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主体性ってなんだ? というボヤきと、『龍が如く7』
私の興味意欲と好奇心の半分は、ゲームや漫画などのサブカルチャーに育ててもらったと思っています。(もう半分は合唱とわらべうたです。)
なぜそんなに雑学ウンチクが好きなの?と、お褒めの言葉(?)をいただくこともありますが(もっと褒めてくださっていいんですよ😌)それは根っからのオタクだからです。
なかでも最近は、名越康文先生のゲーム実況にハマって見続けています。
ここで、大変、タメになる知見を一つ得ましたので、共有(ご紹介)したく……。
【名越康文先生のゲーム実況から得た知見】
自分でもまさか、ゲーム実況動画(しかも龍…)をシェアする日がくるとは思いませんでしたが、本当に良かったので!;; 伝えたいところをまとめます。
※動画リンク【10】精神科医が分析する「龍が如く7」
龍が如く とは?
アクションアドベンチャーゲーム。
東京の架空の街「神室町」を舞台に、裏社会を生きる人々の抗争や生き方、人間模様を描く。
大人向けのエンタテインメント作品、というコンセプトの元、セガが開発・販売している。
👇以下より、時刻に下線がついた文字(リンク)に触れると、動画内のその地点から再生することができます!
◼︎正義にも、悪にすら、主体性がない
映画『仁義なき戦い』は、(ただの人殺しではなく)誰も責任をとろうとしない人殺しが起こりつづける、そこに恐ろしさがあった。
完全な悪ではあるけれど、一方で責任はとる、そういうヤクザ(の物語)もある。責任をとる裏社会と、責任をとらない裏社会があって、その全てが70年代映画で描ききられたかと思われたが、またこの現代にそういうテーマの作品(龍が如く7)が現れたことは面白い。
「悪にすら主体性がない」この絶望を描くのは、過去にスターウォーズも挑んだが、成功したかは疑問が残ると僕は思っている。
◼︎自我を超えた大きな知恵をもっている人間だけが…
主人公につきまとうこの刑事も、結局、主体を求めているんやんな。
正義の側に主体がないねん。
責任ある行動をとる人間がいない。
責任のある行動は全て自分で決めるわけではなくて、
自分という小さな自我を超えた
大きな知恵を持っている人間だけが、
主体として責任を持つ行動をとれる。
ひぇぇぇぇぇ?!?!🫨
思わずここで一時停止し、巻き戻し、何度か見返してしまいました。
〝自分という小さな自我を超えた
大きな知恵を持っている人間だけが、
主体として責任を持つ行動をとれる。〟
うわーー!!!!!!
自覚があるかどうかはそんなん小さい事なんですよ。
ある瞬間に利害関係を超えた行動を選びとる、他人に理解されなくても辻褄を合わせるように少なくとも動いてしまう、そういった知恵をときたま発揮するようでないと、主体化された人間にはなれない。
つまり、主体性があると言う事は、属する集団の中で「どういう役割を担うか」を考える・選びとるということ??? 🤔
おそらくですが、世界が自分一色だったら、自分がどういう役割を担い〝どうあるべきか〟という考えには至らない。よって自己の一貫性をもとうともしない。思想も哲学もいらなくなる……。
「役割を担う」とは、自分しか見えていない人間には、できない振る舞いであり、
そうして役割を意識できなければ、〝主体〟を獲得しようとする心の動きも起こらない……。
これ……めっちゃ面白い!! と思いました。(さすがすぎる、名越康文すげぇ、すげぇよぉ……😭✨)
(足立宏一という登場人物の補足)
以下、補足として、動画内で語られている足立というキャラクターの人物像を語らせていただきますが………。
真実を追う元・刑事 足立宏一 (演者:大塚明夫)
刑事として冤罪に関わってしまった、止められなかったことがショックで、警察上部組織に楯突くも……、権力によって揉み消され、クビになり、さんざんな目に合う。
それでもその汚い元上司たちを弾劾するために行動する。警察職を追われたとしても、めげない、自分なりの捜査を続けていく……! そういうキャラクターなのです。
(傍目には、酒と女にだらしがないオッサンですが。)
『主体性を求めている』
というワードで、足立さんを理解しようとするのは、本当に画期的だなと思いました。
もはや利害の話ではない。
と、いうのは、メリットなんて何がある?と思われる状況でも、彼は、もう傍観者にはなれない。(罪のない人を死なせてしまったという、トラウマティックな理由ゆえでもありますが……。)
諦めたが最後、自分がこの社会における『主体性』を失うということに、どこかで気づいているから、しつこい。諦めない。
自分を失わないようにしている。
彼にとっての〝自分〟とは、役職や属性ではなく、はたすべき役割のほうにあって、それを貫こうとしている。一貫性をもちたい、という望みが、キャラクターを動かす行動原理だということです。(酒と女にきたないオッサンでも!)
良い……!!
