえ、おそらく邪魔なものになる。「問題を解決しようとしている人たちが、問題をつくり出していないか」という議論がされないことには、「ひとりぼっちの寂しい子」がいなくなることはないように、僕は感じる。友だちがいなかった僕からすると、「友だちがいないこと」の問題はよくわからない。僕にとっては、そんなことよりも「目標がないこと」の方がよっぽど深刻な問題になる。もっとも「ひとりぼっち」が「問題」になることも、考えられる。「も、考えられる」のである。
 そんなこんなで、僕は「無料塾」に辿り着き、「きょうえい塾」を始めるに至った。それだけで十分である。これが「答え」なのかどうかは別にして、自ら「やりたい」と思えることを発見できたこと、そしてそれが少し形になりつつあることだけで、十分である。大学生活の目標は達成したつもりである。「何かを見つける」という目標は、「何か」見つかった時点で、達成である。「こんな楽しいことをしました!」と誰かに誇れるようなことはまったくないが、「楽しい」や「面白い」という感情は「自分」が感じればそれでいいもので、「誰か」にも共有する必要は、あまり感じていない。おそらく「それ」を「楽しかった」と表現し、「面白かった」と表現するのだろうと、僕は思っている。「私って楽しそうでしょ!」と伝えたくなることのなかに、「楽しい」感情はあまりないのではないだろうか。僕にはわからない。
 やや話が逸れたが、「目標」があれば、日常のチマチマしたことなど超越して、ルンルンで生きていけるのではないか、という僕なりの仮説である。この仮説の実証実験は、もちろん「今」も継続中であり、むしろ、「これから」が本番ではないか、とさえ思っている。「目標をもたなくなること」がもっとも楽しくなくなる因になると思われるので、「今、目標がなかったら」、本末転倒である。「目標をもつ」とは、「目標に向かう」とは、おそらく、それなりに楽しいものである。

63「目標をもつ」とは「自分に集中する」ということ
 「目標をもつ」とはどういうことだろうか。少し考えてみたい。
 「目標をもつ」とは「自分に集中をする」ということである。僕はそのように考えている。
 「自分に集中をする」というと、何だか禅のような、目を閉じて自己を磨く、といったことになりそうではあるが、そうではない。「自分に集中をする」とは「自分のやることを明確にする」ということである。「目標をもつ」とは「自分に集中をする」ということであり、「自分に集中をする」とは「自分のやることを明確にする」ということである。
 目標をもつと、それを達成させたくなるのが、おそらく一般的だと思われる。「達成したくない目標」は、おそらく「目標」ではない。
 それを達成しようと思ったら、「何か」をしなくてはならない。もうすでに達成しているものを「達成したい」と思うことはおそらくないので、「今、達成できていないもの」が「目標」になり得る。「今、できていない」ならば「それができるようになる」という、何らかのハードルを自ら超えていかなくてはならない。「今、できていないこと」を「何か」することによって、「できるようにする」プロセスが、「目標」には含まれている。それが「達成されるのか、されないのか」は別にしても、少なくとも「達成したい」という意志と行動は求められる、と言えるだろう。そして「その過程に身を置くこと」が「自分に集中をする」ということである。
 目標をもたずに生きるとなると、「自分のことに集中する」のが難しくなるだろう。「目標をもたない」ことが悪いわけではまったくないが、「自分は何がしたいのかわからない」とか「生きがいがない」とか「自分のやりたいことがない」といった状態は、目標がない状態だと思われる。「目標をもたずに生きる」という目標をお持ちの方もいらっしゃるかもしれないので、一概には言えないが、「目標がない状態」で「自らのアイデンティティ」を感じることは、おそらく難しい。
 「自分探しの旅」や「自分探しの時間」といった言葉は、「目標を探している」と言い換え可能だろう。果たして、「旅」や「時間の経過」に任せるだけで、「自分」を見つけられるのか、いささか疑問ではある。
 「目標を達成できるかどうか」には「運」が含まれる。というのも、「今、できない」と分かっているから「できるようにしたい」と思うのであり、「できないかもしれない」ことを知っているから「できるようにしたい」と思えるのであり、「できないかもしれない」から、それを「達成したい」と思うにいたるのである。「当然にできること」を「できるようになりたい」とは思わないだろう。つまり、「何らかの不確定要素」があるからこそ、それは「目標」になる。その「不確定要素」のことを、僕は「運」だと表現している。その意味で、「達成できるかどうかわからないものが目標である」という意味で、「目標」には「運」の要素が含まれる。
