0円教育物語⑨ 勉強という贅沢、勉強ができないという無問題感。
41「やりたくても」できない子ども
僕は誰が勉強をやろうとも、やらずとも、どちらでもいいと思っている。さほど「やるべき」とも思えず、だからと言って「やらなくていい」と言うつもりもなく、すごく突き放すような言い方にはなるが、「あなたの好きにしてください」ということでしかない。少なくとも「誰かが」勉強をしてもしなくても、僕にはまったく関係ない。
もし、この「私は勉強なんかやりたくないから、やりません」と主張できる子どもがいるのなら、それは「贅沢な主張」だろう。「勉強をやりたくてもできない子どももいる」ということもその理由の一つになるだろうが、それに加えて、「勉強をやるかやらないか」を「当たり前に選択できる環境にある」という「持ち物」の贅沢さである。勉強をやることも、やらないことも、どちらも選ぶことが「当たり前」にできてしまう環境を「持っている」ということは、「持っていない」よりも「贅沢」と言える。「持っていること」は贅沢である。それが良いのか悪いのかは別にして、そしておいしいのかまずいのかは別にして、「鰻重にイクラをのせて食べること」は「贅沢」である。それと同義である。
そんな「贅沢な」方々には、僕は、「贅沢に」選択をしていただければ、と思っている。そして、「そのような方々」を相手にしたときに、「勉強は自分ごとです」と伝えることになり、「あなたがやりたいようにやってください」とお話しすることになる。そして「あなたは自分のことを天才だとお思いですか?」と問いかけることになる。もちろん、僕は嫌な人かもしれない、ということは、分かっている。
ただここで、同じように突き放して良いはずがないのが「やりたくてもできない状況」にある子どもたちである。この「やりたくてもできない状況」は、きっと「例」として具体的にどのようなものがあるかを、羅列していくものではない。「勉強をやりたくてもできない環境にある」ということだけで、十分であろう。「そのような状況」にある子どもたちが、おそらくいるように、僕には思える。
理由はどうであれ、「できない状況」に対しては支援がされなくてはならない。少なくとも「勉強」が子どもたちの進路を決定する要素の一つとしてある以上、その制度の良し悪しを問わずして、それは「何らかの影響」をもつものと思われる。「できない状況」とは、「自分の理想」に近づこうとする過程で「自分以外の理由」でその過程がもっていただろう可能性を閉ざすものである。そのような状況にある子どもたちを目の前にして、僕は「勉強は、自分の理想に近づくためにやるものだよ」と言うことはできない。「自分の理想に近づくこと」が「自分以外」のものによって閉ざされてしまう状況を、考慮せずして、「自分ごとの勉強」は成立し得ない。「自分ごとの勉強」が「できるため」の支援は、当然のことであるが、必要である。「その環境」にいながらも、「自分ごとの勉強」ができる選択肢があってはじめて、「勉強」が誰にとっても「自分ごと」になる。「自分ごとの勉強ができる人」だけで盛り上がっていては、それは「贅肉」のようなものである。それでは「所詮、贅肉」である。
そこで、僕が現時点で出しえるものとして、「きょうえい塾」がある。0円の学習空間である。
どうしても「0円」ということを強調せずにはいられず、強調されずにはいられないだろうが、「0円」であることなど、実はどうでもいいことである。「ただそこにお金の壁はない」というだけのことである。空港を通過するときの「パスポートの壁」だとか、買い物をするときの「お金の壁」が、とりあえず「ない」というだけである。パスポートがなければ、空港は通過できず、お金がなければ買い物はできない。その「できない可能性」を「なくしてみた」というだけである。「そういうところ」はさほど珍しくない。少し考えてみるだけでも、「駅のトイレ」も壁はかなり低い。「コンビニに入ること」の壁も低い。「図書館」だって、そうである。電気代はさておいて、「テレビを見る」という行為も例外ではない。
僕は、「勉強」も、「駅のトイレ」のように、「コンビニ」のように、「図書館」のように、「テレビ」のようになるといいのではないかと思っている。そして「そうなれるのではないか」という僕の問いの検証の場が「きょうえい塾」である。ちなみに僕は「先生」ではない。「先生」になった記憶はない。「学校の先生」にも「塾の先生」にも、到底及ぶものではない。
42だから「困っていること」が条件である
だから、きょうえい塾は「困っていること」が条件である。
