かごめかごめの都市伝説に物申す 2/2
『〝ちがい〟があっても〝まちがい〟は無い』とよく言います。私も、わらべうたをこれから学ぶという人には、必ずお伝えしていることです。
しかしそれは、「どんな解釈をしても〝まちがい〟ではない」と開き直っていいという意味ではなく、その受けとめ方は誤解です。ここにはとても注意が必要です。
例えば、牛蒡が『ごぼう』だとしても『ごんぼ』だとしてもいい、これは地域や方言の差による〝ちがい〟であって、どちらが正解か偽りかというものではありません。『東京タワー』が『スカイツリー』になるのも同様で、時代による変化である場合には間違いにはなりません。
それではどんなことが〝まちがい〟になるのか?
それは、言葉や遊びに勝手な解釈をつけることです。
前回記事では、「鶴と亀がすべるのは流産したことの隠喩」という流言について触れましたが、これは誤りです。(どういう検証が必要かは前回記事に書きましたので、知りたい方は参照してください。)
誤情報を信じて解釈にとりこんでしまうことは〝まちがい〟であると言えます。伝承から創作をすることは各人の自由ですが、それを伝承そのものとして広めてしまうと偽りになります。
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『〝ちがい〟と〝まちがい〟』の教えは、先人のわらべうた研究の考え方を読みこんで、自分たちの今後の考え方に活かしていこうね……というメッセージです。
「あぁそれは間違いじゃないね」とすぐにお互いの考えを許容しあえることも大事ですが、
それと同時に、「えっ、それは間違いじゃ…?」と感じた際には、思考停止せず疑うことが大事です。
ピンときたら、疑う……! 疑う心が、〝調べる力〟に繋がっていきます。
そもそも、勉強とはそういうものですよね。
先人たちの考え方を読みこんで、自分のなかで噛み砕き、〝自分の頭で考えるスキル〟に育てていくものが勉強・学びです。
また、間違いについては、攻撃的でなく穏便に、かつハッキリと指摘できるようになりたいものです。今回の記事はそのために書きはじめました。
Ⅱ.〝日ユ同祖論〟系……単語から似た音をとりだしていく検証の問題点
日ユ同祖論とは、日本人のなかにユダヤ人を祖先とする人々がいるのだ、という言説です。
学術的には完全に否定されているのですが、オカルト的な根強い人気があります。
(詳細は省きますので、wikipediaなどを参照ください。)
この説を信じたい人々がたびたび取り上げてくるのが、わらべうた『かごめかごめ』の中に隠されたユダヤの文化があるというものです。
最も多いのは、日本語とヘブライ語の「音」の類似点を取り出して、同祖欄に誘導するパターンです。以下に少しだけ記します。(誤情報であることを念頭において読んでもらえればと思います。)
・「かごめ」がヘブライ語の「khagor+mi」?
「かごめ」 「khagor+mi」…何を囲むか
「鶴と亀」 「tsur+kamea」…お守りの岩
このように日本語の「音」をヘブライ語に分解していき、読みとれる部分から意味を解釈していくという方法です。
最終的に「〝籠の中の鳥〟とは〝失われたアーク〟のことだ!!」というオチに辿りつくのが人気の理由?のようです。
(インディ・ジョーンズの映画でみたやつ! 第一作目のレイダース、あれは私も大好き、最高の映画です。)
実にロマンをくすぐってくる話です。だからこそ注意が必要なわけですが……。
しかし、こういった「音」による比較は、単語レベルでやっても意味がないということを、以下の記事がとても分かりやすく端的に解説してくださっています。
ŌYAMAさんは言語学の観点から、
“「単語のレベルじゃなくて音の体系のレベルで議論しているか」、「特定のテキストだけを対象にしていないか」というところをまず見てほしい。”
と伝えてくださっています。
ひとつの音だけでなく、音の体系を比較する作業をふまないと、学問としての前提を無視しているので議論にならない。
比較言語学とは、個々の語ではなく全体、音と形態の体系を比較するものである……「葉を見るのではなく森を見るもの」であるという例えが、とても分かりやすかったです!
