0円教育物語⑮ 0円教育圏を作りたい。

71「0円教育圏」を作りたい
 子どもたちの「流れ」を止めないために。
 僕は「0円教育圏」を作りたい。「0円教育圏」が必要だと思っている。「0円」であれば、誰もが平等に、自由に、楽しく、愉快に、勉強ができるのではないか、と考えている。
 僕は「みんなで勉強をしよう!」というつもりはまったくない。「勉強」の力をそこまで信じているわけでもない。むしろ「勉強なんて」という意識が強い。「あなたがやりたければやればいいし、やりたくなければやらなければいい」と考えている人間である。「皆」が勉強によって幸せになれるとも思っておらず、「勉強をしないこと」による不幸はそれほどないと、思っている。「やりたくない」というものを、無理してやらせたくなるほどの「勉強」の素晴らしさを、僕はまったく知らない。「勉強ができること」が善で、「勉強ができないこと」が悪だ、など微塵も思っていない。
 ただ、多少ではあるが、勉強をしてよかったな、と僕は感じている。学習環境を与えてもらって、「勉強ができる環境」をもてたことによる「よかったこと」が、たしかにある。「できなかったこと」ができるようになることの面白さ、そしてそれを「できるようにしよう!」と思える環境の凄みといったら、なかなかない。「勉強をすること」が「人間の価値」を高めてくれるのかどうかは分からないが、少なくとも、「勉強」は「自分」を高めようとする行為だと、今となってようやく、感じている。もしかしたら、「自分を高める行為」はとても面白いものなのかもしれない。もっとも、僕は「勉強ができる人」ではない。
 とまあ、偉そうに「勉強」について語っている僕ではあるが、僕は「たまたま」勉強ができる環境を与えてもらっていた。「できないことをできるようにする環境」を与えてもらっていた。そしてそれによって、僕は何とか「今」に至っている。次は、僕が何らかの形で「たまたま」をつくる番ではないか、と勝手ながらに思っている。それが「きょうえい塾」であり、「0円教育圏」である。「勉強をやりたい子」が何の障壁もなく、ただ勉強ができる立体空間が「0円教育圏」である。勉強をやりたい子には、勉強をやらせてあげるべきだ、というのが僕の考えであり、「お金を稼がない存在」の子どもたちが「お金」によって何らかの足止めを食らっては、何とも矛盾している、と思えてならない。
 「お金があること」が幸せの象徴でもなく、「お金がないこと」が不幸せの象徴でもないが、「お金がないこと」によって「勉強ができない」ことは考えものである。そして、「そのような子」または「そのような人」がいるのなら、お金を介さずに、人と人とが協力をしてみればいいだけである。「お金がない人」が「お金」を介して関わらなくてはならない理由など、何一つない。そしておそらく、「人間」はお金を介さずとも協力ができる生き物なはずである。「それができない」と言われてしまっては、僕は何とも寂しく、悲しい。「お金」でしか人と人とは関われないとなると、それは「関わり」と言えるのだろうか、少々疑問である。「お金がないこと」以上に「お金でしか協力できないこと」の方が、よっぽど深刻ではないだろうか。「0円教育圏」は「人間が協力して生きていくこと」の原点である。「お金」の登場によって、「お金」との共同生活によって、忘れられてしまっているのかもしれない「協力」をしてみようという試みが「0円教育圏づくり」である。
 「教育」はケチられるべきところでは、本来ない。じゃんじゃん教育には投資がされるべきで、どんどん「いい環境」を作ろうとするべきである。「人間の知恵」が人間の生活を豊かにするなら、人間の知恵の源泉ともいうべき「学習環境」にはたくさんのお金が注ぎ込まれて、より良い施設、より良い空間、より平等に、より均等にされるべきである。ただ、どうも「そのように」はいかないようである。僕もできることならそうしたいが、残念ながら莫大な資金、いや、資金がないので、どうにもこうにも、できそうにない。ただそこで、ひとつの疑問が湧いてくる。『なぜ、お金がないと「より良い空間は作れない」と思い込んでいるのか』という疑問である。「お金がないと」という前提は誰がどのようにして作ったのか。誰かが「決めている」ものなのか。お金がなくとも、「よりよい空間」が作れるのではないだろうか。「お金がない」なら「お金をかけずに」作ればいいのではないか。なぜ「人間の環境」は「お金ありき」でしか作れないかのような思い込みをしているのだろうか。「その思い込み」が「学力格差と経済格差」の問題を作り出しているのではないか。だとしたら、「問題」は「私たちの側」にある。「社会」ではなく、「それが社会」なのではなく、「私たちの思い込み」がそうさせているだけなのではないか。「勉強にはお金がかかる」のではなく、「勉強をお金がかかるもの」にしているのではないか。