 僕は、これまでの人生で、たいして「目標を叶えてきた」わけではないので、また「誰かに自慢できるようなこと」はなにひとつ達成してきていないので、偉そうなことを言うのは憚られるが、「目標を達成するかどうか」など、「運」だと考えている。人間がどのような能力を持って生まれてくるか、それをもとに、どのような目標をもつのか、またその人がどのようにしてその目標に向かっていくのか、そして「それ」は達成されるのか、すべてが「運」だと思っている。「努力は必ず報われるのか」という議論を頻繁に耳にするが、「報われるのか、報われないのか」も、おそらくは「運」である。たまたま「報われた」という経験を持つ人は「報われる」と言いたがるだろうし、「報われなかった」経験を持つ人は、「報われるとは限らない」と言うだろう。どちらが正解で、どちらが不正解か、ということではなく、「どんなこともたまたまではないか」、ということである。もっとも、僕は「努力は必ず報われるのかどうか」はさほど興味はない。「目標があって、それに向かえたら、それでいいのではないか」と感じてしまう。
 そこで、僕は「目標が達成されるのかどうか」にはあまり興味を持たないこととしている。というか、それは「わからない」のである。少なくとも僕は預言者ではなく、未来を見通すこともできないので、僕が「叶えたい」と思うことを「叶えられるかどうか」など、わかりえないのである。わかりえないことを、あれやこれやと考えていても、本当の意味で「なにも進まない」だろうと思われる。「運」をコントロールできたら、おそらくそれは「運」ではない。
 ただ、「目標に向かう」という行為は、ある程度コントロールの効くことである。そしてこの「コントロールできるところをコントロールしようとすること」を、人は「努力」や「苦労」と呼んでいるのではないだろうか。野球選手になれるかどうか分からずとも、「なりたい!」という気持ちが、毎日の素振りの原動力になり、「毎日素振りをする」ということは「自分の意志」でコントロールすることができる。そのコントロールできるところを最大限コントロールすれば、それだけ、目標を達成する確率は高くなるだろうし、やらないよりはやったほうが、目標に近づいていくことは、言うまでもない。「それができるのかどうか」ということも、「それを積み重ねられる能力を持っているのかどうか」も、もしかしたら「運」といえるのかもしれないが、「それ」を運と呼ぶのなら、それこそ「すべての事象」を運に頼ることになるだろう。僕は「意志」とはコントロールできるもの、だと思っている。
 やや話がまどろっこしくはなったが、「目標を達成する」とは、すべてを支配できることではないからこそ、「自分にできることは何か」を考える、そしてそれを実行する機会になるのではないか、と思われる。「達成できないかもしれない」という不確定要素を抱えながら、達成しようとする過程は「自分」に集中するものになるだろう。その不確定要素が、ある種の「面白さ」をつくり出し、「楽しさ」を生むのではないだろうか、と僕は感じている。
 これもよく耳にすることだが、「他の人と比べない」という言葉がある。「他の人と比べないこと」を意識するということは、「他の人と比べているとき」に起こることだろう。「他の人と比べない人」というのは、おそらく自分の頭のなかに「他の人」のことなど、まったくないのではないか、と僕は想像する。つまり「比べてはいけない」とは「比べている人」の思考である。それをかき消そうとしても、かき消せないのが、人間の不思議である。「ダイエットをしなくてはいけない」と考えれば考えるほど、食欲が高まっていくことと、非常に似ている。
 「目標をもつ」とは、自分の頭のなかを「自分のこと」で埋める行為である。そしてそれは「もしかしたら達成できるかもしれない」という期待感と、「もしかしたら達成できないかもしれない」という不確定要素を「同時に抱える」からこそ、「自分」に焦点をあてる機会となるのである。一度、自分の頭の中を「自分のこと」だけで埋めてみてはいかがだろうか。僕にとっては、それはそれなりに面白く、楽しいものである。たとえ、達成できなくても、である。

64楽しさの種類
 「楽しい」と一言に表現しても、それは「ひととおり」ではないだろう。「楽しい」にはいろいろな種類があると思われる。
 僕は「目標をもつこと」は「楽しさ」の始まりだと感じている。「こうなれたらいいな」という未来に向かっていくことは、この上なく、楽しいことである。
 では、この「楽しさ」は、わいわいがやがや盛り上がるものかというと、そうではない。もし「わいわいがやがやすること」を「楽しいこと」と解釈されるのであれば、そのような方にとっては、伝わりづらい「楽しさ」かもしれない。または「そのような楽しさ」を期待される方には、まったく期待に応えられる楽しさではないと、前もってお伝えしておかなくてはならない。周りの人に「楽しそうだね」と気がついてもらえるほどに楽しみたい方にも、適さない。目標をもち、目標に向かう、という楽しさは、もう少し地味で、静かで、変化のないところにある変化を味わうものである。「楽しくない楽しさ」を、楽しむものである。それを大前提としておきたい。
