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天から落ちた大粒の涙

2005年 3月 北海の光

 誰でも忘れられない経験を持っていることだろう。私の忘れられない経験は、小学校5・6年時の学級担任、K先生の事だ。先生は若く躍動感にあふれた女性教諭である。

先生の誕生日の朝、教室に入ってくる瞬間をねらって、サプライズ・パーティーをすることになった。短い時間だったが、クラス全員で何をするか打ち合わせていた。ところが準備が整う前に「おはよう」と、先生が教室に来てしまった。それまでのにぎやかな声はやみ、教室は一瞬で凍り付いた。

「どうしたの?」と聞く先生に、だれ一人答えられず、気まずい雰囲気の説明もしないまま時間が過ぎた。すると、先生の目から涙がぼろぼろと流れた。「もう、いいよ!」と悲しい声を教室に響かせて、先生は走り去った。


初めて目にした大人の涙。しかも、常に前向きな先生の予想外の涙は衝撃的だった。

 その後すぐに先生の誤解は解けた。そしてこの出来事を境に、先生と生徒の親密さが増した。

先生は、時々皆の前で泣くようになった。卒業を目前に、二年間で一人一人が成長したことを喜んで涙を流してくれた。

K先生の涙の思い出は、先生以外にも実は私のために涙を流してくれていた人がいたことを思い起こさせる。知らないところで、意外な時に、決して知られないところで流されている涙があったのだ。

幼い頃祖母から聞いた、母の涙のこと。私が人生で最高に荒れていた時代、母から聞いた父の涙のこと。表向きは不器用でうまく伝えられないが、本当はいつも心配でしょうがないのが親心なのだろう。そして、流された涙を知るまでは、愛情の形やしるしばかりを求めていた自分の愚かさに気付くことが出来なかった。


昨年、パッションという映画を見た。イエス・キリストが、ゲッセマネで血の汗を流しながら祈る場面から始まり、十字架上で息絶えるまでの映像は壮絶だ。この映画の中でメル・ギブソン監督は、神様の涙を描いている。天から大きな大きな涙の粒がイエス・キリストの十字架のそばに落ちてくる。ズシンと落ちて、地面を震わせる。

涙を見るまで、相手の本当の気持ちを知ろうとしないことがある。涙に込められた深い感情に心を向けないでいる現実がある。しかし、涙が流れてしまったとしても、それで終わりではない。涙はイエス・キリストが本当は誰であるか、大粒の涙の理由は何かということに注目させる力がある。


神様のお恵みをどうしたら理解できるのだろう。こんな問いに答えを見いだせずに過ごしてきた時期があった。

結果はどうする必要もなかった。神様の愛は、私が求める通りの結果として実を結ぶような仕方で示されることはなかっただけなのだ。

むしろ、私が期待した以上のお恵みが、求める前から既にずっと注がれてきたことを知った。

必要なのは、神様のお恵みをそのまま受け入れることだけだった。

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