不自由な自分を旅へ連れだす
出港の汽笛が神戸港に響きわたった。
色とりどりのテープが舞う。
見送りの人たちがいる港に向けて大きく手を振った。
不自由なまま、自由に旅立てる。
先の見通しもなかった半年前の私に手を振って「ここにいる」と伝えたい。
2005年12月10日。
右腕が重くてしかたなかった。
ベッドの上、地球の引力に右手だけ強く引っぱられているようだった。
病室から見える鶴見岳の山頂が、雪におおわれている。
麻酔から覚めた私の首は、大きなガーゼにおおわれていた。
予定どおり臓器は五分の四ほど切り取られたのだろう、点滴を連れて術後初めて自力でトイレに行こうとして、よろけた。
ヒゲを切られた猫の気持ちがわかる気がした。体のバランスが取れない。
「う、あ」
自分の声がかすれて聞こえた。
錆びた自転車みたいにきしむ体の左手にふと目をやる。
左手が支えていたのは、力をなくして重くぶら下がる右腕だった。
見舞いに来てくれた人に手を振るのもおっくうなほど、右手が上がらなくなっていたのだ。
右手のことを主治医の先生に伝えると、3ヶ月も経てば元に戻るでしょう、と言われた。
「寒いうちは、よりつらく感じると思います。
春になれば次第に良くなりますよ」
38.5度の熱が下がり、お風呂や食事など病院の時間割のあいまに私が取り入れたのは、左手で字を書く練習だった。
食事のあとや、読書に飽きたとき。
眠りから覚めたとき。
迷子のような不安をもてあますとき。
私のためでも社会のためでもない、名前のない時間をただ引っかく左手のペン運びは目的なさげにいびつで、ノートに書かれた字はみなふるえていた。1から10まで数字を書き、ひらがなを五十音順に書いてみる。
そのまま日記を書こうとしたら、左手がつった。
五才児くらいの字が左手で書けるようになると、時間つぶしにも飽きてしまった。
左手は鈍くて、右手は重くて、どちらの手も使いたくない。
そうこうしていたら、書きとめたかった言葉が消えた。
これじゃ、日記が書けない。
忘れっぽい私はあれもこれも書きとめないと、記憶から今が消えてしまう。
この迷子のような不自由はなんだ。
点滴が外れても、行動範囲は病院内にかぎられている。
小さな世界の一階におりていくと、売店の雑誌コーナーに笑顔の表紙が並んでいた。
自分探し?
迷子のような心細さを感じている今の私は、自分を探しているのだろうか? 今はどこにいて、これからどこへ行きたいのだろう。
どこかにたどりつけば自分がいるのだろうか。
雑誌は手に取らなかった。探しているわけじゃない。
じゃあ何をしてるんだろう。
退院する日の朝も、鶴見岳のてっぺんは白かった。
退院後も二週間おき、一ヶ月おきに様子を診なければならず、体はなかなか自由にならない。
高速バスと特急電車を乗り継いで、往復五時間かけて病院へ通う。
術後の経過は予想外だった。
数値は前回より正常値を下まわっている。
手術すればすべて解決するかと思ったら、そう簡単にはいかないらしい。
順調によくなるつもりだった私は、先生の説明を聞きながらぼうっとしてしまう。
回復傾向だと信じていた反動で、検診結果にすっかりしょげてしまった。
右手からすべり落ちた病院の診察券が、電車のホームの線路に落ちた。
財布にしまいそびれていたことに気づき、駅員さんを呼び診察券を救出してもらう。すみませんと頭を下げる、自分の声がかすれている。
気力が欠けると、不器用がきわだつ。
ひじから下を切り落とされて拾って急いでつないだみたいな右腕だ。
帰りの特急電車の中で黒豆パンと野菜ジュースを手に、これからのことを考えてみた。何も浮かばなかった。
私はいま無職で、無力で、なんにもない。
そして、すぐに仕事に就ける状態でもないらしい。
赤くやわらかくぶよぶよに膨らんだ傷あと。この縫合痕はいつか消えるのだろうか。
目がまわり、腕がしびれる。強い眠気と、ゆるい吐き気。
術前に聞いていたとおりの症状と一緒に、2006年の春を迎えた。
