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呟く思考(twitter), 吃る思考(stutter)

川のほとりの保育園に娘が通うようになり、毎日土手沿いに自転車を走らせながら、川の流れを眺めている。冬の頃には色々な顔ぶれが揃っていた鴨たちも、そのほとんどが春になってどこかに渡り、ただ相変わらずカルガモだけが、浅瀬に顔を突っ込んで虫か何かを漁っている。その周りではコサギが忍び足で徘徊し、草陰や川底の砂利を黄色い足でガサガサと揺り動かしながら、驚いて出てきた魚や虫をついばんでいる。いつも同じような場所に陣取っては同じように虫魚を喰らっている彼らが、果たして同一個体なのか、それとも別個体が入れ替わり立ち替わりしているのか、僕にはまだ判別がついていない。

それにしても、似たような光景を毎日のように眺めていると、日本は季節が豊かだというけれど、365日がたった四つの季節に分割されるのだから、季節の移り変わりは案外に緩やかだとも感じる。この街に住み始めてまだ一年目だが、季節が巡れば鴨がまたどこかから戻ってきてはどこかへと渡っていき、同じような光景が戻ってきては繰り返されるのだろう。毎日、そして毎年繰り返される反復。この変わり映えのなさに、僕はなんだか安心を覚える。

それとは対照的に、SNSのフィードには日ごと新たな情報が滔々と流れ続けている。その流れに身を委ねることで、自分の知らなかった情報や映像に辿りつけるので重宝はしているのだけれど、フィードの流れに浸り続けていると、心がそこに流れる情報を丸呑みにしたり、ただ刺激に反応したりするモードに入ってしまうことがある。フィードをスクロールする親指が次第に自動的な上下運動をくり返しはじめ、カフェインを摂り過ぎた後のように脳が興奮し、もうここらで情報/カフェインの摂取は控えたいのだが指は止まらない、気づけば移り変わる画面の明滅を目で追っているだけになっている。新しさに満ち満ちた、処理しきれないほどの情報量に興奮し、そして草臥れた心は、本来意識を凝らすべき未知の情報に対しても、それを慎重に吟味することなく、自動的な反応をはじめてしまうのだろうか。

そして、新型コロナウイルスの流行やウクライナ戦争の勃発といった事件があれば、フィードの大域的な流れ自体が変貌する。どこに向かうのかも分からないまま、それでも立ち止まることなく、どこかへと向けて走り続けるひとの世界。

そんなときでも、路傍には昨年と同じようにツツジの花が咲いている。自然と足が立ち止まり、目は蕊を行き交うハナアブを追い始める。自然の律動に触れて、心もまた、穏やかなリズムを刻みはじめる。人間社会の喧噪を離れ、いつも通りそこに咲く花のありがたさ。

反復には安らぎがある。

研ぎたての包丁でキュウリを切っているときの、とんとんと掌に伝わる心地よさ。編み物で同じ所作をくりかえし、パターンを反復するうちに安らいでくる心と体。ろくろの上でおなじ形を作りつづける職人の手の動き。川の流れを遮る飛び石の下流で、左右にゆらゆらと揺れ続けるカルマン渦。ひとつのフレーズを味わい尽くすように何度も反復する坂本龍一の音楽。

ダンサーの岩渕貞太さんが狂言(「二人袴」/天籟能の会)をはじめて観たとき、「普段テレビなどで触れる笑いと比べて、ゆっくりたっぷり遊んで繰り返して、たっぷり笑う」(読点著者)と、感想を twitterにこぼしていたことがある。たしかに、テレビ番組などに流れる笑いではネタバレが不利に働き、笑いの最大瞬間風速が初見時に記録されることが多いが、古典芸能では同じネタが繰り返されるほどに、腹の底から沸々と笑いがこみ上げてくる。足繁く寄席に通い、何十年と語り継がれてきた演目に幾度となく耳を傾ける落語ファンは、ネタの新しさではなく、くり返される反復を味わい、笑っているのだろう。僕もまた、川の流れを眺めているとき、同じ風光を何度も咀嚼するように味わっている。案外、川を眺めることと、落語を聞くことは似ているのかもしれない。

とはいえ、これらは機械的な反復ではない。パターンを反復しきれない手癖のうちの編み物の味わいがあり、焼き上げた器のひび割れのなかに個性が宿り、ひとつのフレーズが徐々に変奏されることで音は立体的に自らをあらわす。反復を味わうことが、それでそのまま、差異を味わうことに連なっている。

保育園からの帰り道、娘と一緒に土手をくだり、草花や川底をのぞき込む。春が過ぎて黄色い花を散らした菜の花が、代わりに小さな種子を含んださやを密かに脹らませはじめ、茎の所々にはアブラムシの群れが黒く覆い被さり、それに誘われるようにアリやテントウムシの幼虫が寄ってきている。冬の間に川底に繁茂していた藻類は、春の虫魚に食べられているのか、あるいは川で遊びはじめた子どもの足に踏まれてなのか、少しずつ嵩を減らしていき、藻のぬぐわれた艶やかな砂利の上を流れる水は、その煌めきを増していく。自転車の速度からは変わらずに見えていた風景の中にも、毎日僅かずつの違いが生じている。

毎日同じでありながら、毎日変わりゆく川を眺めていると、戦後日本の現代音楽家・武満徹の言葉を思いだす。

ぼくらにはおなじように聴えても、どもりも鳥も、いつも同じ事はくりかえさない。その繰りかえしには僅かのちがいがある。このちがいが重要なのだ。

「吃音宣言」所収『武満徹 エッセイ選——言葉の海へ』

繰り返しながらも、同じではない。異なりながらも、反復されている。反復の中に包まれた差異を、じっくりと味わい、ほっと安らぐ。

翻ってみると、SNSのフィードはいつも目新しく耳新しい情報に満ちている。あるいは、フィードをスクロールする心がそのような情報収集モードにセッティングされている。新しい情報を効率的に摂取できる便利さを捨てる必要はないけれど、そのモードがいつしか、情報を発信する心に、そして、ものを考える心にまで乗り移ってきていることには警戒したい。一度呟いてイイネが沢山ついた言葉を繰り返しても、再びイイネを獲得できるわけではない。イイネの数が可視化されることで、twitterでは毎日何か新しいことを呟かないといけない気がしてくる。そうしてはやる心に、再び武満徹の言葉を読んで聞かせる。

自分を明確に人に伝える一つの方法として、ものを言う時に吃ってみてはどうだろうか。ベートーヴェンの第五が感動的なのは、運命が扉をたたくあの主題が、素晴らしく吃っているからなのだ。
ダ・ダ・ダ・ダーン。
…………ダ・ダ・ダ・ダーン。
吃ることで自分の言葉を、もういちど心で噛みしめている。

「吃音宣言」所収『武満徹 エッセイ選——言葉の海へ』

これは伊藤亜紗さんの『どもる体』(医学書院)を読んではじめて気付いたことだけれど、僕も自分が一番伝えたいことを口にするときに、どもる癖がある。大事に想っていることほど、一度口に出した言葉がしっくりこないと、表現をかえて言いなおすことも多い。同じことを何度でも、僅かに違う言葉で、吃るように語ること。そのような反復と差異の中に、僕の思考のスタイルを感じとってくれている人もいるように思う。

なんだか武満さんの思考を反復しているようだけれども、新規性に駆動される呟く思考(twitter)に比べて、反復を厭わない吃る思考(stutter)の価値は見えにくいからこそ、武満さんが語ったものと同じ言葉を僕の中にも反響させて、これからもその意義を繰りかえし吃っていこうと思う。

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