「0円で勉強を教える」環境さえあれば、「その問題」は簡単に解決するのではないだろうか。何もかもを「資本主義」の目線で見過ぎているのではないか。「お金を稼ぐこと」しか興味を持たなくなっているのではないか。だとすると、「社会問題を解決したい」とはすべてが大嘘である。「世界平和を目指したい」なども、大嘘である。世界平和を目指すなら、「お金を稼ぐこと」から少し視点をずらすことなど、すぐにできるはずである。「それ」をせずに、たとえば「勉強をしたくてもできない子」を放置しておくことが「平気」なら、おそらく「戦争に向かってでもお金を稼ぎたい人類」なのだろう。やや拡大しているだろうか。いや、これは拡大ではない。「戦争に向かう」ことに比べれば、「お金を稼ぐ」など、どうでもいいことである。「お金を介さないのなら、放置する」とは、異常事態だと、僕は感じている。
 「0円教育圏」とは、0円で勉強ができる空間のことである。それを「つくる」のである。そしてこれは「人間の原点」に立ち返ろうとする試みである。「日本が貧しくなっている」のなら、その問題点は「日本が貧しいこと」ではなく、「貧しいくせにお金から離れられなくなっていること」である、と僕は思っている。

72「0円教育圏」とは
 「0円教育圏」とは。もう少し具体的にしたい。
 読んで字のごとく、「0円で教育を受けられる環境」である。「教育を受ける」ということにお金がかからない空間である。「勉強をする」ことにお金がかからない空間である。
 ただ「教育」とは非常に概念的であり、明確な「ここからここまでが教育だ」という枠組みがあるわけではなく、言ってしまえば「生きること」自体が学びであり、寝ること、食べること、遊ぶこと、勉強をすること、すべてのなかに「教育」の要素はあると思われる。生きる時間のすべてが「学び」であるとすると、それこそ「お金を使うこと」もひとつの学びである。ただ、そう言っていると、重箱の隅をつつくようで、何も始まらなくなってしまうので、ここでは「ペンを持って、ノートを開いて、頭を使って」と言った範囲の「教育」である。このような種類の「教育」を「0円でやる空間」としたい。
 「0円教育圏」は「お金に困っている子」だけを対象とするものではない。もちろん「お金に困っていても」勉強ができる空間ではあるが、それだけではない。つまり「お金に困っている子」が「お金に困っていない子」に追いつくための「代わりの手段」ではない。経済的に恵まれてない子たちが、経済的に恵まれている子たちに「追いつくため」の空間ではない。そうではなくて、「ただ勉強するのに、お金がかからない空間」である。すなわち、経済的に必ずしも不自由ではない子も、学ぶことができる空間である。「学びたい子どもが学ぶことができる」という空間である。0円教育圏は、「勉強をしたい」という気持ちさえあれば、勉強ができる空間である。勉強をしたくない子は、勉強をしたくない人は、参加する必要はもちろんない。参加を「選べる」ことが「0円」のメリットである。もっとも、「そこで」必ずしも学ぶ必要はない。学ぶ環境は自由に選べばいい。
 「0円教育圏」とは、ある種の「街」である。つまり「たくさんの人」で構成されている。もちろん、現時点では構成されていない。いや、もうすでにできあがっているのかもしれないが、それを僕はまだ「具体的に」認識することはできていない。今は僕の頭のなかの「イメージ」に留まっている。
 その「イメージ」によると、そこは、「勉強ができないことの何が問題なのか」という思考のもと、「分からなければ聞けばいい」という認識が当たり前になっていて、「困ったときのお助けマン」がその街には何人もいて、いや、皆が「お助けマン」であり、「困ったまま」停滞することなどありえない空間になっている。「お金を払わないと教われない」なんてことはなく、「お助けマン」を自由に探し回っては、勉強を進めていく。そこでは、ときに、教科書には載っていないような「その人の経験話」なんかも聞くことができる。まさに「生きた教材」から勉強することができる。子どもたちは日常の勉強に「遅れて困る」なんてことはない。「遅れた」ときには、「お助けマン」にじっくり教えてもらえばいいだけである、と子どもたちも理解していて、安心しきってしまっている。どうしても勉強はやりたくない子は、「やりたくなる」まで好きなことをやり続ける。やりたくなったら、周りの子たちと同じように、お助けマンのところにいけばいいだけである。遅れても安心である。「勉強ができないことに困ったまま放置される」なんてことはありえない空間である。もっとも、「やらなくても」当然いい。やりたい子がやれば十分である。
