映画感想もどき『JOKER:Folie à Deux』

「ジョーカー」は「ポリス的動物の生み出した脆弱なシステム=社会に対して報いを受けさせる」概念であって「報いを受ける」人ではない、という前提でいるので少なくとも俺のジョーカー解釈とはかけ離れた作品。前作はその脆弱なシステムの崩壊を描いたのでジョーカーとして成り立っていた(筋が通っていた)し、それはクライマックスに適した画だった。
ロックのいうところである「万人の万人に対する闘争」つまり孤独な状態こそがジョーカーを生み出した原因かつ力の源で、映画的には強力なメッセージ性を孕んでいたわけだが、ハーレイ・クインというファム・ファタール的な存在によってそれはあくまで男性性的な欲求の発露でしかないことが暴露され、しかも孤独を拒否してしまったために力を失いあの結末と至る。ひとつの物語として面白いと思うが、果たしてそれは「ジョーカー」である必要があるのか。確かにあの「ジョーカー」がこんな惨めな終わり方をするというのは意外性があるとは思うが、それはその「ジョーカー」の描き方はジョーカーにならないからやってこなかっただけで、決して良い意味の意外性ではないことを制作陣は気づくべきだったように思う。
思うにこの作品群はタイトルを『Arthur』にするだけでもいくらか評価はマシになる。少なくとも今作はそうだ。なぜならジョーカーは登場しないから。画面には「ジョーカー」をやり終えてしまったアーサーしかいないから。この絶望感は観客をハーレイ・クイン側への共感へと繋げる。
これをジョーカーの映画じゃなくてハーレイ・クインの映画とするのであればかなり面白いのではないかな、とは思った。心酔した憧れの存在はハリボテでしかなく絶望し、ジョーカーを超えるアンチソーシャルのシンボルへと駆け上がっていく。しかし正味今回のハーレイ・クインはあんなに美味しいキャラなのに如何せん印象が薄い。だからそれはそれで虚構すぎるのでやはりアーサーに行くところまで行ききって欲しかった。
どれもこれもトッド・フィリップスが正気になってしまったのが悪い。下手に前作が売れてしまって、気恥ずかしくなる内容だったことに気づいてしまうのは分かるが、こういう作品を作って責任取ったつもりになるのはもっと良くない。なぜならそれは誰にも響かないから。響かないのであれば、それは製作の意味を失う。
画の力は相変わらず強い作品で、レディ・ガガのハーレイ・クインもビジュアルが本当に素敵だっただけに残念と言わざるを得ない。
しかし、この作品はホアキン・フェニックスという役者の凄まじさを残すことには成功した。監督の意向を汲み取り、「ジョーカーになりきれないアーサー」というキャラクターの汲み取りを精密に行い、完璧にこなした。笑い方の性質の変化にも良く表れているが、前作とは最早別人とも言えるほどに変わってしまった主人公に説得力を持たせたのはホアキン・フェニックスの力量あってこそだろう。

つか最後アーサーを刺したあの男マジで要らんすぎる。

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