手話という言語について
最近、世間ではTVドラマ等の影響か”手話”という言語が注目されている。
手話とは主に聴覚に障がいのある人が手・指や体の動き、視線や表情などを使って表現する言語である。
聴覚に障がいのある人と接したことがない、あるいは手話自体を見たことがない人にとっては馴染みがない言語だといえる。
私が手話に触れたのは5年前、つまり社会人になってからであった。
当時、私が配属された部署の上司が聴覚に障がいをもっていた。
同部署内のコミュニケーション手段は、”手話”あるいは”筆談”が主であり、必ずしも全員が手話を体得している訳ではなかった。
まずは書店で”手話事典”を購入し学習に努めたものの、半年〜1年経過するものの実践的に手話でコミュニケーションを取ることができなかったのである。
当然”手話をする側”だけではなく手話をされる側、つまり”手話を読み取る能力”が必要であることや挨拶などの日常会話のみならず”ビジネス会話”が必要である点で体得に苦慮していた。
しかし、手話を体得すること自体が目的ではなく、本質は”上司とコミュニケーションをとること”だと考え、手話で分からない部分は身振り手振りのジェスチャーや口話を用いて純粋にコミュニケーションをとることを意識した。
そして遠慮なくその場で教えを乞うた。
そうすることにより円滑にコミュニケーションがとれるようになっていった。
すると上司から、『想いや行動が心に伝わった、そうしてくれるのを待っていた、ありがとう、嬉しいです』と伝えられた。
まがりなりにも、そう伝えてくださったことが、ただただ嬉しかった。
いまは病院勤務であるため、経験を活かして医療用語の手話表現を勉強しているところである。
最後に、この経験から、その人に聴覚障害があるからコミュニケーションがとれないのではない。自分が手話ができないからコミュニケーションがとれなかったんだと気付かされた。
障害は障害者の側ではなく社会の側にある、つまり、自分の中に障害があったのだ。
地球上の人間は、障害も含めて”個性の集合体”として考え、”障害”だからではなく”その人の個性”に合わせられる人間でありたいと強く思う。