大元を知っているから目に浮かぶ光景
若鶏の初卵です。
モリガキ農園とお付き合いするようになって4年ほどだろうか、初めて送られてきて、そうだ、そういう瞬間があるのだと、今まで意識できなかった背景が見えるようになった。
鶏舎を見学に行った時に、1歳、2歳、3歳と分けられていて、それぞれの鶏の卵の特徴を教えて頂いた。
それまで白身がハリがあるのは新鮮の証と誤認していたけれど、新鮮でも老鶏のは緩みがちだそうだ。もちろん若くても体調に左右される。
割る度にサイズの違いや、白身のハリからどんな鶏かなぁと想像する、大元を知っているから目に浮かぶ光景だ。
現在、クラシックでは平松麻さんの絵画展を開催中。これは水まきという絵。
大多数の人は、右の黄色を麦か米と想像し、雲が水を撒きに行くか、撒いた後だという感想を述べる。
半自給自足的な暮らしをしている藤吉夫妻は、それぞれ別々に聞いたのだけれど、今までにない同じような意見だった。
大志さんのお話だ。左から雲が水を撒きにやってきた…が麦(水田ではないから麦畑だという見解)の前で急停止。水は撒かないと言う。
なぜ?と聞くと「だって、刈り時だから!」と。たしかに、ここに水はいらない。むしろ水をかけてはいけない。
食べ物の最初から最後までを毎日、毎年見ている、大元を見ている人ならではの意見だなと思ったのだった。
彼の言葉は単純明快、たった一言で「ほんとうにそうだね」と納得してしまう。↓ちなみにこの時の陶芸家(麺職人)は大志さんだ。
妻は斜め上の意見だった。
右の麦軍団が、逃げていく雲に「水をくれ〜」と追っかけている物語だそうだ。
そう言われたらもうそれにしか見えなくなる。
固定概念の怖さ、そして同調圧力というものを抽象画を語り合う中で再確認できたのだった。
この写真を見て伝えたくなった事があった。
料理人としての僕の大元にある言葉だ。
16歳の時研修先のシェフに言われた言葉。
「いつ、どんな時も、生卵や熟れたトマトを扱うように」
今までずっと、そしてこれからも、そうしていきたいし、伝えていきたい感性だ。
18歳の時にお世話になっていた、西麻布系ちょいワル(エロ)オヤジシェフには「女を扱うように😎」と言われたが、意味は同じなのだが、自分はその言い方では伝えられそうにない。
前者はほんの一時期だけの付き合いだったけれど、後者は今でも親交がある。
自分の大元は風に乗って運ばれてきた種のようなもの。なんだか不思議ですね。