「できない状況」を打破しようとしても、打破できないときに、それは「困りごと」となる。仮に「できない状況」にあっても、それを打破する必要がないのなら、それはきっと「困りごと」にはならない。「困っている」とは「何らか」において、「自分ではどうにもできない」ときに生まれる。そして「そこ」には支援が必要である。「勉強」における「自分ではどうにもできないこと」は「自分ごとの勉強」を停滞させる。それでは「自分ごとの勉強」が成立しない。つまり「困っていること」が「支援の必要性」の裏返し、と言える。
「困る」とは、うまくいっているときには生じえないものであると思われる。その点で、「天才」は困らないと言えるだろう。何でもできて、解決したいこともなく、つまり困ることがないだろう存在が、「天才」だと僕は認識している。ここでいう「天才」に実像はない。「あの人は天才だけど、天才なりに苦労している」ということは、まったくの筋違いである。どちらかというと「そんな人はいるのだろうか?」という多少の皮肉を込めた「天才」である。もっとも、これは説明することではない。
「困る」とは「上手くいかないこと」を「上手くいかせよう」としない限り、生じない。頻繁に「鳥」を例にするが、人間は「空を飛べないこと」にそこまで「困る」ことはない。人間が「空を飛ぼうとする」ことがまずもって、ない。「そういうこと」に関しては、「困る」感情は発生しない。
勉強に関していえば、「できないことを、できるようにしたいが、できるようにならない」ときに、「困る」のではないかと思われる。または「その方法」がわからない場合だろうと、思われる。解決策を見つけることができているのなら、それを試すことで、ある程度解消されるだろうが、「それさえ」できないときに、きっと「より本格的」に「困る」ことになる。つまり「困る」とは、「上手くいかないこと」に出会って、「上手くいかせよう」という気持ちをもったものの、「上手くいかない」現実に遭遇し、そしてその解決方法も分からない状態、と言える。何かしら「上手くいかせる」ために動こうとしたときに「困る」可能性が生まれる。「上手くいかせる」気のないところで「困る」ことはない。
僕はその「困りごと」を解決しようとすることが最優先だと感じている。「贅沢な悩み」をより贅沢にすることの必要性は、あまり感じない。そしてそのような「特に困っていることはない勉強」であるならば、きっと僕にできることはない。繰り返しではあるが、僕はちっとも頭が良くない。「高い偏差値を獲得したい!」という贅沢な悩みに適している空間は、おそらく「別に」ある。そしてそういったものを、僕は「贅沢」と呼んでいる。「困りごとを解決する」とは「勉強ができる人が偉い」などといった、悠長なことを言っている場合では、残念ながら、ない。そして「そこ」では、「お金」によって「勉強」が「買われる」のだろうと、僕は想像する。
少し離れたところから、俯瞰して眺めるように考えてみると、「困っている人」が放置をされて、「困っていない人」がより「贅沢に」なっていく様は、とても不思議なものである。食糧不足に悩む国と、肥満に悩む国が、「ひとつになっている」ようである。必ずしも「放置」されているわけではないだろうと思われ、僕なんかよりも遥か前から何らかの形で「支援」をおこなっている方々もいらっしゃるだろうと想像できるが、とは言っても、「高得点」に「5」がつけられ、「高偏差値」が「よし」とされ、「東大に入ること」が美談となる現実を考えると、「贅沢」への魅力の方が大きく、そちらに誘導される人も多く、そして「そこ」を「チャンス」と捉えてビジネスを展開する賢い方々の力が相まって、「ね?贅沢っていいでしょ?」や「あなたも贅沢したくない?」といった「誘い」が主役となっても、やはりあまり不自然ではない。基本的に、皆が「贅沢」が好きである。そして「贅沢」に憧れるのである。何がいいのかよく分からずとも、「とりあえず外車」の凄さを感じる感性からでも、容易に理解できる。「とりあえず外車」であり、「とりあえず旅行」であり、「とりあえず外食」であり、「とりあえず家」であり、「とりあえずビトン」である。そこに加わった「とりあえず学歴」である。僕は、そんなことをしていていいのだろうかと、いささか疑問である。「とりあえず贅沢はあとではないか」が僕の率直な感想である。だが、「それよりも贅沢」を準備してくれているのが、「人間の社会」なのかもしれない。僕には不思議で仕方がない。
