身体感覚で『空海』を読みなおす|安田登×岩渕貞太×江本伸悟|松葉舎の講義録|2024年8月30日
2024年8月30日、東京は恵比寿の某所にて、松葉舎の部会である「ことばとからだの研究会」(主催:江本伸悟、岩渕貞太)の一環として、能楽師の安田登さんをゲストにお迎えした講座「身体感覚で『空海』を読みなおす」を開催いたしました。
こちらはその告知文と、講座当日のイントロダクションとなります。
告知文
即身成仏、声字実相。
この身のうちに仏を認め、世界に響きわたる声、浸透する文字にこの世の実相を見てとった空海。
身体と言葉を否定的に取りあつかう流れにあった仏教の歴史において、その価値観を転覆させるかのように肯定的に身体を語り、言葉を語った空海の思想は、日本に生きる私たちが「ことば」と「からだ」を考えるヒントに満ちた宝蔵であるように思います。しかし、現代に生きる私たちにとって、空海という古典はもはや外国語のように難解で、一筋縄に読み解くことはできません。更にいえば、それを現代に生きる知恵として活かすためには、ある種の時空超越的な「翻訳」が欠かせません。
そこでこの度は、これまで多くの著作(『身体感覚で『論語』を読みなおす。』『身体感覚で『芭蕉』を読みなおす。』)や講義(NHK100分de名著『史記』『太平記』『平家物語』『源氏物語』)を通じて古典の言葉を現代に甦らせてきた安田登さんのお力を借りて、空海の読みなおしに挑みます。
安田さんの仮説によれば、空海の思想は、当時の人々にすら伝わってはいなかった。空海は、その思想を曼荼羅や諸々の著作のうちに「冷凍保存」し、読み解かれるべき未来へと向けて「投企」したのではないか。その言葉が、図像が、千二百年の時を超えて、いまわたしたちの手に受け継がれている。
一つの「正解としての読み」を解説するのではなく、空海の思想にこめられた無数の読みの可能性を実験的に切り開いていく時間になると思います。
イントロダクション
本日は足元の悪い中、講座「身体感覚で「空海」を読みなおす」にお越しくださいましてありがとうございます。わたくし、この度の会を主催しております松葉舎の江本伸悟と申します。本日は、数時間ほどの短い時間ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします。今日の会を始めるにあたって、はじめに全体に関わるお知らせを幾つかしておきたいと思います。
ことばとからだの研究会について
一つ目は、この度の講座「身体感覚で『空海』を読みなおす」の大元となっている「ことばとからだの研究会」についてです。
独立研究者として活動しているわたくし江本伸悟と、ダンサー/振付家として活動している岩渕貞太が、松葉舎の部会としてふたりで立ちあげた研究会なのですが、その名が示す通り「ことば」と「からだ」について研究することを目的にした会となっております。
ただ、この研究会にはもう一つ目的がありまして、実はこちらが本命なのですが、ことばとからだ「について」研究するだけでなく、ことばとからだ「をもちいて」、ことばとからだ「とともに」研究する方法をさぐること——それがこの研究会の趣旨となっています。
ここには、学者として研究を続けてきたぼくとダンサーとして探求を続けてきた岩渕さんの意識が相補的に重なりあっています。一方では、ぼくは学者として言葉をもちいて研究をつづける中で、これからの学問には言葉だけではなく身体を通じた探求が必要になると感じるところがありました。一方では、ダンサーとして踊りの探求を続けてきた岩渕さんにも、踊りの探求を深めるには身体だけでなく言葉を通じた研究が必要になるという意識があったように思います。
そのふたつの意識が重なるところに、ことばとからだの双方にまたがった思考と探求の形式をもとめる、ことばとからだの研究会が立ちあがりました。
