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【アニメ一考】葬送のフリーレン#4~何をするか/誰とするか~


アニメ「葬送のフリーレン」を観て考えたことを書いてみるシリーズ。
前回までの記事はこちら↓

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#2
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この記事はネタバレを含みます。
気にされる方はご注意ください。



2つが重なるところ

報酬として受け取るフランメの魔導書。
それが偽物だとわかっていて、海岸の清掃を引き受けたフリーレン。

なぜ引き受けたのか、ただの善意とは思えないと問うフェルンに
「困っている人がいるみたいだったからね」
「これは自分のためだ」
と答えるフリーレン。

困っている人のため。
フリーレンが答えたその答えもフリーレンにとって事実だったのだろう。ただ、目的はそれだけではなく、旅の軌跡を辿って確かめたいことがあるためでもあった。

「自分がしたいこと」と「人のためになること」
その2つが重なったのが今回の依頼だった。

何かをする時、それを構成する要素の中に「自分がしたいと思っていること」が含まれていることは、モチベーションを保ち、その行動を継続するのに重要なことのように思える。

自分の目で見て確かめて

朝が壊滅的に苦手なフリーレンが、徹夜までして日の出を見る新年祭に参加するという。
フェルンがどうしてそこまでしてと問うと、
「正直興味はないよ。だから見て確かめるんだ」
とフリーレン。

前回の旅の中で新年祭にまつわるヒンメルとの会話があった。
ヒンメル「なぜ新年祭に来なかったんだ」
フリーレン「みんなは行けたんだからそれでいいじゃん」
ヒ「僕たちはね、君にも楽しんでほしかったんだよ」
フ「ただの日の出でしょ、楽しめるとは思えないけど」
ヒ「いいや、楽しめるね」
フ「どうして?」
ヒ「君はそういう奴だからだ」

フリーレンはこの言葉の意味を確かめようとしていた。

そして、フェルンにたたき起こされ、日の出を見に行ったフリーレン。
「確かにきれいだけど、早起きしてまで見るものじゃないな。ヒンメルは私のことわかってないな。」
最初はヒンメルの言葉の意味に気付かず、そう思ったフリーレンだが、フェルンの
「でもフリーレン様、少し楽しそうです」
という言葉によって、喜んでいる自分の感情とその感情が何によるものなのかに気付く。
「フェルンが笑っていたから」

「私1人じゃこの日の出は見られなかったな。」

その後にフリーレンが呟いたこの言葉は、フェルンが言っていたように1人では起きられないという直接的な理由もある。
だが、フリーレンの言葉には他の意味が含まれていた。

日の出自体よりフェルンと共に日の出を見るという体験の共有、そして何より、日の出を眺めて笑うフェルンの姿を見られことによる自分自身の喜び。

「”この”日の出」の指示語には、「日の出」自体ではなく「日の出(を見て微笑むフェルン)との思い出」のことを指していると感じた。


ヒンメルの言葉に気付いたこのシーンは、観ているこちらまで思わず微笑んでしまった。
そしてこのシーンが好きで、思わずその多くを抜粋してしまった。


何をするかより大切なもの。
それが、誰とするか。
自分がすることの価値とは別に、それを一緒にした人とのワンシーン(思い出)の価値がある。

「何をするかより誰とするか」
それを再認識させられるシーン。


自分の今までしてきたや旅行のことなどを思い返してみても確かに、
残っているのはその時「何をしたか」ではなく、その時「誰がどうだった」というようなことだ。

例えば、旅で長崎に訪れたときのこと。
いきなり話しかけてきたガイドのおっちゃんに自分の車を半ば強引に運転され長崎の町を案内されて車の後部座席で疑心暗鬼の中、友達と顔を見合わせたシーン。
長崎の街並みなんかよりも、そのおっちゃんの行動や当時の友達の表情や感情の共有なんかの方がはるかに鮮明に思い出に残っている。

同じ「長崎への旅行」であっても、その空間をともにする人の存在でその価値は大きく変わるように思える。(もちろん一人旅には一人旅の良さがあるが)

人と時間を共有することの尊さ。
また、自分が限られた時間や空間を共有したいのは誰なのか、大切にしたい人は誰なのかを立ち止まって考えたくなった。


過去、アイゼンに弟子を取らないのかと問われ「時間の無駄」と答えたフリーレン。
そのフリーレンが今は弟子を取り、弟子の誕生日を祝い、ともに旅をしている。
この回想シーンについての事柄は、さらに長くなってしまうので次回に触れることにする。

あるかどうかよりあるべきかどうか

人は死んだら無に帰る?
天国に行く?

ヒンメルパーティー内でそんな議論があった時のハイターの言葉。

「私も実在するかはどっちでもいいです。」
「でも、たとえ実在しなかったとしてもあるべきものだと思います。」
「その方が都合がいいからです。必死に生きてきた人の行き着く先が無であっていいはずがありません。だったら天国で贅沢三昧していると思った方がいいじゃないですか。」


それによって、そのときの議論は終結する。


あるかないか。
よく物事は存在の有無によって語られる。
でもよくわかっていないものについて、存在の有無について考えたり主張しあったりするよりも、都合よく解釈する方がいいこともある。

日常生活でもそんなことあるかもな。
運命だとか占いだとか。
信じた方がことがうまく運んだり、幸せになれるなら、あえて実在するかなんて探る必要はないのかもしれない。

情報が溢れる現代社会でも、人に迷惑をかけず、自分や周りの人達がご機嫌に過せるように、そこにある情報をうまく使う。
そういう情報との上手い付き合い方が豊かな生き方にも繋がるのだろう。


最後にもう少しだけ。
大魔法使いフランメの手記を探す場面で、フリーレンがブドウに魔法をかけ、3人で食べるシーン。
ここからもフリーレンの変化が感じられて好きだ。
フリーレンはちゃんとアイゼンの好物を覚えていて、それを食べることをともに楽しんだ。
ちょっとした幸せの光景。



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