前略③
「どうしたの。台風こわい?」
私のまなざしに気づいて、葵さんが言った。そのまっすぐできれいな瞳は、いくらか私の気持ちを和らげてくれた。
「ううん。でも、ナツ兄、ほんとにどっか行っちゃったよ?」
「そうだね。ナツ、何か言ってた?」
「ほかに行くところあるって」
「ああ、そっか。なるほどね」
と、葵さんは何かに納得したように視線を宙に向けた。
「ねえ、ほんとにもう戻ってこない?」
「うーん、どうだろう。戻ってこないんじゃないかなあ。だから今日はわたしとお泊まりしよっか」
おいで、と葵さんは座ったまま両手を広げた。
それでようやく、部屋の端で突っ立ったままだった私は葵さんの隣の座布団に戻った。それから少しためらいはしたが、彼女の広げる腕に仕方なく応じるだけ、といった感じを装って座り直し、頭をゆるゆると撫でられながら並んでテレビを見た。
初めてすぐそばではっきりと感じた彼女の肌のぬくもりと匂いが濃く、私はいつの間にかまどろんでいた。私が、ナツ兄がいなくなったことと強まる風雨、その両方に不安を抱いていると心配してくれたらしく、彼女の手はしばらく私を撫でてくれていた。
まるでナツ兄がいなくなったことが合図だったみたいに、ますます雨音が強くなりはじめた。テレビの音が遠のき、葵さんはのんびりとあくびを一つして、私を抱いているのと逆の手でテレビのリモコンを取った。
「ナギサくん、観たいテレビ、ある?」
「ううん、別に」
本当は、毎週この時間に観ている番組があった。ただ、毎週見ているといっても父や母が見ていたから何となくそれが習慣らしくなっていただけで、いざ葵さんと二人になって問われると、それを言い出す気にもならなかった。
葵さんは私の答えにうなずくと、テレビを消してしまった。
部屋の中に一気に雨音が染み込んで、私たちを包むみたいだった。
「あおいちゃん、テレビ観ないの」
普段はめったに呼ぶことがなかったから、あおいちゃん、という私の声は少したどたどしかった。
「あんまり観ないかなあ」
「嫌いなの?」
「嫌いってわけじゃないよ。リビングにいるときは観てるけど、わたしの部屋だとテレビないから」
「ふうん」
「あ、点けてたほうがよかった? ごめん」
そう言ってもう一度リモコンに手を伸ばしかけた葵さんに、私は首を横に振った。勢いがあったせいで頭が葵さんの上腕にぶつかって、彼女の上半身がわずかに後ろに揺れた。
けれど葵さんは何でもないよ
うに小さく笑って、
「ちょっとお風呂入れてくるね」
と言ってそのまま立って行ってしまった。私はそのあとにふと漂った、彼女の髪の甘い残り香を吸い込み、妙に腹の底がムズムズするのを感じていた。
雨音の中、廊下を洗面所の方へ遠ざかっていく足音に耳を澄ませるようにして、さっきまで私に触れていた手のひらや腕の感触、そしてぬくもりがよみがえってくるのだった。
風呂に湯が張れるまでの間、しばらく他愛のない話をした。それから、順番に風呂に入った。高校一年生の葵さんは、さすがに小学五年生の私に対して、一緒に入ろうか、などという冗談は言わなかった。
それなのに、先に入った私は、体を洗っている時も、湯船につかっている間も、もしかしたら私を驚かせようとして葵さんが入ってきてしまうのではないかと落ち着かなかった。自分の恋情を自覚しないままうろたえていたあの頃の私は、あほな少年だったと、我ながら思う。
そして夜も更けていき、風雨がますます勢いを増していく中、そろそろ眠ろうかという頃になって、それは起こった。
一階の客間の押し入れから、二階の私の部屋へと葵さん用の布団を二人で運び上げ、ベッドの傍らに布団を敷いていると、突然部屋が真っ暗になった
雨戸も閉めていたから、正真正銘の真っ暗闇。