もちろん、これまでの学者も身体を排して言葉だけで研究をしていたわけではありません。これまでのダンサーも、言葉を排して身体だけで踊りを探求していたわけではありません。けれど、より深い次元で言葉と身体を混じり合わせていったとき、そこに何が生まれるのか、それを見てみたいというのがこの研究会の動機の根本となっております。
ことばとからだの研究者としての空海
そして空海というのは、日本の歴史上、言葉と身体について最も深く思考した思想家の一人であり、また同時に、言葉と身体をもちいた独自の思考スタイルを確立した一人でもあるとぼくは感じております。
その思想の一端は、空海がみずからの思想を説いた主著である『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』に垣間見ることができます。
たとえば『即身成仏義』ではその表題通り、私たちはこの身このまま成仏することができる、仏になれるという即身成仏の義が説かれています。あるいは『声字実相義』では、声と文字、即ち言葉というものがこの世界の実相である、この世界に遍く広がる言葉を通じて真言にいたることが悟りであるという、声字実相の義が説かれている。ここでは悟り、即ち仏教における最高の真理に至るにあたって、身体の存在が力強く肯定され、言葉の役割が高く評価されています。
仏教の歴史を考えたとき、空海がこのようなかたちで言葉と身体を肯定する思想を論じたことは、ほとんど革命的と呼べるほどの出来事だったのではないか。
それというのも、仏教——に限らず多くの宗教——において、肉体というものは欲望の根源であり、その感覚は錯覚に捉われており、それゆえ精神的な活動をさまたげる障害と見なされがちで、いきおい、宗教的な真理というものは身体を離れた次元に求められがちな傾向があります。
あるいは言葉に関しても、ブッダのころから悟りの内実については言葉に表しきれないものとして口が閉ざされてきましたし、大乗仏教の大家である龍樹(ナーガールジュナ)に至っては、言葉を止滅しないかぎり最高真理は得られないと説きます。それは、言葉というものをあまり信じ込んでしまうと、言葉によってこの世界に仮に敷かれたに過ぎない区別、境界、いってしまえば虚構を、この世界の本当の姿、実体として捉えてしまう分別心に捉われてしまいかねないからだと思います。
身体に付きまとう欲望や錯覚、言葉によってもたらされる分別心、そうしたもののことを思うと、身体を離れ、言葉を離れることで真理に至ろうとするその歩みも分からなくはない。
しかし、空海はその道行きを選びませんでした。肉体は嫌悪すべきものではなく、言葉もまた忌避すべきものではない。それらを通じてのみ人は悟りに至れるのだとして、空海は言葉と身体を仏道に引き込んでいった。
そこに至るまでの過程には、何かを感じ、考え、分かり、悟るにあたって、言葉と身体が有している意味と役割を根本から捉えなおしていく丹念な作業と、それらを自らの思考体系に組み込んでいくための途方もない努力があったのではないかとぼくは想像します。
そういう意味では、空海の思想の独創性がどこにあるのかといえば、それは何を悟ったかにではない。そうではなく、悟りに至るにあたっての言葉と身体の役割を考察し、それを実践していった、その思考のスタイルにこそあるのではないかと思っています。
古典の言葉を現代に語りつぐ
そのようなわけで、この度の研究会では、言葉と身体に関する空海の思想を読み解いていくと共に、言葉と身体をもちいて空海が思考を進めていく、その思考のスタイルについても学んでいきたいと思っております。
ただし、現代に生きる私たちにとって、空海という古典はもはや外国語のように難解で、一筋縄にそれを読み解くことはできません。更にいえば、その言葉を現代に生きる知恵として活かすためには、ある種の時空超越的な「翻訳」が欠かせません。
そこでこの度は、これまでに『論語』『芭蕉』『史記』『太平記』『平家物語』『源氏物語』など、多くの古典を現代に甦らせてきた安田登さんのお力を借りて、空海の読みなおしに挑みたいと思います。
安田さん、今日はどうぞよろしくお願いいたします。
学問の素人になる