 子どもたちは「勉強についていけなくなって、嫌気がさす」なんてことを恐れる必要はまったくなく、学校で「できないやつ」扱いされても、「誰に教わったらいいか」がすぐに思いつくので、そしてそれが「皆」の共通認識なので、「勉強ができないこと」によって「元気がなくなる」なんてことはない。たいがい、自分ではどうにもできず、どうしたらいいかも分からなくなったときに、「元気」がなくなってしまうが、「どうにもできない」ことも「どうしたらいいか分からない」なんてこともないのである。むしろ、「困ったときの対処法」を自ら考える習慣がついている。そんな子どもたちに溢れているので、「街」としての活気は凄まじい。エネルギッシュな街である。もちろん「勉強」における悩みだけを解決できるわけではなく、「何か困ったこと」があったときには、誰かに話すことができる。「お金」ではなく「人間同士」が関わり合っている。元気を失ってしまったことによる「不登校問題」など、起こりえない。「学校に行きたくないから行かない」と主張する子もいないこともないが、なかにはそういう子がいても仕方がない。深刻な「不登校問題」はこれといってない。「ご飯を食べたい人たち」ばかりのなかで、「パンを食べたい人もいる」程度のことになっている。
 ただ自由に学べる街である。ただ自由に助け合う街である。それが「0円教育圏」である。「お金がないと勉強できない」なんて思考は「化石」のようになっている。そんな「街」である。なかにはお金をかけて、カリスマ講師のいる、高額な塾に通っている子どももいる。もちろんそれも「自由」である。「そうしたい人」はそうするといいことを、皆が知っている街である。それに対する妬みや嫉みがない、という街である。ちなみに、この街の「有料の塾」も大繁盛している。それはそれで「良いこと」である。無料が良くて、有料がダメ、ということではないことも、この街は知っている。
 「0円教育圏」とはそういうところである。

73なぜ「0円教育圏」が必要か
 なぜ「0円教育圏」を作るのか。「これ」という理由はない。ただ面白そうだからである。僕は「それ」を面白いと感じるからである。
 というのも、「塾に行かないと勉強ができなくなる」とは、なんとも面白くない。まったく面白そうではない。それはおそらく、「行かせる親」も「行かされる子」もまったく面白いと感じない。子どもにとっては、勉強が「やらされるもの」となり、親にとっては、勉強を「無理して」あるいは「仕方なくやらせるもの」になってしまう。たしかに必ずしも、どの家庭も潤沢なお金があるとは思えないので、多少無理をして、子どもの学力を「ある程度の水準」に保つために塾に行かせる、ということもあるだろう。この親がやや不満を持ちながらも、「子どものためだから」と正当化して、「仕方なく行かせてあげている」や「無理をして行かせてあげている」という思考は、おそらく子どもは感じ取る。子どもは純粋であり、正直である。そうすると、自ずと勉強が「やらされるもの」になり、「つまらないもの」になりえる。「やらされること」のなかにも何らかの価値があるだろうと思われるので、必ずしもそれが良くないことではないだろうが、「やらされることにも意味があるのだ」ということを、無理して塾に行かせている気持ちの捌け口にするのは、やや意味にずれが生じる。それは、どちらかというと、「なんで勉強をさせてやらなければならないんだ」という気持ちが含まれているものであり、子どもの側も「なんでお金がかかる邪魔者のように扱うのだ」という気持ちになりえるだろう。「勉強にはお金がかかる」という認識が「両者にとって」何もいいように作用せず、むしろお互いにとって「勉強」を悪役にしてしまっている。なんとももったいない。「勉強」は、「自分を高める」という意味で、もう少し明るく、ポジティブなものである。
 では「その認識」を取っ払うことから始めなくてはならない。そのために「0円教育圏」を作ることは、非常に面白そうである。「その認識を取っ払う」という点で、面白そうである。「勉強にはお金がかかる」だとか「お金をかけないと勉強はできない」という思い込みによって「勉強」がつまらないものになってしまっているのなら、それを取っ払ってあげた方が、「勉強のため」にもなる。人間が「勉強にお金をかける」ということをできるようになってしまったがゆえに、それによって「勉強」が悪役になってしまっているなら、勉強のメンツ回復に向けても、何かしらの対策が必要である。繰り返しになるが、「勉強」とは「自分を高める」という点で、もう少し明るく、ポジティブなものである。
 「お金がかかる」ということで、もしかしたら「つまらないもの」になっているかもしれず、「他人と競うもの」になっているかもしれず、「人の価値を決めるもの」になっているかもしれず、「格差をつくるもの」になっているのかもしれない。もっとも、勉強がつまらないものになっているのか、他人と競うものになっているのか、人の価値を決めるものになっているのか、格差をつくるものになっているのかは、分からない。そんなことも考えられるのではないか、ということである。
