美の来歴㊸ ピカソとヘミングウェイの〈移動祝祭日〉 柴崎信三
〈ミス・スタイン〉がいたころのパリ
1903年のはじめ、ガートルード・スタインが兄のレオとともに移り住んだのは、パリのモンパルナスの北端、リュクサンブール公園に近いフルリュス街にある庭の付いたアトリエだった。まだ30歳にもならない女主人のガートルードは米国ペンシルベニアの富裕なユダヤ系の家庭に生まれ、一家で毎年休暇を欧州で過すうちにパリに移住して、美術品の収集のかたわらみずからも作家として小説や評論の筆をとった。そのアトリエはやがて、20世紀を代表する美術や文学の名作を集めた、アーティストたちのサロンとなった。
有名な画商のヴォラールからセザンヌを買い付けたいきさつを、若い米国人の女性収集家のガートルードが友人にあてた手紙で誇らしげに綴っている。兄妹で開いたモンパルナスのアトリエを兼ねた画廊には、セザンヌやゴーギャン、ルノワールといった印象派の画家の作品が次々と買い集められて展示された。モンパルナス界隈の若い画家たちは、それを目当てに集まり、男勝りの女主人の周囲はいつもそんな客たちでにぎわうようになる。
ブラックやマリー・ローランサン、アンリ・ルソーといった画家たちにくわえて、詩人のアポリネールらの文学者もこのサロンのメンバーになった。
「色彩の魔術師」と評判を呼んでいたアンリ・マティスとともに、ラヴィニャン街の「洗濯船」に住んでいたスペイン出身の若いパブロ・ピカソは、毎週土曜日に開かれるガートルードのアトリエのパーテイに頻繁に足を運ぶ常連の一人だった。
ピカソの『花かごを持った少女』を買ったスタインは、そのころのピカソを「靴磨きの美青年みたいだった」と記して、貧しさを抱えたこの画家の若い魅力と才能をたたえている。
その女主人がピカソのモンマルトルのアトリエでモデルになったのは1906年で、ガートルードは32歳、ピカソは25歳。そこにはどんな感情の往来があったのか。女主人がポーズをとっている間、カンバスに向かうピカソの傍らで同棲していた恋人のフェルナンドが「ラフォンテーヌの寓話」を大声で読みはじめたというのは、もちろん嫉妬であったにちがいない。
ピカソの「ガートルード・スタインの肖像」は今日、画家が「青の時代」から「バラ色の時代」を経てフォーヴィズムからキュビズムの時代へと転換する節目の作品といわれる。そして、この作品の完成に至るいささか入り組んだ経緯は、その後「カメレオンのように変化する」という画家ピカソの〈絵画の革命〉を予感した、ひとつの証明のようである。
「ガードルート・スタインの肖像」を描き続けていったん完成させたとき、ピカソはモデルのガードルードに向かって、苛立つように叫んだ。
「これ以上いくらにらんでみても、もう僕にはあなたが見えてこない」
そして、描かれたその頭部をすべて塗りつぶしてしまうと、カンバスを放り出して3週間ほどスペインへ旅立ってしまったという。かくして旅から戻ったのち、画家はこの肖像画をモデルを見ないで描き直し、ようやく完成にいたったというのである。
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ピカソの伝記作者のローランド・ペンローズは『ピカソ その生涯と作品』でガートルードの風貌をこのように見立てたあと、ピカソが描いた肖像画が「最初の画面の顔はよく似ていて、彼女は満足したが、ピカソは不満であった」と述べている。
ピカソが完成させたガートルードの肖像は、モデルの実像とは相当にかけ離れた抽象化が施されている。全体が褐色の静謐な画面で、ソファにしっかりと腰を下ろしたガートルードの顔は鋭角的な線で描かれており、どこかで仮面を思わせる凝縮した表情が、モデルの実像から離れた強い象徴性を浮かび上がらせている。
