通り過ぎていたら聴けなかった息子と母の話

午後10時、歩行者信号が青に変わった。

「あの、すみません」
「はい」

 イヤホンを片方はずし左を向くと、男の人が同じ横断歩道のはじに立っていた。

「近くで一人で飲めるお店知りませんか?」
「えー、あ、あそこ。たまにテレビ収録に使われているお店がありますね。行ったことないけど」
「あれですか」
「はい。あの看板。あと、もう一軒、ここまっすぐ行ったらスペインバルもあります」
「スペインバル。おしゃれですね」
「ですね。よく知らないけど」
「いいですね、スペインバル」
「私こっち方向なので、お店の前まで行きますよ」

 外したイヤホンを失くさないようコートのポケットに入れながら私が言うと、

「ありがとう。僕、もう少し一人で飲みたくてお店探してたんです」

 私と並んで歩き出した彼が、話を続けた。

「テレビで使われるお店を知ってるって、その業界の方ですか?」
「その業界?」

私が訊きかえすと「マスコミ関係とか」と、彼がさらに質問をせばめた。
「いえ、違います」
「何の仕事してるんですか?」
「ライターです」
「じゃあ、僕と似たような業界ですね」

彼が前を向いて歩きながら目を細めて笑った。

店にはすぐに着いた。数組の客が談笑しているのが窓ごしに見える。

「ここです。まだ開いてるみたいですね。じゃあ」
「せっかくだから一杯だけ飲みませんか。おごります」
「一人で飲みたかったんじゃないですか?」
「はい。でも、せっかくだし」

ナンパ現場に居合わせていることに気づいた私は、笑顔を引っ込めて相手の顔をまじまじと見た。
眉毛と眉毛の間に明るいホクロが一つぽつん、私の尊敬する先生のホクロと位置がおそろいだった。
たまに降りてくるなにかの兆しに促されて「30分なら」と返事していた。
コートを店員に預け、奥のカウンター席に並んで座る。

「何にしますか。僕はビール」
「トマトジュースで」
「飲みましょうよ」
「このあと仕事なんです」
「そうかあ。じゃ、トマトジュースください。僕はビールで」

5分前まで私の人生にいなかった人が、私の左側に座ってビールを飲んでいる。
店内の照明に見る彼は、茶色のジャケットに茶色のストライプシャツ。胸のポケットチーフとネクタイは茶色の水玉柄。ジャケットの襟に留められた、毛糸で編んだ花のブローチまで茶色だった。この人、何の仕事してるんだろう。

「さっき、ライターと似たような業界って言ってましたけど、広告関係の方ですか」
私の質問に「うーんどうかなぁ」とビールを傾けながら返事が返ってきた。

「広告代理店とか」
「うん、まあ」

またなにか降りてきた。

「〇〇(会社名)?」

 彼のビールを飲む横顔が、小石につまづいたように一瞬とまった。

「え、なんで」
「え、なにが」

 彼が出した名刺には、たった今、あてずっぽうで当てた会社名が印刷されていた。

「ほんとに〇〇だ」

笑う私に彼が顔を向け、左手首をカウンターに載せて体を支えた。

「いや、いやいやいや。なんでわかったんですか」

「実は店内にいる人みんな仕掛け人で、ほら今、目が合ったお客さんも。
今日〇〇の人から声かけられたら、この店に誘導することになってて」

「モニタリングか!」

彼があわてて周囲を見回した。客席を眺め、トリックではなさそうだと確認してから彼が息をつく。

「ライターさんの分析力ですか」
「適当です」

トマトジュースを持ったまま私は言った。彼がもう一度息をついて前を向いた。
「僕もライターしてた時期ありました。今は違うけど」

聞けば10年ほど前に、私たちはとある会社の同じライター講座を受けていたことがわかった。
四分の一の確率で合致する血液型と違い、街で適当に声をかけた相手とたまたま一致するほどメジャーな講座ではない。

「面白いなぁ」
「面白いですねぇ」

それぞれのグラスを空けた。飲み物のお代わりに、芋のお湯割りと2杯目のトマトジュースが運ばれてくる。
私と会う前から酔っていた彼は、昔の話をしてくれた。

20代で最初の仕事を辞めた彼が、次の仕事までの空白を利用して母親と2週間ロンドンを旅した話。
地図も英語も読めない母親が目の前の地下鉄に突然乗って、息子をホームに残してどこかに運ばれていったこと。次の駅にも次の駅にも母親はおらず、一日中ロンドン市内を探し回った。

「親父にカッコつけて『奥さん借りるよ』って母親を海外に連れ出したのにどうしようって、生きた心地しませんでした」

十数年たった今も、彼の母親は「一人でロンドン・ブリッジに行った」と周囲に語っているそうだ。
「普通はぐれたら、次の駅で降りて待ちません?」
怒った口調で楽しそうに話す。

彼がロンドンを旅行先に選んだ理由は2つ。
当時商業デザイナーをしていて、美術館をめぐって本物のアートに触れたかったこと。
もう1つの理由は、幼い頃から日常の美に触れさせてくれた母親を、大きな美術館へ連れていくため。

彼の二歳上の兄と父親は、美に無関心だったそうだ。
母親はよく、彼の手を引いて近くのギャラリーや、花で満ちた花壇へ「美しいもの」を見せてくれたという。

「田舎なんで、美術館とか立派なものはないんですけど、母はキレイなものをよく見せてくれたんですよね」

次男坊の彼は母の影響か絵を描くようになり、デザイン系の大学に進み、今も美しいものに関わる仕事をしている。

ふまじめなナンパから、まじめな話。
もしあの時、知らない人の声かけに眉をひそめ通り過ぎていたら、聴けなかった息子と母の物語。
ささいな兆しを見逃しても人生はだいたい、つつがなく進む。
それをキャッチすると、視界が不思議なほうへ開けるときがある。

茶色いスーツの彼と同じ場所にホクロを持つ先生はよく、ふまじめな顔でこう言っていた。

「相手の言葉にとらわれず、相手の人生を全身で感じることが大切です」

相手を信じるに足る兆しは、ホクロ一つのささやかなサイズだったりする。

「ライターでお願いしたい仕事があったら連絡しますね」
「ありがとうございます。良いお年をお迎えくださいね」

バス停まで送ってもらい、混んだ最終バスに乗り込む。
窓から手を振ると、茶のジャケットの袖口から咲いた手のひらが、花みたいに揺れるのが見えた。 


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