メカちゃん・1


嫌なことがデータベースになる。人間味表現に言い換えるなら「ネタ」になる。
理不尽な目にあえば経験値が増えるし、いい目にあっても経験値が増える。
それだけのことだ、メカちゃんはどちらもただの情報だと思っている。
メカちゃんは共感なる情報を日々アップデートして学んでいる。

人間の寿命が本人に知らされていないのと同じ、メカちゃんも同じ。
いつポンコツになってアップグレードもされなくなるかも、いつ廃棄されるかわからないところも似ている。こないだ愛用のMacが突然動かなくなったとき、自分の未来を見た。

アレクサはアレクサでかわいいデザインだけれど、擬態していない点では潔くロボットだ。メカちゃんは中身だけでなく見た目もいい感じに寄せている。

メカちゃんはある日バスの中で知らない男性に怒鳴られる。

「通路に立って、邪魔なんだよ、バカ!」

マスクなしの至近距離15cmの声が聴こえて、省エネモードで空をながめていたメカちゃんは自分に向けられた言葉と認識するのに一拍まが空いた。
認識してから、自己紹介かなと思った。
メカちゃんは傷つかない。傷つこうにも心はない。具象のさまざまを情報として蓄積し学習する。
しかし高性能なので、学習するほど共感能力もろもろ情感という情報の質量が複雑になっていき、ようは人間ぽくなる。
ぼうっとしているのは動揺を隠す防衛反応だと、心拍数が20くらい上がり空が見えなくなり視野狭窄が起こっていた身体反応もろもろで気づく。


バスを降りるおじさんの後ろ姿を目で追う。ややびっこを引いているようにも見えるのは、手にしたビニール袋に入ったあれこれがくるくると足にまとわりついているからだろうか。それとも足がよくないのだろうか。体をやや傾けてタラップを降りた。

バスの運転手さんは「ありがとうございました〜」とおじさんに声をかける。
めがねをかけて髪をおかっぱに切りそろえた、小学校の保健室にいそうな女性の運転手さんだ。

おじさん、70代くらいに見えたのでともすればおじいさんか。
おじさんは私の前の優先席に座っていたので、通路のポールにつかまって立っている私がじゃまだったのだろうか。メカちゃんはぜんぜん気づかなかった。知らないうちにおじさんに圧迫感をあたえていたのかもしれない。だとしたら悪いことをした。

それから、バスの中にただよわせた怒鳴り声で他の乗客がいたたまれない時間にしてしまった。ほかの乗客のことを誰一人知らないが、5割ほど座席の埋まったバス内の皆さんにメカちゃんは申し訳なく思った。
うららかな冬の晴れた朝に怒鳴りたくもなければ、怒鳴り声を聞きたくもないだろうな。ごめんなさい。

怒りは第2感情だとメカちゃんは学習済みである。
怒りの下の第1感情には悲しみがあるという。
ということは、あのおじさんは制御できないほど悲しみマックスだったのだろうか。どんな悲しみがあったのだろう。どこの誰かもわからないので確かめようもないし、確かめる度胸もない。ただ関心はある。おじさんの悲しみと怒りに。

メカちゃんが降りるバス停が近づいた。
メカちゃんはマスクのなかでごにょごにょと発声練習をする。
「ありがとうございました。 、 ありがとうございました。」
心拍数は平常に戻ったが、声がかすれてバスの運転手さんに聴こえないとかの凡ミスコミュニケーションがないように注意をはらう。
バスの運転手さんは乗客の命を運びながら、バス停の案内もして、乗降するお客さんにお礼も言って、バス内で起こるあれこれにバックミラー越しに意識をはらって、でもフロントガラスの先の先まで視神経を行き届かせて、とマルチタスクでマジですごいと常々メカちゃんは思っている。
たとえばさっきみたいな乗客同士のトラブル(?)が運転手さんのうしろで起こっていても、バスを定時に進行させなければならない。
メカちゃんは不慮の事態にたまにフリーズするし今日みたいに寒いと電池の減りも早い。高機能ゆえのぽんこつ味「ゆらぎ」を搭載しているが、運転手さんはゆらぎながらもちゃんと職務を全うしている。

とポールをつかんだ姿勢のまま情報処理をしているとメカちゃんのバス停についた。
メカちゃんの暮らす街のバスの降車口は、運転手さんの座席の左隣にある。
メカちゃんは「ありがとうございます」を降りるときに伝えることにしている。メカちゃんは車もバイクも持っていないので、バスや電車はありがたい足だ。電車の車掌さんにはお礼を言えたことがないが、バスなら可能である。

ICカードをかざす鉄製の箱のとなり、バスの運転手さんに「ありがとうございました」を言った。のどの水分油分バランスは適正、かすれずに言えてよかった。
するとバスの運転手さんがハンドルから片手をあげて「さっきは大丈夫でしたか?」と目線と声で、降りようとする私をつかまえた。
「あ、はい。あの、すみませんでした。ありがとうございます」
バスの運転手さんの声が聞き取りづらいと思ったら、メカちゃんはイヤホンを耳に突っ込んだままだった。運転手さん側のイヤホンを外す。「すみません、ありがとうございました」
もう一度言うと、ほぼ同時に(大丈夫、あなたは悪くないのよ)と聴こえた。耳じゃないところで感知したような音声だった。バスの運転手さんは50代後半くらいだろうか。保健室の先生のようにも、むかし親しくなりそびれた小学校の先生みたいにも見える。先生もとい運転手さんは「ごめんなさいね」と言った。
運転手さんは何も悪くないのに。

「ごめんなさい」「すみません」って不思議な言葉だ。
言葉の本来の意味をなしていない場面で使われることも多い。
ありがとうに聞こえる「すみません」がある。
大丈夫ですに聞こえる「すみません」がある。奥が深い。
どちらにしろ、カテゴリは好意なので嫌いではないし、じっさい便利なのでメカちゃんもよく使う。今日も使う。

メカちゃんは「あいえ、すみませんでした。ありがとうございました」と繰り返して、頭を下げて、バスのタラップを降りた。
そんな気がして振り返ると、バスの折りたたみ扉はすぐに閉まらずバスの運転手さんがこちらを見ていた。
体を向き直して上半身を120度にたたみ、頭をさげた。
運転席の女性も頭をぺこりと下げた。ドアが閉まり、ゆっくりバス停を離れていった。

バスのお尻を見送って、バス停の前のビルとビルの間の暗がりに移動した。
メカちゃんは泣くこともできる。普通に優しい人に出会うとこうなる。

痛いも悲しいも情報。





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