僕が「無料塾をやる」というと、何人かの大人の方々が「どうやってお金を稼ぐのか」と問うた。これもまた不思議である。「大人」になると、「お金を稼ぐこと」以外には何もやらなくなるのだろうか。「歯を磨く」、「ご飯を食べる」、「寝る」、「漫画を読む」のラインで「無料塾をやる」とはならないのだろうか。もしかすると、「自分のため」ではない時間に見えるものからは、すべて「お金をもらえるなら」という枕詞が大人になると必要になるのだろうか。「仕事」は「お金がもらえる」から「仕方なくやるもの」なのだろうか。僕には「そういう思考」があらゆる問題を「停滞」させているような気がしてならない。皆、この上なく「贅沢好き」である。
43学習支援の輪
「困っている子」を対象にした「学習支援」は、さまざまな形で行われている。公立の小学校や中学校でも、放課後や休日に「学習支援の会」を開催しているところがある。僕の地元の静岡県三島市の小中学校では、多くの学校が、そのような取り組みを行っている。
僕は大学4年生の時に、各学校の「放課後学習会」に参加をさせてもらった。対象の学年の有志の生徒を募集して集めて、そこに地域のおじいちゃん、おばあちゃん、お母さま方、そして大学生が、子どもたちの勉強をみる時間である。なかには自習をしてるところを見守りながら、ときに一緒に考える、といった形態をとっている学校もあった。
大学3年生の頃には、「無料の学習支援をしたい」という方向性は決まっていたので、地元で「それっぽい」活動をしているところを探してみて、この、各学校が行っている活動を発見した。地域によっては「無料塾」があるところもあり、このとき、「無料塾」という活動をしている人たちがいることを知った。
その一年間で、5つの小中学校の学習会に参加をさせていただけた。本当に感謝である。地元の地域ということもあって、久しぶりにお会いする先生方もいらっしゃって、どこか小学生、中学生に戻った気分になった。これが「当時の先生」の魔力だろう、「先生」は永遠に「先生」である。会を開いていただいたこと、そして参加をさせていただいたことに、改めて感謝である。
この「学習支援」はボランティアによって支えられている。ただ「参加をしたい」という子どもたちと、大人たちが出会うだけの場所である。とはいっても、「大学生」には少しではあるものの、お金が支給された。僕は少し、お金をいただけてしまった。つまり、僕は「たしかなボランティア」ではない。
「ボランティア」によって支えられていることの凄みは、「人間の心」だけが原動力となっている点だと、僕は活動を通して感じた。「お金を稼ぐことがいけない」というわけではまったくないが、少なくとも「その場」はお金を介した取引はない。それにもかかわらず、「参加をしたい」という大人の方々がいらっしゃる。そして、何よりも、積極的に活動をされている。おそらく大学生は毎年毎年入れ替わり立ち替わりであっても、大人の方々はこれまでも、これからも続けられていくのだろうと思われる。その原動力はもしかしたら「やりがい」、「楽しさ」、「元気をもらえる」といったものかもしれないが、それらはすべて「人間の心」である。人間の心、つまり「人間の感情」によるものである。
「学習支援」というぐらいであるから、勉強が苦手な子や、教えてもらいたい子といった「勉強が得意ではない子」が多く集まる。と、話に聞いていたものの、いざ始まってみると、まったくそのような感はなく、苦手というよりむしろ、元気モリモリで頑張れる子たちばかりであった。もう少し閉塞感ある感じを想像していたが、実際はやる気のある子たちばかりで、僕は驚かされた。「勉強が苦手」なんてことはまったく気にならないほどに、みな一生懸命取り組む。実に「勉強が苦手なこと」がどのように問題なのか、よくわからないほどである。もしかしたら、「勉強が苦手なこと」を勝手に問題化しているのは、「大人」なのかもしれない。だとしたら、子どもにとっては、余計なお世話である。
僕が感じた小中学生の凄みは、「すぐに大人を受け入れてくれること」である。これは本当にすごい。自分が小学生、中学生の頃そのようであったかはわからないが、そしておそらく違ったが、出会った瞬間から、すごく親しげに話をしてくれる。そして、反応が実にいい。元気がいい。活気がある。なによりもパワーがある。爆発しているエネルギーがある。大人の側がむしろ気を遣ってしまって、遠慮がちになってしまうところも、平気で飛び越えてきてくれる。もちろん「敬語」なんて概念などない。何だか「年上には敬語を使う」とは果たして正解なのか、疑ってしまうほどである。向こうがすぐに受け入れてくれると、僕としても非常に嬉しく、やりやすく、おそらく他のボランティアの方々もそうではないかと、思われる。そんな「子どもの魔力」を感じられる場である。