 すごくおおまかに分けると、「楽しさ」には「短時間のもの」と「長時間のもの」があるように思われる。「短時間の楽しさ」は、たとえば「買い物をする」だとか、「映画を観る」だとか、「カラオケに行く」だとか、「ゴルフをする」だとかが考えられる。具体的な中身については個々人で当てはめてくれればいいのだが、これらは「日常からやや離れた楽しさ」と言えるだろう。つまり、「学校に行く時間」から離れて買い物をするから楽しいと感じ、「仕事に行く時間」から離れてカラオケに行くから楽しいと感じる、といったことである。ややストレスを感じる日常から「離れる時間」を、短時間ではあるが確保することで、その時間を「楽しい」と感じようとするものである。おそらく、買い物が「終わってしまった」ときには、カラオケが「終わってしまった」ときには、「日常」に徐々に戻されるような感じを受け、「またはじまる」ことへのストレスを強く感じるのだろうと、思われる。楽しいことの前には楽しくないことがあり、楽しいことの後にも楽しくないことがある、といった「楽しさ」である。「楽しいこと」と「楽しくないこと」を行き来する楽しさが、あるのかもしれない。「楽しいこと」と「楽しくないこと」の境界線が明確にある、そしてそれを感じることを条件とした、そんな「楽しさ」である。
 一方で「長時間の楽しさ」とは、「その人が好きなことに取り組むことによる楽しさ」である。たとえば「絵を描くこと」が好きな人が一日中絵を描いて楽しんでいたり、「本を読むこと」が好きな人が空き時間を見つけては本を読んで楽しんでいたり、「体を動かすこと」が好きな人が、疲れているはずの休みの日でもトレーニングをして楽しんでいたり、というものである。もしかしたら、これもある種の「現実逃避的な楽しさ」と言えるかもしれないが、ただ「楽しい」という感情だけで絵を描き続けることは、ただ「楽しいから」という理由だけで本を読み続けることは、ただ「楽しい」という理由だけでトレーニングを続けることは、おそらくできない。それぞれに多少の苦痛を感じながら、ストレスを感じながらも、「それも含めて」楽しいと感じられるから、続くことだと思われる。「もう少し上手に描きたいな」や「少し分かりにくいな」や「疲れているけれど」といった、必ずしも「快適な」ものではないものを受け入れずして、このような行為は続いていかない。「そんなことは感じない」というほどに没頭して楽しめる人もいないこともないだろうが、純粋に「ただただ楽しい」というものではないことは、わかっていただけるだろう。そしてこれは、「生きている限り」継続される楽しさと言える。「これ」を始めるときは「自分の意志」で、終わるときもまた、「自分の意志」である。そして再び始めるときも「ストレスを感じるだろう」予感も含めて、「自分の意志」による。「うまくいかない可能性」も含めて、「今回は満足にいかないかもしれない可能性」も含めて、楽しもうとしなことには、楽しむことはできない種類の「楽しさ」である。いわゆる「開放感のある楽しさ」ではない。前者が「開放感のある楽しさ」だとするなら、後者は極めて「閉塞的な楽しさ」である。その閉塞感を「当事者」が楽しいと感じられるかどうかにかかっている、そんな楽しさである。おそらく、大谷翔平選手であっても、「野球」自体は大好きであろうが、野球をしている間、「ずっと楽しい」感情だけが湧いているかというと、そんなことはないだろうと、思われる。「打てないとき」や「打たれたとき」というのはそれなりにストレスを覚えつつ、「そのストレス」も含めて「楽しい」と感じているのではないかと、勝手ながら僕は想像をしている。「楽しくないことを楽しさのなかに取り込めるかどうか」が後者の楽しさの成分となる。この「楽しくないことを楽しいと感じるまで」には時間を要する。苦痛を感じた経験を「楽しい」という感情に生かそうとして、反映させようとして、はじめて、楽しくなるものである。それを短時間で区切ると、「今日はまったく楽しくなく終わった」ということも頻繁に起こり得る「楽しさ」である。これはいったい「楽しいもの」なのだろうか。「長時間の楽しさ」とは、そのようなものである。
 「目標」が絡む楽しさは、後者の側に近い。目標を達成しようと思ったら、必ずしも楽しい感情だけでは、続かない。どこをどう切り取っても楽しいようでは、おそらく「目標の実現」には近づいていない。「どこをどう切り取っても楽しいもの」は前者の楽しさであり、その分、「楽しくないこと」と明確に区別される。楽しい時間は楽しいのみ、楽しくない時間は楽しくないのみ、である。「目標をもち、目標に向かう楽しさ」とは、楽しい時間と楽しくない時間が複雑に混ざり合っている。その複雑さが生むストレスを、いいエネルギーに変換していくものである。つまり「楽しくはない」ということになるのかもしれないが、そのストレスが「楽しい」のである。楽しくない楽しさ、と言える。