 「0円教育圏」とは、作りたいから作れるものでも、作ろうと思ったら、すぐに作れるものでもない。それなりに時間はかかる。時間をかけて、徐々に形作っていかなくてはならない。ただ「新しくつくる」ということも、また違う。おそらく視点を変えれば、「もうすでにできあがっている」だろう。それを、僕はまだ発見できていない、目で見ることができていない、というだけである。みなさんの周りにも、おそらく「0円で勉強ができる空間」は存在している。「それ」を「無いもの」と思い込んでしまっているだけである。まずは「探してみる」ことから始まる。「新しい何か」をつくるのではなく、「新しい視点で」探してみることが必要である。「誰もが自由に学べる世界」。それは「もうすでに」存在しているはずだ。

74「0円教育圏」とは第三の学習空間である
 「0円教育圏」とは「第三の学習空間」である。「第三」とは「すでに存在しているものに加わるもの」ということである。例えば、学校があり、塾があり、家庭がある。「それらに加わるもの」として、「0円教育圏」である。それぞれの、それぞれにあった役割を果たせればよく、「みんな違って、みんないい」役割を、それぞれのコミュニティがもっている。学校の良さ、塾の良さ、家庭の良さ、またはそれ以外の良さ。それに加わって、「0円教育圏」である。
 「0円教育圏」は誰でも参加可能なので、その空間に「ヒエラルキー」はない。学校や塾となると、どうしても「その空間のヒエラルキー」ができてしまう。勉強が得意な子、勉強が苦手な子であったり、勉強でなくとも、運動が得意な子、苦手な子であったり。それ以外にも、さまざまな「その空間」ならではの、「順位づけ」のようなものが、人間の間では、無意識に存在する。「その無意識」が当たり前になると、「その人の見え方」が限定的なものになる。というのも、「勉強ができるようになる可能性」を持ちながら、「君は勉強ができないでしょ」と言われているかのような認識を、「本人」がもってしまう、ということである。誰かに言われたわけではないのに、「そう言われている」感覚が働いてしまうのが、「固定化された空間」の厄介な点である。「その集団」で一度定まってしまったポジションが、その人の可能性を限定的なものにしてしまう、という側面である。
 「0円教育圏」は「誰か」によって作られるものではない。僕は「作りたい」と言ってしまっているが、「作る」のは僕ではない。「0円で勉強をしようとする子」がそれぞれに作り上げるものである。それが「その子」の目線から見ると「街」のようであり、一つの立体的な「空間」になるのである。誰か「先生」がいて、その先生が「提供してくれるもの」ではない。「その認識」を僕は「作ろう」としているが、僕が「これが0円教育圏です」と示せるものは、おそらくできない。「僕の目線」から「0円教育圏」を探してみて、こんなことがある、あんなこともできる、といった具体例を提供することはできても、「圏内」を動き回るのは「その意志のある子」であり、「その意志のある人」である。つまり、その空間において「ヒエラルキー」などできるはずがないのである。たくさんの人と「それ」を作り上げているように見えても、それは「あなた」が「そのような視点を持っている」というだけであり、「あなた」が動くことで「それ」は動き出す。「0円で勉強することなどできない」と言ってしまえば、何もなくなってしまうのである。「誰もが参加できる空間」ではあるが、それは「みんなんがいる」ということではなくて、「あなたが自由に見つけることができる」ということである。具体像がない状態で、このような概念をお話しするのは、非常に申し訳ないが、「0円教育圏」とは「そういう概念」である。そしてその概念が、「第三の学習空間」になりえる。
 つまりそこは「自分の可能性を探す場」である。そして、誰からも「制限をかけられない場」である。もちろん「自分で制限をかけることもない場」である。「勉強ができない自分はダメだ」と思う必要のない空間である。「自分より上」もなければ「自分よりも下」もない、そこには「自分」しかない、そして「自分を高める」しかないのである。本来、どこにいても「自分を高める」しかないはずだが、「目に見える集団」にいると、そうはいかない。それが先ほど述べた「ヒエラルキー」であり、当たり前に「自分の能力」を超えていく「誰か」の存在が、自分を「ダメなもの」と限定してしまうのである。反対に、大して凄くもないことを、他の人と比べることで、凄さを見出して、勘違いをしてしまう、ということも考えられる。「自分と他人を比べない」とはおそらくそういうことである。それは「自分を高める」ということに集中すればいい、ということである。