【教育における主体性のすりあわせ不足】
現代の子育て……学校教育でも保育園・幼稚園でもそうですが、『主体性』が大きなキーワードになっていますよね。
子どもが主体的に動けているかが、大人の監督・指導の観点になっている。
でも、その前提となる〝主体性〟の理解が、人によってバラバラすぎる! という事に、私はすごくモヤモヤしています。
『自分をもつ』と『自分勝手』の区別ができない大人たちがいる。そもそもの擦り合わせが上手くいっていないから、影響が子どもに及んでしまう。
「あなたはやらないで見ていなさい」を、なかなか大人が言わなくなりましたよね。その判断が難しいというのは分かりますが……。
「あっ、邪魔するなら見てなさい」とか、「今はそれをする時間じゃないから」とか。
集団として必要な制止をすることが、難しい時代であることと思考材料不足なのとが合わさって、どんどん不得手になっている。
制止が、子どもの権利侵害になってしまうのではないかという恐れを抱いている大人が多いように感じます。特に職業として関わる(社会的責任のある)人間が悩んでいる印象です。
──でも『権利』っていうものは、そもそも何でしょうか?
人権とは何か?! ここへの関心の薄さ自体が、もう、モヤモヤします。😠
「自分をもつ」という事は「他人を尊重する」とセットでなければならない。これは大人の世界でもそうです。
例えば、発言の自由の権利を守るならば、相手にも発言の自由があるということを理解し、互いに尊重しあわねばなりません。発言の自由と、言葉の暴力(他人への権利侵害)の違いはそこにあると思います。
◼︎〝自分〟の希薄な日本人
話は少し飛ぶかもしれませんが、日本人は「曖昧なものに人格をもたせること」が得意だとよくいいますよね。命のないものに人格を与えるのが得意なのは、もちろん美点でもあります。
現代社会ではどうか? 「会社に迷惑をかけられない」「世間様に顔向けできない」とか、ふわっとした曖昧なものを自分以上に大事にしてしまうところが、いまだに意識として強いですよね……。
日本人は自己主張をしない、ということも言われますが、そもそも〝自己〟を意識しない時代が長かったのだ、というところから理解するのが良いかと思いました。
個を単位として思考するのではなく、〝家〟や〝寄り合い〟のような所属のまとまりを単位に思考をする癖がある。なぜなら、自分を軸に生きるという習慣が、つい最近まで日本にはなかった……。
しかし、これも日本人の特徴ですが、内と外、の区別をつけて、「身内の問題」かどうかで判断してしまう、コロッと態度を変えるところもあります。
『自分には関係のないことだ』と意識の外側にうっちゃったものに対しては、どこまでも無関心になれる……そういう性質も強くないでしょうか?
〝会社〟に内向きの所属を感じられても、その外側の〝社会〟にはなかなか所属意識を感じられていない。
だから、選挙に行かない。(投票率あがってほしい〜!!)
やや安直な理論展開かもしれませんが、そういう 所属感覚がないから意思決定に参加しない っていう頭の仕組みなわけですよね……。(または選挙に行っても、会社に命じられたとおりに組織票を投じるだけ、という。しんどい。)
◼︎個の確立⇔パブリック(公共)の確立
もっと、個人の自由を確立し、個を単位にものを考えることをしなきゃいけない。
しかし、それと同時に、個人や個々の集団を超越したもっと大きなくくり……つまり〝パブリック(公共の社会)〟を確立させること。もっとパブリックにものを考えることもしなきゃいけないのだと思います。
政治家の失言はなぜくりかえし起こるか?という問題を取り上げてみると(森元総理とかね…)、彼らが『パブリックな発言を意識できないからだ』という解釈をするのが、分かりやすいかと思います。
身内むけの明け透けな物言いが支援者にウケて、ウケるからとそれを繰り返すと、パブリック(公的な場)で発言しているという意識が失くなってしまう。そして失言をする。
外側から己を俯瞰することを止めてしまうと、人はどんどん露悪的になっていくのかもしれません。
最近、SNSで勧められて読んだ本『「甘え」の構造』にて、そういった日本人の思考特徴がとても仔細に語られており、大変参考になりました。
(マストドンのフォロワー様(あっちでは違うHN名乗ってるけど……)おすすめいただき、ありがとうございました!)
身内感覚で「甘えたい」、そして「甘えさせたい」。そのためなら頑張れる。
しかし子どもに甘えられることで安心したいのは誰でしょうか。大人側が「甘えられる心地よさ」に依存しているだけかもしれません。
大人の精神が自立できているのかどうか?
そして大人が、パブリックを理解できているかどうか?
