打たれ弱いままで、強くなるには
バリの大富豪は言った。
「来るもの拒まず、去るものモンキーや」
フリーランスになって日が浅いころ、仕事仲間から贈られた本に彼はいた。ある日本人がインドネシアのバリ島にいることを、その本で知った。
彼は血のつながりを超えて、国内外から「アニキ」と呼ばれ慕われているそうだ。
彼を主人公にした映画『神様はバリにいる』がつくられたほどの有名人だという。バリに多くの不動産を所有し、数十件の自宅をもち、関連会社の数は両手では足りない。
「お世話になったバリに恩返しがしたい」とインドネシア孤児の里親もひきうけ、養育する子どもは170人を越えるという。とにかく、けた違いの人らしい。
人生に行き詰まったある青年がアニキに会いにバリへ飛び、アニキ流の人生訓を学んでいく物語を一気に読み終えてしまった。
「おれが丁稚奉公からスタートしたときは、地べたで飯食うてたよ。だからテーブル1こあるだけで、ありがたいんや。そういう気持ちを忘れんことや」
悩みの解消やビジネスのヒントを求めて、日本からやってくる大勢の日本人たちを一同に集めて夜更けまで話をきき「ハラ減ったな」と、夜中だろうが明け方だろうが、インスタントラーメンをたいらげ、地鳴りのようなゲップをするアニキ。
「どーん!」「バーン!といったれ」擬音がはじける大阪弁の「アニキの教え」の根底には、他者への与える姿勢がつらぬかれていた。豪快でいて粗野でない不思議なバランスに、聞いたことのないアニキの低い声が聞こえてくるようだった。
本が届いて数カ月後、別の友人からメッセージが届いた。
「なあ、バリに行かへん?」
不思議なめぐりあわせで「アニキに会いにいくツアー」を主催することになったと言う。
「『神様はバリにいる』のアニキ? こないだ知って気になってました」
「そうなんや。ご縁とタイミングやなぁ」
それで、バリの大富豪に会いにいくことになった。
私も本に出てきた青年同様、仕事で行き詰まっていた。
人と摩擦がおきるたびに凹む自分の打たれ弱さに、困っていたのだ。
フリーで仕事をはじめると、人と関わることの大切さがよりしみる。良い商品をつくっただけではお客さんはやってこない。私の存在をそもそも知らないので、買いようがない。知ってもらうために、自分から積極的に人に関わっていく必要がある。
立ち上げ期はとくにそうだ。どんどん動いて人に会わないと何も展開しない。
売り込みと提案の違いもわからず、商いのセンスもない自分の苦手分野がみるみる浮きぼりになった。なにより、コミュニケーション下手が響いた。
人と話すのが苦手で、異業種交流会に参加すれば帰りは口もきけないほど疲れた。
「ダメでもともと」と呪文のように唱えてみても、実際ダメだとやっぱり落ち込む。先輩経営者の「自営業は断られるのが仕事」という励ましに奮起して新しい出会いの場へ出かけては、きまずい摩擦を起こして凹んでいた。
打たれ弱い自分が、ほとほといやになる。
バリ島行きは、そんなタイミングだった。
案内されたアニキの豪邸は、到着したのが夜で視界がはっきりしなくても、その広さがわかった。広間がいくつもあり、どっしりした木の階段が二階につづいていて、廊下には大きな絵画や写真や掛け軸がびっしりかかっている。ドアもトイレがあちらこちらにあって、部屋の数がいったいいくつあるのか見当もつかなかった。
通された広間には大きな真っ白のテーブルが、どん、と置かれていた。私たちのほかに別のツアー客などもいれて、二十人ほどの老若男女がテーブルを囲んで席につくと、客の希望にそって、烏龍茶やビンタンビールがふるまわれる。
背が高すぎもなく、低くもない、Tシャツにジーンズ姿の男性が「どうも」とにこにこ部屋にはいってきた。
顔も体も野生動物のように引き締まっていて、夜中にインスタントラーメンを食べているようには見えない。