その点で、「0円教育圏」に生きようとする子どもたちは、「自分を高める」ということに焦点を当てることになる。「自分」以外のなにものからも出発することのない、ただただ「自分」の成長のために「見つけることができる空間」が「そこで生きる」ということである。そしてそれが「第三の学習空間」である。「自分は劣っているのかもしれない」という思い込みから逃げてこられる空間である。「逃げる」とは、「思い込み」からの逃げ場があることを意味する。僕が想像するに、「逃げ場」がなくなったと感じたときに、人は元気を失ってしまう。僕は「元気を失うこと」が一番の問題だと考えていて、元気さえ失わなければ、それでいいのである。これは「精神論」ではなく、「自分を高める」とは永遠に続いていくことを感じるためである。もしかしたらそれを「精神論」というのかもしれないが、「精神」も「自分」であると考えるなら、精神に焦点を当てることは、「0円教育圏」の出発点であるといえるだろう。第三の学習空間、自らを守るための学習空間、自らを高めるためだけの学習空間、おそらく「そこ」での勉強は、ポジティブで楽しい、ワクワクするものである。

75「勉強」は「公共のもの」である
 「勉強」は「誰も」がしていいものである。「誰も」にする権利のあるものである。つまり、「公共のもの」なのである。
 日本には「公共の施設」がたくさんある。本を読みたくなったら、図書館に行けば、誰もが本を読めるように、「勉強をしたい人」は誰もができないとならない。そういうものである。「0円で誰もが学べるような空間を作る」とは、「勉強」という公共施設を作ろうとする行為である。「本を買う余裕のある人は図書館を使ってはいけない」なんていう決まりがないのと同様に、お金がある人も、もちろんない人も、皆が参加可能な知的な施設、無形の施設が「勉強」だと、僕は思っている。「勉強が得意かどうか」など、問われる必要は、いうまでもなくない。「やりたければ」やればいい、ただそれだけである。
 もし図書館がなかったら、おそらく本は「買わなければ読めないもの」になっていただろう。「本を読む」は知識を獲得したり、新しい思考に出会ったり、または「ストーリー」を楽しんだりする機会であり、ひとつの「勉強」といえるが、「買わなければ読めない」となれば、それらを楽しめる人と、そうでない人がより顕著に出ると思われ、「本」は贅沢の象徴、裕福さあってこそのもの、になっていただろうと、思われる。「あの人はたくさん本が読めるらしい」だとか「あの人はたくさん本を持っている」だとかが「羨ましいこと」になっていただろう。実際、「本」では絶対に会うことのないはずの人とのコミュニケーションを可能にしてくれる、驚くべき装置である。「奇跡の装置」ともいえるだろう。
 ただありがたいことに、基本的には「本」は誰でも読めるようになっている。日本の素晴らしいところであるが、この「誰でも本が読める」ことの素晴らしさを、僕は改めて痛感している。まさに「0円教育」の断片である。「あの人ばかり本が読めてズルい」ということは起きないようになっている。公共の施設がなければ、おそらく「格差」を産んでいたのではないか、と僕は想像している。
 ただ、本は「読むべきもの」ではない。読みたい人が読めばいい。読みたくない人は「読める環境」があっても、おそらく読まないだろう。そして、別に読まなくてもいいのである。「皆が本を読める環境がある」ということは素晴らしくとも、皆が本を読まないといけないわけではない。「読みたい人」に向けられたものであり、「読めた方がいいから」皆にひらけたものになっているわけで、この「皆にひらかれている」ことに意義があるのである。「図書館」とは「街」である。
 「勉強」も「皆にひらけたもの」であるべきである、と僕は思っている。皆がやらなくてはいけないものではなく、皆にひらけたもの。「平等」をつくろうとするなら、それが一番である。「誰かにはできて、誰かにはできないもの」であっては、「平等」ではない。「誰かばかりが得をして、誰かばかりが損をする」では「公共」とは言えない。
 「教育は平等であるべきだ」という考え方が一般的であるなら、「0円で勉強ができること」は、まったく「新しいこと」ではない。「いまさら、何を言っているのか」という程度のものである。それほど「当たり前」でなくてはならないものである。もし「教育はできるだけ不平等でいい」という考え方は一般的なら、「それ」はまったくの「邪魔もの」的存在であろう。別にどちらでも、僕は構わないが、「教育は平等であるべきだ」と言いつつ、私たち自身が「不平等」をつくり出していないかは、少し注意しなくてはならないように思われる。

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