天気予報が流れると、テレビに話しかけていた。
「今日は何度?」
周りがスプリングコートをはおる四月、私はぶあついコートと手袋とマフラーで体をくるむ。
それまで極度の暑がりだった私は、手術後にひどい寒がりになった。
今は身体を治そう。こころの焦りは保留にしよう。
足踏みする日々で、どこにも行けないわけじゃない。
信頼のおけるお医者さんのもと、夢を叶えると決めたのだ。
夢のひとつは「献血できる身体」になること。
発病後から20年近く薬を飲んでいて、献血の条件を満たせなかった子どもの頃からの夢だった。
手術をすれば薬を手放せると聞いていた。
だから放射線治療ではなく、手術を選んだ。
もうひとつの夢は11年ごし。
文章を書いて暮らすこと。だから右手も治す。
不器用な左手と、重たい右手。どちらを開いても空っぽだ。
これから手にしたいものを、つかめるかな。
2006年4月18日。
財布と携帯と、1本のボールペンの入った小さなバッグを持って家をでた。
行き先は近所のスーパーで、夕食の買出しへ。
昼下がりイヤホンで音楽を聴きながら、筑前煮の材料をおもいうかべて歩く。
昨日やおとといと同じような午後だった。
スーパーの手前で本屋さんの軒下に入ったのは、春の強い日差しを避けるためだった。
かざした手を下ろし顔をあげると、窓に貼られた大きなポスターと目が合った。
「世界一周の船旅」の太い字と、水平線がゆるやかに弧を描く海が目の前に広がっていた。出発日は3ヶ月後だった。
イヤホンからアジアン・カンフー・ジェネレーションの暗示めいたメッセージが耳に流れ込む。
ポスターに貼り付けられたクリアポケットから資料請求ハガキを一枚ひきぬき、家を出る直前になぜかバッグに入れた青いボールペンで空欄を埋めた。
ボールペンをバッグにほうりこんだ10分前の私から受け取ったペンで、未来を書く。
本屋さんの外壁に押し当てたハガキに力強く自分の名前を引っかいた右手は、羅針盤の針だ。
郵便ポストは本屋さんのすぐそばで待っていた。
そのまま未来をポストに落として、私を驚かせた。
気ままに右手をあやつっていたときは無自覚だった自由。
いくつか失ったことで目に飛びこんだ選択肢は、手帳に書かない寄り道の途上にあった。
普通の人生が今の私に不自由なら、普通でなくていい。
普通のルートが陸路なら、海路でもいい。
今までこんな選択肢に気づかなかった。
不安を数えればきりがない。
けれど不自由を嘆き「もしも」におびえて、見通しのつくものしか私には選べないと、誰が決めた?
どうせ無職だ、乗るなら今のうち。
なけなしの貯金だ、世界をクルッと周ったあとに働けばいい。
今まで体のいうことを聞いて過ごしてきた。
次は心の針が指した方角へ、体を連れていく。
重い右手を動かした心が、旅の準備を一瞬で整えた。
翌週、片道二時間半かけて受け取った、検査結果は前回とあまり変わらなかった。
それでも前とは明らかに違う。暖かくなった。
じきにツツジがあちこちの山を明るいピンク色に染めはじめる。
先生が検査結果のプリントから顔をあげて、言った。
「大丈夫。あなたが今、平気なら心配はないです」
力強い声だった。
「平気です」
私も同じくらいはっきり答える。
先生の後ろで何かを書きこんでいた看護師さんが口元を上げた。
「じゃあ、次は三ヶ月後でいいですよ」
(うし!)
ボウリングでストライクを出したみたいに、心の中でひじを引く。
次の検診を終えたら、船に乗ろう。
これは自分探しじゃない。
自分はここにいる、右手も「ここだ」と存在を教える。
腕が重たいのは血と水と肉が生きているからだ。
痛いのは張りめぐらされた糸が感じているからだ。
すでにいろいろ揃っていて、足りないものは何もない。
不自由ぶった自分を旅に連れだそう。
写真にもテレビにも映せない世界に、飛びこんだ私から生まれる声を聞こう。
右手がつづる船上の日記は私がまっさきに読む。