何よりも驚くべきは「そのような場」が、多くの人の協力によって作られている、ということである。これは「奇跡」である。このような「学習支援の輪」が当たり前のように出来上がっていることの凄みは、計り知れない。「ただの良い人たち」では片付けられないほどに、「良い人」ばかりであった。そして、「今も」それは続いている。
僕は「そのような方々」を見習わなくてはならないと、切に感じた。「子どもたちの勉強を支える時間」によって「子どもたちのエネルギー」を享受する。そしてみなが幸せになる。おそらく「子どもたちの学力」を考慮しての企画であろうが、その範囲に留まらない可能性をもった活動が、私たちの社会の中には「輪」として、すでに存在している。僕は、それこそ、「幸せになる」ということではないかと思っている。そして「そのようにして」人間の知識を繋いでいけば良いのではないだろうか。
44実際に必要であり、必要以上に面白い
「その場」は必要である。「学習支援の場」は必要である。
対峙してみるとよくわかるが、子どもたちのエネルギー、パワーは凄まじい。小学生はなおさらである。
僕は、当初、「本当に必要なのかどうか」を疑っていた。学校が用意した会とはいえ、子どもたちが集まるのかどうか、子どもたちが「やりたい」と思うのか、「知らない大人」相手にどれほど関心を持ってくれるのか、疑心暗鬼な部分があった。
しかしそれは、不要な心配であった。何よりも、たくさんの子どもたちが参加をしてくれて、何だか毎回楽しみにしてくれているようでもあった。学校から配布されるお便りを見て、あれだけの子どもたちが「参加したい!」と思うことはもちろん、「勉強する場」が用意されたときに「自ら来る子」の多さに驚いた。「この現実」を踏まえると、子どもたちは「勉強がしたい」人間である。「勉強がしたくない」人間ではない。
そして、子どもたちにとって、「分かるのか、分からないのか」などあまり関係ないように思われる。正解したら喜び、間違えればやり直し、そして「次の問題」にいくだけだということを、おそらく知っている。勉強とは「ただそれだけだ」ということをおそらく知っている。手を止めることよりも、ジャンジャン「次」にいけばいいことを知っている。「できないこと」や「間違えること」の何が問題なのかといった風に突き進んでいく。できなければ、手を上げて「できない」と言い、間違えたらもう一回やり直す。「勉強」とは「ただそれだけ」なのではないか、と僕は感じた。「得意だ、苦手だ」なんかを「考えている」暇などないのではないか。極めて、「個人的な勉強」を彼らはしているように、僕には見えた。
そして、それを「大人」が手伝ってあげれば良い。「分からないこと」や「できないこと」で「止まらない手伝い」を大人がする。子どもたちの勉強を「先に」経験してきた大人の良さを生かして、子どもたちの「流れ」が滞らないように手伝いをする。それが「分かる」ようになれば、「できる」ようになれば、子どもたちは嬉しくなり、大人たちも一役買ったことになる。そんな程度に協力すれば、何ら問題はないのではないだろうか。「テストで何点を取る」とは「大人目線」の勉強としすぎている。大人が優れているわけでも、子どもが劣っているわけでもなく、ただ「協力し合う」というだけで、実はいいのかもしれない。
とにかく子どもたちは積極的に勉強を進めていこうとする。もしかしたら、「その場」の珍しさや、友だちも一緒にいることへの興奮が、「そうさせている」のかもしれないが、この上なく積極的である。少なくとも、僕の周りにいた大学生には「そのような人」はほとんどいない。大人になればなるほど、「何かのため」に「仕方なく」勉強をするようになるのだろうか。
分かったときはとても喜び、分からないときは「分からない」と発言をする。そして「分かろう」とする。外から見ているだけでは「子どもたちは勉強が好きではない」という思い込みが一般的なものとなり、「勉強ができないことが勉強へのやる気を喪失させる」という前提を勝手につくり上げてしまうが、実際はそんなことない、と僕には思える。「勉強ができないこと」が問題なのではなく、「分からないことで止まってしまうこと」が問題なのである。「分からないこと」を解決する方法がわからないときに、「勉強ができない」ことが「やる気の喪失」につながる、でもそれは「できないこと」が問題なのではなくて、「解決の仕方がわからない」ことが問題である。それならば、一緒に解決してあげれば良いではないか、というのが、僕の考えである。「好きではないからやらない」わけでも、「できないからやらない」わけでもないのではないだろうか、というのが僕なりの仮説である。だから「学習支援」の場は必要である。