本物のアニキの声は、すべての発音に濁点がついたような低音で、床をつたって振動するくらいの迫力があった。
悩みや、相談ごと、具体的なアドバイス。全国から集まった参加者から一人ずつよせられる質問へ、アニキは次々に答えていく。
考えるそぶりもないアニキの返答に、ビンタンビールを持ったままの手が止まる。気持ちいいほどの即答だ。
愛媛からの参加者の女性が、口を開いた。
「アニキでも、失敗するんですか?」
「なにを言うてるの、当たり前やがな」
彼女の口が閉じきらないうちにアニキが答える。
「失敗ようさんしてきたから今日があんねや。ボーボーに失敗しまくってきて、それでも続けたからこないなっとんねん」
ほっとした表情の彼女に、アニキが兄貴のように言った。
「だーいじょうぶ。失敗してないヤツなんか魅力がないねや。はい次」
「あの」
私の隣に座っていた友人が、控えめな声でたずねた。
「アニキは、たくさんの人と関わってきてますよね。誰かとの関係がうまくいかなかったときの気持ちって、どう処理してるんですか?」
アニキが彼女の顔を見た。
「数すくなすぎ。そんなこと言うてるうちは」
一拍の間もおかずに言葉が返ってきた。
歯を見せずに笑うアニキの、日焼けした目尻のしわが深くなる。
「関わる人が少ないまま誰かと気まずうなったら、そらしんどいわ。百人より千人や。千人より一万人や。十人と気まずうなっても、百人のうちの十人と、一万人のうちの十人やったらどないや」
目を見開いた彼女の隣にいた私も、同じ言葉をど真ん中に受けた。
「関わる人を多くすれば、少数の人らのことで悩んでる暇もないやろ。あなたは他の人たちと誠実な関係を築いていけばいい。あなたの元から去る者はあなたの人生に残らんでもええ人や。安心し」
アニキはビンタンビールを一口あおった。
「大切なものは、残るもんや」
でな。おれの格言おしえたる、とアニキが急に真面目な顔になった。
「来るもの拒まず、去るものモンキーや」
一瞬のまのあと、その場にいた全員がどっと笑う。
手にしたビンタンビールのボトルの汗はすっかりひいて、もうぬるい。
あ、これを聞くためにここに来たのか。
豪邸の屋外には広いジャグジー風呂があり、水着を借りて入らせてもらった。
考えすぎた頭のガス溜まりが、ぶくぶくと湯に溶けていく。
見上げるとちょうど満月で、ヤシの葉っぱ越しにきれいなまんまるが見えた。
目で満月の縁をなぞりながら、てんてんてんてん、と点を打ち弧を描いてみる。
どれだけの人に会い、いくつの点を結べば、あれほどなめらかな円を描けるだろう。
「はじめまして」を繰り返し新しく始める自分を想像して、目を閉じた。
バリ行きを決めた直感に似た何かを信じて、いろんな場所へ、いろんな人へ、会いにいく。
打たれ弱いままで、少しずつ強くなっていく自分の姿がまぶたの裏にいた。
アニキは「たくさんの人と関われ」と言った。
多くの人に関わるほど、ままならない場面は増えるだろう。
それだけ、誰かとつうじあえた時は心底うれしいだろう。
前は乾いて響いた「ダメでもともと」が、いまになってようやく染み込んできた。
世界は私に都合よくできてはいない。
私の期待にそうように人は動いていない。だから私から動く。
凹んだ数は、なにかに挑戦した数なんだろう。
いつかの先輩経営者たちの声が聞こえる。
「俺なんて断られてばっかりよ」
「私けっこう、こうみえて凹むよ」
そう言ってやめない人たちは、アスリートみたいな笑顔だ。
自分の打たれ弱さも凹みやすさも引き受けた締まった表情をしている。
まゆの形をしたジャグジーの上を、インドネシアのぬるい風が渡っていく。
アニキの声があぶくの音に紛れてなお、耳に残る。
「どんどん人と関わったらええ。大切なものは残るもんや」