「みんな彼女は肖像画にちっとも似ていないと考える。だがどうだっていい。きっとこの肖像画にそっくりの顔になるよ」とピカソは言って、この作品をモデルのスタインに贈った。写実絵画が目指した現実の再現という命題は、もはやここにはない。むしろ画家の想像力に現実が後から追いついて、造形が変わってゆくという新たな創造の逆説がそこに浮かび上がってくる。
ピカソの無意識ははガートルードというアトリエの女主人によって掘り起こされ、そこから得た霊感によって造形の飛躍の契機をつかんだのである。
ピカソの創造の生涯の転換点であるばかりでなく、近代美術の革命と呼ばれる『アヴィニョンの娘たち』を描くのは、この『ガートルード・スタインの肖像』を完成させた翌年の1907年のことである。
もとより『アヴィニョンの娘たち』は、氾濫したフォルムと色彩の爆発がつくるミステリアスな画面を通して、近代絵画の常識を根底から覆した。明るい褐色に彩られた5人の裸形の女たちが思い思いの姿勢で、のびやかにポーズをとっている。黒人美術の影響を色濃く受けたとみられるこの作品が、遠近法や陰翳の物差しから解放されて、絵画造形それ自体を構築し直すとともに、作者のピカソをフォーヴィズムの爆発へ導いていった大きな記念碑であることに、疑いをはさむ余地はおそらくない。
『ガートルード・スタインの肖像』でいったん描いたモデルの顔を捨て去り、ピカソが深い集中のなかで再構築した肖像の仮面のように深い静けさは、あるいは翌年の『アヴィニョンの娘たち』で爆発する色彩と造形の反乱のひそかな予兆であったのだろう。
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米国からパリに移住した23歳のアーネスト・ヘミングウェイが、結婚した年上の妻のハドリーを伴ってフルリュース街のガートルード・スタインのサロンを訪れたのは、1922年の3月である。米国の作家のシャーウッド・アンダーソンの紹介状を持参した。
米国が第一次世界大戦に参戦した1917年の春、高校を卒業したヘミングウェイはカンザスシティ新聞社の見習い記者の職を得た。しかし、第一次世界大戦の戦雲が広がる欧州の戦場の取材に惹かれて翌年退職、イタリア赤十字の傷病兵救援の任務を得て最前線に送られた。ところが、着任の一週間後にオーストリア軍の迫撃砲弾に被弾、重傷を負って米国に送還される。ようやく傷が癒えると今度はカナダのトロント・スター紙の契約特派員としてパリにやってくるのである。ヘミングウェイは23歳、ガートルードは43歳だった。
後年、パリ時代を回想した『移動祝祭日』のなかで、ヘミングウェイはガートルードの第一印象をこのように記している。ピカソが肖像画に描いた姿にそのまま15年の歳月を重ねた、田舎の母親のように落ち着いた中年女性の容姿がそこに浮かび上がる。
ガートルードの方でも、米国からやってきた初対面の青年作家は深い印象を残した。
ヘミングウェイは妻のボーリンとともにセーヌ左岸のアパートメントに住んだ。
リュクサンブール公園を横切って毎日のように美術館を訪れ、セザンヌやマネやモネの作品を見た。とりわけ、セザンヌの作品は短編小説の描写の奥行きを考える上で大きな示唆をもたらした。そしてフルリュース街のガートルードのサロンには頻繁に立ち寄った。
〈ミス・スタイン〉は自ら執筆している『アメリカ人の成り立ち』という長い小説の草稿を若いヘミングウェイに読ませて意見を求め、ヘミングウェイはそれを読んで感想を述べて、時には旧知の米国の出版社に取り次ぐといった親密なつきあいが生まれていった。
親から受け継いだ巨額の資産があったとはいえ、ガードルードがパリで次々と同時代の画家の作品を買い上げては収集していった理由は謎である。けれども、それは新しい才能を見出して育てることへの彼女の喜びであり、同時に彼女自身の自己証明であったのは確かである。
あるとき、彼女はヘミングウェイに向かって言った。
「服を買ったりしてたら、絵なんかは買えないわよ」
良い絵を集めよう思うなら、着るものに無関心になって、ファッションになど見向きもしないことだ、というのである。