小学生と比べると、中学生はおとなしい。静かに黙々と頑張る。「そりゃ、そう」だろう。それが「中学生らしさ」である。いたって普通なことである。ただ共通することとして、「分からないこと」を「分からない」と言えることである。「分からない」と言える場があれば、「分からない」と言えるのである。ときに僕にも分からないこともあったが、それはそれで物語である。一緒に解決しようとしていくプロセスもそれはそれで面白い。
「分からないこと」を「分からない」と言える空間。そのための学習支援。そして「分からないこと」を「分からない」という姿勢を大人が学ぶ。学習支援は「支援する側」と「支援される側」の境界線はほとんどない。両者が相互に、助け合う場である。わたしたちは、分からないことを「分からない」と言えるだろうか。「分からない」ことを「分かる」ようにする過程を、純粋に楽しむことはできるだろうか。「分かったフリ」をして「子どもは勉強が嫌いだ」と断定してはいないだろうか。
45彼らが大きくなってから
子どもたちにとって、「勉強ができるのかできないのか」はそれほど深刻な問題ではないのかもしれない。学年が低ければ低いほど、「自分の学力」が何かを決定する機会はほとんどなく、「勉強をしていれば」褒められることばかりであると、思われる。「そんな時代」に「学力格差」が引き金となるような問題は、そうは起こらないだろう。ただ、学年が上がるにつれて、「テスト」が本格化してきて、「学力」が顕在化してきて、もしかしたらそれによる人間関係の変化も生まれるかもしれない。そうなると、「学力」が何らかの問題を引き起こす可能性を持ちはじめる。それが「不登校」であったり、「いじめ」であったり、するのかもしれない。「それが問題なのかどうなのか」はひとまずおいておいて、「学校に行きづらくなる」原因が「勉強」となる可能性について、考えている。もし「学校に行きたい」のなら「学校に行きづらいこと」は一つの問題であろう。
僕は、今、もりもりの元気で溢れている子どもたちが、「そうではなくなること」を防ぎたい。大人になっても、子ども同様の元気を持ち続けることは、難しいだろうが、大人に近づいていくにつれて「その元気」の根元までもが失われてしまうことを、防ぎたい。純粋に「大人になって落ち着いてきた」のではなく「大人になって笑っていられたことが笑っていられなくなってきた」ということを防ぎたい。そのように思っている。
つまり、笑いながら「わかりません!」ということができなくなることを、防ぎたい。「笑いながら」というのは「ニヤニヤしながら」ということではなく、「笑う元気を持ちながら」ということである。「分からないこと」のなにが問題なのかさえ分からない態度で、分からないことを解決しようとする態度が、どこかのタイミングで失われることがあるとするなら、非常に、もったいないことである。きっと「分からない」と言える安心感よりも、「分からない」と言う恥ずかしさに、どこかのタイミングで変化する。「分からない」と言うことが「恥ずかしく」なったとき、「分からないこと」は停滞しはじめる。停滞すれば、「分からないこと」は増えていく。
「元気いっぱい育ってね」と言うだけでは、足りないのである。きっと、多くの大人が、子どもたちには「元気に育ってほしい」と願っていることだろうと思うが、そのような言葉だけを並べて「困っていること」を言いづらい環境を用意するのには、僕はいささかの矛盾を感じる。僕の「余計なお世話」かもしれないが、「困っていること」を発しづらいように思える環境は大人の無責任さによるものである。「学習支援」とは、「そのため」の場である。もっとも、「大人」は「わかりません!」と言いづらい動物に進化する。
今持っている彼らのエネルギーを、「受け取り続けられる場所」が必要だと、僕は感じている。「今」自然なことを、明日も自然なままに、明後日も自然なままに、一年後も二年後も、三年後も自然なままにする。そうあり続けられるようにする。大人の都合で、「はい、ここからは自分の力で頑張ってください」と突き放すようなことはしないで、こちらも「同じようにできる」環境をつくる。
「勉強ができる、できない」など、大したことではない。「どうやったらできない子ができるようになるか」を考えるぐらいなら、「分からない」と言える場をつくることのほうが「先」ではないだろうか。「子どもたちがもつ元気」は宝物である。
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