ちなみに今回の登壇者は、能楽師、ダンサー、元物理学者、ここに空海の専門家はひとりも居合わせておりません。
いわば空海の素人である私たち三人がみなさまの前にたって、空海に学び、空海を問おうとしている。この無謀な挑戦を支えているのは、「学問の素人になる」という姿勢がこれからの時代重要になってくるのではないかという思いです。
もうすこし詳しくいえば、いまの学問の世界にもうけられた「専門家/門外漢」という区分においてものを考えるかわりに、学問の「玄人/素人」という区分を仮設して、そこにおいてものを考えるということを実験してみたい、挑戦してみたい。
というのも、いま社会はあらゆる領域がこまかな専門領域へと細分化され、私たちはあらゆる領域の門外漢として生きることを余儀なくされています。そうして私たちは、あらゆる領域における門外漢として、みずからの意見を述べることに臆病になり、それぞれの領域の専門家の意見の継ぎ接ぎに身を委ねるようにして生きざるをえなくなってきている。
実際、専門家自身が「私は自分の専門外には口をださない」といっている姿もしばしば見かけます。これは一見謙虚な言葉のようにも思えますが、視点を変えてみると「私の専門領域に口をだすな」「世の判断は私たち専門家集団が引き受ける。大衆はあらゆる分野の門外漢なのだからそこに口を出すべきではない。私たち専門家の意見のパッチワークを生きていきなさい」という宣言に限りなく近い言葉でもあるように思います。
人は、そのような社会で、自らの生を主体的に生きていくことができるのだろうか。専門家だけがものを考え、判断をくだし、市井の人々はそれにただ従うことを半ば強いられるという社会で、社会全体としての思考能力は痩せほそろえてしまわないだろうか。
いったい、どうすればいいのだろう。
いまも考えつづけている問題で答えはありませんが、ぼくがひとつヒントになりそうだと感じているのが、お能をはじめとした日本芸能の世界でもうけられている玄人/素人という区分です。
能楽の世界では、お能に関わる人々のあいだに、専門家と門外漢ではなく、玄人と素人というかたちでの区分がもうけられていると思います。能楽堂で玄人の舞いを鑑賞している人たちも、日頃は先生のもとについて舞いを習い、素人ながらに舞いを舞っている。
だから舞台を鑑賞するときにも、ただ純粋な観客としてそれを眺めているというよりは、観客席にいながら、動かずしてみずからも舞いを舞っているのではないか。そのようにぼくは想像しています。実際ぼくも、お能を習ってはいないのですが、山田うんさんという振付家の方からコンテンポラリーダンスを習いはじめて以来、みずからの踊る身体を通じてダンスを鑑賞する感覚が養われていきました。
ダンスの世界も、いまでこそ舞台上に踊るダンサーとそれを観客席から眺める観客とが截然と分かたれていますが、もともと日本では盆踊りなど、踊る阿呆と見る阿呆とがひとつの平面を共有してそこに居合わせていた。玄人と素人の区別はあれども、見る阿呆がいつ踊る阿呆になるとも分からない、そうした有為転変の最中において、日本の踊りは踊られていた。
能楽の素人も、ダンスの素人も、門外漢として門の外に締め出されているわけではない。素人と玄人の交流のなかで、舞いが舞われ、謡いが謡われ、踊りが踊られている。学問の世界でも、門外漢ではなく、素人としてものを考えることは可能だろうか。
学問の素人になる。
そこに生じうる流れは、①それまで門外漢と見なされていた人が学問の素人となってものを考えるという一方向の流れだけではない。②それまで何らかの分野の専門家であった人が——「専門外には口を出さない」という誓いを破って——積極的に自らの専門の外へと出向き、素人としてものを考える。
そのようにして、専門という名の「門」を内外行きかう流れのうちから、「専門家/門外漢」に代わる「玄人/素人」という新たな区分が立ちあがってくるのではないか。
そんな期待を抱きつつ、今日ぼくたち三人は、学問の素人としてものを考えていきたい、いわば、考える阿呆になってみたいと思っています。