 ここでいう「二つの楽しさ」とは、楽しいことと楽しくないことを完全に分けて考えるか、それとも楽しいことと楽しくないことを同じ時間軸の中に取り込んでいくか、という違いである。どちらがより楽しく、どちらがより楽しくないかは、人それぞれでいい。言い換えると「誰にとっても楽しいもの」と「その人だから楽しいもの」と言えるだろうか。後者のほうが「自分」を感じられるのではないか、と僕には思える。

65「解決したいこと」が楽しくさせる
 「楽しくないことが楽しくなる」のは、なぜだろうか。
 それは「何かを解決すること」が最も優先されるからだろうと、思われる。「ホームランを打つ」という目標があるのなら、「ホームランを打つこと」が最も楽しいことであり、「ホームランを打てないこと」が最もつまらないことになる。「2週間後の試合で打ちたい!」となれば、それまでの時間は、すべてが練習であり、練習である以上、いい感覚でできることもあれば、良くない感覚の日もあり、それらを踏まえて、より精度を上げていくことができる。おそらく、この「精度を上げていく時間」のなかには、「うまくいかなかった」という経験が必要であり、「うまくいかなかったこと」から「ではうまくいくためにはどうしたらいいのか」を考える時間が必要になる。「失敗は成功のもと」ということわざがあるが、「うまくいく」ためには、「うまくいかない経験」から、何が問題で、どこに問題があるのかを自ら理解しなくてはならないだろう。「絶対に達成したい」と思えば思うほど、「たまたまうまくいく」可能性に賭けようとは思わないだろうから、そのためには「うまくいかないこと」が必要であり、それは「それ自体」では決して楽しいものではないのである。「ホームランを打ちたい」という目標を持って練習しているのに、その練習で「ホームランが打てない」経験に遭遇すれば、間違いなくそれは楽しくなく、苦痛を感じるものだろう。ただ、その「楽しくないこと」や「うまくいかない苦痛」が「楽しいこと」につながっていると感じられるとき、それはきっと、「楽しいもの」に変化しえる。側からみると、「とにかく楽しそうに練習をしている」ようであっても、それは「すべてが楽しい」わけではなく、「目標に向かっていること」を実感できる楽しさ、大元の目標のためにはあらゆる苦労も厭わない姿勢が生む楽しさ、なのである。「練習」それ自体が「楽しい」のでは、おそらくない。
 「目標を達成すること」が楽しいのである。「目標を達成できないこと」が楽しくないことである。そうであるならば、「練習の楽しくなさ」や「うまくいかないことの楽しくなさ」など、非常に弱い感情なのである。たしかに、ときに「もうやめてしまおうか」と思うようなこともあるかもしれないが、「それも含めて」楽しいのである。「やめたくなっているけど、なお向かう」のである。「解決したいこと」は「解決すること」が最優先である。
 つまり、自分の意志を実現する楽しさ、と言える。「美味しいものを食べたい!」や「目一杯歌いたい!」や「旅行に行きたい!」という楽しさとの共通点は、そんなところにある。「~たい!」を実現することの快感は、誰もが感じるものであろう。「やりたくないこと」をやってもあまり楽しくはならないと思われる。「楽しくなるとき」というのは、「やりたいことをやっているとき」である。その「やりたいこと」が「目標を達成したい」なのである。これも同じ「~たい!」の一種である。やはりそれは「短時間で解決できるのか、長時間を要さないと解決できないのか」の違いである。そして、「長時間」を要するものであればあるほど、人生をかけた「目標」になるだろうし、「何かに熱中する」という状態になるのだろう。長時間の楽しさのなかには、「より楽しい」に近づくための、多少のストレス、多少の苦痛が伴う、ただをそれは「楽しい」のである。
 「達成したい」や「解決したい」という感情を満たすため、なのである。「美味しいものを食べたい」を満たすために、美味しいものを食べることと、同じと言える。ただ、「それを満たす」ためには時間がかかり、「それを満たす」ためには練習が必要だ、というだけである。僕は、「短時間の楽しさ」と「長時間の楽しさ」は違うものだと考えていたが、どうやら基本的には「同じ」なようである。つまり、「自分の感情を満たす」という点では共通の楽しさである。ただそれが「すぐに満たせるもの」なのか「時間をかけて満たそうとするもの」なのか、という違いと言える。例を挙げてみると、お金を貯めに貯めて大きな買い物を一つするのか、持っているお金を毎日の駄菓子に少しずつ使い続けるか、という違いである。どちらの方が楽しく、どちらが楽しくないかということではなくて、どちらが良くて、どちらが良くないかということではなくて、「そういう違いがある」というだけのことであると、ご理解いただきたい。
 「楽しいことをしたい!」と「楽しくないことも楽しい!」は、案外「同じもの」なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?