私は言語学については素人ですし、わらべうたに関するこれまでの研究をかじっているだけですが、前提を無視して「何でもあり!」で話されると何でも正当化されてしまうじゃん……というお困りごとは、とてもよく分かります。
わらべうたに関しては、
・うたは動きと不可分である
・歌詞は<リズム・音節>を重視して言葉の組み合わせに趣向をこらしたものである
という前提があります。これを無視して、自説の補強のためにわらべうたの言葉だけ使用されると、「ちょっと待った!」それは間違いだよ!という事になります。
ちなみに…… 柳田國男の「かごめかごめ」論
『かごめかごめ』の「かごめ」が何に由来しているか?というのは諸説ありますが、
柳田國男が「屈め(かがめ)」ではないかと分析しているものが有名です。
この論に関しては、まず第一に遊びの動きがよく考慮されています。
また遊びのなかでは問答形式をとりながら、適した長さになるまで、連想で歌の文句がつけたされていくものだ……という、言葉の組み合わせについてもしっかりと理解がなされています。
正直、柳田先生には、ぶっとんだ仮説をたててから検証していくパワータイプの学者のようなイメージがあったのですが(ごめんなさい;;)、終始、誠実な考え方をされていて嬉しくなりました。
何より、わらべうたを通して〝日本の子ども〟本来の姿を真に理解しようとしている、その目的意識の確かさには頭が下がります。
以下、この章の書き出しの部分も素晴らしいので、引用します。
かいつまむと「動きと歌がしっくり合っているかどうかが、そのわらべうたが伝承かどうかの判断材料になる。」と仰られているわけです。
まさしく、その通りだと思います。
(やっぱり柳田先生はすげぇや……! と思わせられる『こども風土記』、まだ未読の方はぜひ読んでみてください👇)
・つまり「かごめ」は「籠目」でもない
また、これは余談に近いのですが……。
日ユ同祖論のこじつけ理由として、もう一点、論者にとても好まれているところである、
『籠目文様が〝六芒星のマーク〟だ!』という説の不確かさも、柳田先生の記述のおかげでだいたい説明ができます。
かごめが「囲め」であるか「屈め」であるかの諸説は、どちらも遊びの動きには沿っているので、どちらであってもいいと思います。
しかし「籠の中の鳥」はおそらく遊び方と問答形式のなかで生じた発想であり、また、「鶴と亀が滑った」も、より古い元歌を辿っていくと「つるつるつべった」であることが分かるために、やはり連想から生じた語句であると思います。
おそらく「籠の中の鳥」があまりによく出来ている語句で詩的にかんじられたために、本に載せるにあたり編集者によって「かごめ」に「籠目」の漢字を当てることがあったのではないでしょうか。
籠目説のほうが優位になるような根拠もないため、今のところ柳田先生の「屈め」説に軍配が上がるかと思います。
◇誤情報にまどわされないためのファクトチェック
一般的に、都市伝説の特徴といわれているものには、以下のようなものがあります。
・突飛な解釈だが、すこしだけ真実味が加えられている
・想像の余地がある
・世界の暗部を覗くような物語性
・知識欲をくすぐる(ある程度の見識がある人ほど釣られやすい)
「決して正しいとはいえないけれど、完全に否定もできない話」は、噂の流布としてとても都合が良いわけです。〝隠された真実〟のようなロマンがあったり、知識を得たような満足感があるために、悪意なく拡散されていってさらに認知を得ます。
ピュアで共感性の強い人は、特にウワサ話に熱心になるものです。まだ判断力の乏しい子どもも同様です。
大人になる過程で〝リテラシー能力〟を身につけていくことは、今後の社会で生きていくにあたって最も大切なことのひとつでしょう。
99%の人が一笑に伏したとしても1%の人が信じてしまうかもしれない……そうした情報が陰謀論であったりフェイクニュースであったり、昨今の社会には溢れています。
ファクトチェック、論理的な思考方法――というものを、できれば他人に教えられるくらいに言語化して整理しておきたいものです。大人として、これからの子ども達にそれを伝えていく責任もあるかと思います。
・「〝か〟〝ち〟〝も〟〝な〟〝い〟」 で覚えよう
先日、こうした「ファクトチェックってやつは…」の話をmastodonでお友達と話していたところ、覚えやすいステキな標語を教えていただきました。(ありがとう!)
か ……書いた(言った)人は誰か?
ち ……違う情報と比べてみたか?
も ……元ネタ(情報源・ソース)はどこか?
な ……なんのために書かれているか?
い ……いつの情報であるか?
いかがでしょうか? 私は今まで知らなかったので、こんな便利な標語があったのかー!と感激しました。
「最新の情報にアップデートされているかどうか?」は、コロナ禍で否応もなく学んだことではないでしょうか。常識だと思われていることが、すでに古くなっていることは多々あります🙄
本を見比べる際なども、いつ書かれたものかを必ずチェックしましょう。
また「誰が何のために(どういう目的で)言っているか?」は、個人的にも日々実感していることであり、とても重要だと思います……。
わらべうたに関して言えば、フィールドワーク(採集)を行う伝承研究のエキスパートと、
実際の子育て経験が豊富であったり子どもの発達を学んだエキスパートとでは、専門性が違います。
その人がどういう立場から発信しているか、という確認が、情報を受け取る側に必要です😌
わらべうたを学びたい人の目的が、子育てであっても、伝統文化の継承であっても、音楽教育への活用であっても、いずれにせよ構いません。
ですが、それぞれの分野を交錯しつつ学んでいくことが多いので、常に『なんのために?』の整理をしておかないと、検証の基準が分からなくなることがあります。
例えば、民俗学と文化人類学は似ていますが、学問として目指している〝目的地〟が違っていたりします。どちらの論考もわらべうたについて調べる際に助けになりますが、その〝ちがい〟を漠然とでも理解しておかないと、知識として上手な活用ができません。
◼︎情報は、読み解き方が重要であるということ。
◼︎そして知識とは、〝自分の頭で考える〟ため、つまり活用するために身につけるものであって、思考放棄したり頼りっぱなしではいけないということ。
……以上の2点が今回のまとめです!
私自身もこのことを肝に銘じて、これからも学び続けていきたいと考えています。