短編小説を書きながら若さにまかせてパリの街を巡り、人に会い、酒を飲み、競馬を楽しむヘミングウェイが、セックスについての考えや行動を話題にのせることもあった。〈ミス・スタイン〉はそれに対し、独特の見解を述べ立てて批判し、虚無的なこの若者の行動を諭した。
自分の古いT型フォードが故障して修理に持ち込んだ自動車整備工場で、主人が手際の悪い若い整備工に「おまえたちはみんな《ジェネラシオン・ペルデュ》(失われた世代)なんだ」と叱責されている場面を思い起こして、彼女はヘミングウェイにこう言った。
もちろん、ヘミングウェイがのちに書く最初の長編小説『日はまた昇る』の冒頭で、「ガートルード・スタインの言葉」としてエピグラフに掲げた「あなたたちはみんな失われた世代なのです」という言葉の由来についての挿話である。戦線で心身に傷を負って戻った、欧州の戦間期を生きる若者たちの苦い心象とらえた、巧みな名付けである。
しかしイタリア戦線に救護員として身を投じたヘミングウェイの脳裏には、傷病兵を満載した搬送車の「夥しい死」と隣り合った記憶が蘇っていた。「人を自堕落な世代と呼ぶなんて何様のつもりなんだ、と思った」と『移動祝祭日』には記している。
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ヘミングウェイと妻のハドリーとの間には長男のジョンが生まれた。1924年に洗礼を受けた折には、ミス・スタインとパートナーのアリス・B・トクラスが「代母」をつとめた。しかし、ほどなくヘミングウェイとミス・スタインとの〈蜜月〉に亀裂が入るのも、実はこのパートナーのアリスが原因であったことを『移動祝祭日』はほのめかしている。
ヘミングウェイは欧州の政局などについて「トロント・スター」祇へ書くかたわら、妻のハドリーとイタリアやスペインへ旅をして、バンプローナの祭りや闘牛に親しんだ。
彼が闘牛への関心を深めたのは、ミス・スタインが恋人のアリス・トクラスとバレンシアの闘牛場の最前列で見たという、英雄的な闘牛士ホセリートを知ったからだった。
戦場でおびただしい生命の不条理を目の当たりにして、残虐な闘牛見物に消極的だったヘミングウェイはそれをきっかけに闘牛の虜となり、後年『午後の死』という英雄と死にまつわる闘牛を主題にした作品に引き寄せられていくのである。
ヘミングゥェイのなかのマチョイズモ(男性原理主義)や〈死〉と隣り合ったヒロイックな行動を、ミス・スタインは時々からかい、批判的なまなざしを向けた。彼の自尊心がそれに大きく傷ついたとしても不思議ではない。
それはフリリュース街のサロンでほとんど一心同体となって暮らし、秘書として振る舞い続けているアリス・B ・トクラスという〈恋人〉の存在がさせたようである。
或る爽やかな春の日の午前、ヘミングウェイがいつものようにミス・スタインのサロンを訪れてメイドに来意を告げ、女主人が二階から降りてくるのを待っていると、アリスの異様な話し声が聞こえ、それにかぶさるようにミス・スタインの懇願する声が響いてきた。
「やめて、子猫ちゃん。やめて、やめて、お願いだから、やめてちょうだい。どんなことでもするから」‥‥ふだんは男性のように野太いミス・スタインの声は、痴話げんかの甘えた恋人の声となって階下に伝わってきた。いたたまれなくなったヘミングウェイはすべてを察して、その場を去った。
セザンヌやピカソの名画が壁に並んだフリリュース街のミス・スタインのサロンから、次第に常連だった少なくない古い友人たちが女主人と喧嘩別れをして去っていくようになった。
ミス・スタインの〈小さな王国〉と別れたヘミングウェイは、それから第一次世界大戦の戦傷を抱えた「失われた世代」の虚無を描いた最初の長編小説『日はまた昇る』を発表した。妻のハドリーとは離婚して「ヴォーグ」誌の記者のヴォ―リンと再婚、フロリダのキーウェストへ拠点を移した。7年近くに及んだパリの〈移動祝祭日〉の日々はかくして終わった。