1つの語りが支配的になること

 最近の教育論議の中では、「被害性」が強調されているように思う。例えば「校則」。コーンロウの髪型をして卒業式に参加した生徒を、他の生徒とは別の場所に座らせたという話があった。これは多様性の問題としてどうなのか、と議論が巻き起こった。茂木健一郎氏はそれを指導した教師に対して、「クソみたいな教師」「恥を知れ」と痛烈な批判をした。「学校における多様性の尊重」という論題が大手を振って人々の議論の中を駆け巡ったが、その議論の背景にあったのは、コーンロウという髪型にしてきた生徒の「被害者性」であった。 AbemaニュースなどのネットTVで議論された際には、髪型をコーンロウにしてきた生徒を批判的に見るような言葉も見られたが、それはあくまで「被害者性」に向けられた批判であり、多様な語りに目を向けたものではなかった。教育とはそもそも、多様な語りのぶつかり合いの中で営まれる現象ではないのか。

 教育を子どもに行おうとする時、教育に関わる大人は自分なりに子どもの「成長の物語」を構想する。「かけ算を学んで習得していってほしい」という小さい規模のものから、「学校できちんと勉強して、社会に出てもなんとかやっていける人になってほしい」という大きな規模のものまで、様々なものを構想する。願望や希望とも取れる、そういった大人の「成長の物語」に合わせて、子どもは自己を「物語的」に理解する。「自分はかけ算を学び習得していくのだ」といった具合である。

 それだけではない。物語は語ることの中で聴き、聴くことの中で語るという二重化されたものであるため、教育という営みも決して一方向的なものとして収束していくことはない。子どもは単に大人の構想する「成長の物語」の聴き手であるだけでなく、聴くことの中で既に語っているはずであり、教育に関わる大人は、このような子ども自身が語る物語の良き聴き手でなければならない。「九九を覚えるのが大変」「かけ算の筆算がわからない」といったものから、「かけ算を学ぶ意味がわからない」「かけ算を学ぶ意欲が湧かない」といった大人の「成長の物語」の根本を揺るがすような語りまで、様々な語りが現れてくるはずであり、それを教育に関わる大人は聴く必要がある。その意味で教育は、子どもが自分なりに物語を形成していくことへの援助であると見ることもできる。

 さらに、そのやりとりは「多声的」でもある。子どもの「健やかな成長」を願う大人は、子どもの周りには大勢おり、それぞれの大人が各自の視点から子どもの「成長の物語」を構想する。時には複数の「成長の物語」がぶつかり合うこともある。「子どもの健康的な成長のためには、子どもを何とか学校に行かせるべきだ」という物語があれば、「子どもが行かないと言うのなら、学校に行かせず、学校以外の場での学びを大切にすれば良い」という物語もある。複数の物語のぶつかり合いが教育を複雑にし混乱を招いているともとれるが、単一の「成長の物語」が支配的なることは、かえって教育のあり方を歪めることにもなりかねない。

 冒頭の話に戻ろう。最近の教育論議において、「被害者性」が強調されているという話だった。勿論、被害者を見る目線は重要だ。不登校にしてもいじめにしても、性的マイノリティにしても体罰にしても、セクハラにしてもそうだ。教育活動における所謂「被害者」とされる人を取り上げ、その「被害者性」を強調し議論する。それは「被害者」のスタンスから教育問題を語るというだけでなく、教育問題を「被害者」を中心とした議論で捉えようとするということも含まれる。コーンロウの議論で考えるとすれば、「髪型をコーンロウにしてきた生徒が文化的差別を受けている」「学校に多様性はないのか」「そもそもコーンロウにしてきた生徒が悪い」といった議論は見られても、「その場にいた先生はどう考えて別の場所での参加としたのか」「当事者は学校や家でどんな状態だったのか」といった別の語りにはあまり目が向けられない。「学校に多様性は必要ないのではないか」といった極端な語りではなくとも、「被害者性」を強調した物語が支配的になっていくことが果たして教育を良いものとするのか、教育のあり方が歪められる可能性はないのかを問い直すことが必要ではないだろうか。

 これは教育だけに限らないと思う。社会のあり方や進んでいく方向性を考えていく上でも大切な視点ではないかと思う。教育以外についてはまた別の機会に書いてみようと思う。

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