結局、大人たちが先に変わらないと、子どもの主体性の理解は難しい😓そういう結論に至りそうです。
個人の力と、個々人の利害を超えた社会集団の力を、どちらも信じて成り立たせていく。
これが主体を失わずに己の役割を感じて(社会との関わり方を決めて)生きていく……ということなのか? と、直感的に今は思考を繋げてみましたが、どうなのでしょうか……。
私ももっと勉強しないといけませんね。
◼︎ロールモデルの重要さ
先程から何度か、『役割』という言葉を使ってきました。役割というと、ロールモデルが思い浮かびます。
模倣される〝モデル〟として機能する人、これを、『ロールモデル』と言います。
ロール(役割)、モデル(規範)。
例えば企業内では、中堅社員に「新人のロールモデルとなってくれること」を期待し、全員の成長を促そうという目的で積極的に使われます。
私が注目するのは、社会におけるロールモデルです。
お手本となる人物像、若者の手本となる先人の姿。
「あぁ、自分もこういう風になりたい」そう思える人に出会えるかどうか。
「こういう親になりたい」とか、「こういう粋な大人になりたい」とかね。
仕事と家庭を両立している人、習い事をつづけて師範代にまでなる人。
スキルの高さだけでなく、その生き方を模倣したい、と思える人生の先輩。そんな人が近くにいてほしい、何度も会って刺激をもらえるような距離にいたらどんなに良いかと、誰しもが求めています。
一人ではなく何人か欲しいですよね。
何人も何人も見て、それも一時的な姿ではなく長いスパンで触れていった結果、そこから「あぁ、自分もこういう風に歳をとっていけばいいのか」と、自分にとってのロール(役割)をつきとめられるわけです。
生きる態度、世界への態度。
不正をせず真剣にとりくむ大人の姿を、特に若年層はずっと求めていると思います。
余談ですが、私自身も属しているLGBTQ+の話題を上げると……。
LGBTQ+の若者、特に、トランスジェンダーの若者は、身近にロールモデルがいないという傾向があります。
統計的にトランスジェンダーは100人に1人と言われていますから、その100人に1人と実際に出会い、人生の手本として長いスパンで友好関係をもてるかというと、とても機会に乏しいことは想像できるかと思います。
(今はインターネットもありますから、デジタル上の付き合いを含めれば皆無ではなくなるとしても……。)
属性がまったく同じでなくても、広い意味でLGBTQ+内にいる人の活躍を見て、励まされることもあるかとは思います。報道やドキュメンタリーに触れるだけでも、なんとなく感じがつかめたり、安心する。
あとは、同性カップルの子育て! ここにも、今とても関心が集まっています。
子育てほどロールモデルを必要とするものも、おそらく他にないのでは?
親としての手本、家族をつくっていく姿、これが今すごく求められていて、報道の需要もあると実感しています。
◼︎主体性は〝関わり〟でうながされる
模倣相手を選ぶ、「このひとの真似をしたい」と思えるかどうかは、
ただ同じ空間にいるだけでなく〝関わり〟の結果によるものと、強く思います。
どういう風に、まなざしや関心を注がれて、積極的に関わってもらったか、ということ。
「一緒にやる?」と背中を押してもらうこと。
「どうしたの、困ってる?」と手を差しのべてもらうこと。
「どうしたらいいかな、みんなで考えてみようよ?」と促してもらうこと。
そこで考えて提案したら、自分の意見がちゃんと反映されて集団が変わった!……という経験。
このくりかえしが、『他者との関わりがあって自己が確立する』という、人格形成において重要なことではないでしょうか?
たくさん関わる、は、ただ『子どもを褒める』とか、判で押したような笑顔がつづくことではないと思います。
本当に関心をもって接してくれているかどうか。うわべの言葉かどうかを、意外と子どもは見抜きます。
「先生は、僕のことも、みんなのことも、よく見てくれている。」
人が大切にされているところを見て、自分も安心する……なんて場面もよくありますよね。
また、そういった大人の態度を模倣することも、子どもの成長になります。
役割に感謝したり、感謝されたり。自分と他人をともに尊重されていくこと。
私自身、10代のころに、「君はよく人を見ているね、人が好きなんだね」とバイオリンの先生に言ってもらった出来事が、その後の自分をずっと励ましてくれたと感じています。
「君は上手い人のなかにいたほうが吸収できるタイプだから、まだ下手だけどアンサンブルに入れてあげよう」
そう言って、本当にろくに弾けないのに(笑)、上のグループに入れてもらいました。
その後も何かにつけてあの時の嬉しさを思い出し、「私は人のなかに居たほうがいいからなー…!」と、外向的な努力を諦めないためのモチベーションになっています。
今も実感しています。先生は私の人生にとっての、偉大なロールモデルです。
◼︎「自分で決めなさい」と放り出すことではない
子どもにずっと「自分で決めなさい」を言い続けることが主体性をうながす関わりではない。
選択という責任を、むやみやたらに与え続けることになってしまいます。
子どもに選択をさせることが、大人が責任をとらなくて済むという、逃げの隠れ蓑になってはいないか?
これは考え続けなければなと、自戒の念もこめて……書いておきたいと思いました。
社会全体を見ても、今はなんだかすごくプレッシャーだけが大きく、間違いを恐れて尻込みしている状況ではないでしょうか?
『何もしないほうがマシかな』理論に傾きがちです。
そうすると、子育て・人育てが、ただ放置するばかりに向いていくようになっていくと思います。そうしてどんどんと関わり下手になっていく、大人も子どもも。
そこの悪循環を……断ち切りたいですよね。
そんなことを、ゲームをきっかけにではありますが、あらためて課題認識した次第です。