葵さんが先に驚きの悲鳴を漏らした。私も驚いて声を上げたが、どちらの声も気にならないくらい戸外の風雨が激しかった。
とはいえ、私の故郷では毎年台風の時期になると一度や二度ならず、しばしば停電するものだった。あれから二十年以上経った今ではもう、そんなこともめったになくなっているのかもしれないが。
「ナギサくん、懐中電灯、ある?」
一瞬驚きはしたものの、暗闇の中でも葵さんは特に取り乱していなかった。すぐそばに彼女の体温と息遣いが感じられた。
「ある。あ、でも一階にしかないかも」
「ああ、リビングのところにあったね」
「どうしよう」
私は少し不安になった。
「階段危ないし、ちょっと待ってみよっか。すぐ点くかもしんないし」
私たちは敷きかけの布団の上で肩を寄せあった。相変わらず外はうるさかったし、雨戸もがたがたと鳴っていたが部屋の中は私たちの呼吸のほかは、静かなものだった。葵さんも何を話そうかあぐねているようで、しばらく黙ったままだった。遠くから、ゴロゴロと雷鳴がくぐもって響いてきた。その後、ふいに風の音が止んだ。
葵さんが鼻から息を吸って、吐く、そのゆるやかな音がかすかに、しかしはっきりと、聞こえた。その途端、私は自分の心臓がいつもより強く脈打っていることに気がついた。
「部屋、真っ暗だね」
葵さんが、しみじみとした感じでそう言った。見えない分、実際よりも耳元で囁かれているみたいに聞こえた。
うん、とうなずいて、私は目を閉じたり開けたりしてみた。なんだか変な感じだった。風呂に入る前よりも、葵さんからはいい匂いがした。シャンプーや石鹸の匂いと、それだけではない、甘くやわらかく、体の内側をくすぐってくる香りだった。
暗闇を見つめて、またまぶたを閉じると、葵さんと肩のあたりが触れた。彼女は何も言わなかったが、静かな呼吸と、心臓の脈打つ鼓動が伝わってきた。
「電気、戻ってこないね」
沈黙を守るのが難しくなってきて、私はそう言った。
「そうだね。大丈夫? 怖くない?」
葵さんがこちらに顔を向けたのが、気配で分かった。私は背筋を伸ばして、ゆっくりとうなずいた。
「うん、平気」
「そっか。えらいね。じゃあ、もう少し待ってみようか」
「うん」
結局、そうやって並んで待っているうちに、私はいつの間にか眠っていたらしい。
そして、翌朝目が覚めると、風雨の音は止んでいた。電気も復旧していたらしく、豆電球がうすぼんやりと灯っていた。
「おはよう」
はっとして寝返りを打つと、すぐ隣に葵さんがいた。彼女は先に目を覚ましていて、私の目覚めるのを待っていてくれたようだった。おはよう、と私は慌てて視線をそらして口ごもった。
当時の私の記憶が改変されていなければ、電気の復旧を待つうちに葵さんの布団の上で眠ってしまった
私に、彼女は一晩中添い寝をしてくれていたことになる。
それから葵さんは布団の中から立って、雨戸を開けた。布団の中には彼女の肌の熱がこもっているのが
感じられて、私は急に気恥ずかしくなったのだった。しかし雨戸を開けると外はすっかり晴れていて、
朝の光が部屋を照らし出した。
「朝ごはん、何が食べたい? お姉ちゃんが作ってあげるよ」
そう言って振り向いた彼女の明るい笑顔を、私は今でも鮮やかに覚えている。
ちなみに、翌朝になってもナツ兄は戻ってこなかった。後に聞き知った限りでは、どうやらその日の昼頃にしれっと家に帰ってきたらしい。そのまた後日、この日をきっかけに、その頃にはさらに親しく接してくれるようになっていった葵さんから、改めてその事情も含めて、ナツ兄の秘事を教えてもらった。
ただ、それはまた数年先のことだった。
とにもかくにも、こうして私の初恋は、少しずつ深まっていくことになるのだった。
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